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あび卯月☆ぶろぐ

あび卯月のブログです。政治ネタ多し。
お気軽にコメントなさってください☆

私の声優史 第一回

2007-07-06 02:27:44 | 漫画・アニメ
最近、私の中で大谷育江ブームが到来している。
「大谷育江」という字面を見てピンと来たあなたは多分声優ヲタ。
少なくともアニメに詳しい方でありましょう。
もったいぶらないで言うと、大谷育江さんはポケットモスンターのピカチュウの声を担当している声優さんだ。

私は声優ヲタを公言しているが今までブログでは声優の記事を書いた事がなかった。
いい機会だから自分の経験を交えて九十年代後半からの声優史を書いてみようと思う。

私はものごころついた時から、アニメ、テレビのナレーション、洋画の吹き替えなどの声に興味があった。
つねにこの声は誰々だと意識しながら見ていた。
大体、幼稚園に通っていた頃からそうだった。
声フェチというとニュアンスが違う気がするがそれに近いものとみていい。
はじめは声だけを確認していたが、じきに声優の名前も覚えてゆく。
そんな私が声優に興味をもったのは自然な流れであった。

本格的に声優ヲタクになったのは中学三年ごろ。
当時は横山智佐に嵌っていた。
きっかけは横山智佐が週刊少年ジャンプの投稿ページ「ジャンプ放送局」のアシスタントだったこと。
それを発端に声優関連の雑誌などを買うようになり、果てはCDやビデオまで買うようになった。
アニラジと呼ばれる声優のラジオも聴くようになった。
私が聞いていたのは「広井王子のマルチ天国」(横山智佐が出ていた)、「國府田マリ子のGM」、「林原めぐみのハートフルナイト」、「mamiのRADIかるコミュニケーション」、「瞳と光央の爆発ラジオ」、「平成アニメっ娘倶楽部」(なんて恥ずかしいタイトル・・・)、などなど。
ファンだから聞いていたのは「広井王子のマルチ天国」くらいであとは別段ファンでなくても声優ラジオということで聴いていた。

横山智佐は完全にアイドルとして好きだった。
モー娘ヲタはよくイタいと言われるが当時の私はそんな感じだった。
かなりイタい子だったと思う。
いま思い返してみると恥ずかしい限りだ。
横山智佐のファンだったことは私の黒歴史であるが、この時期、相当多くの声優を知った。
九十年代後半というと第四次声優ブームといわれる時代で、アイドル声優が跋扈していたし、声優関連の雑誌も多く出版されていた。
いま声優雑誌の数は全盛期の半分くらいである。
「アニラジグランプリ」という声優ラジオの専門誌も今は休刊となっている。

当時アイドル声優として人気のあった声優は林原めぐみ、宮村優子、丹下桜、椎名へきる、國府田マリ子、井上喜久子、氷上恭子、岩男潤子、飯塚真弓、桑島法子、豊島真千子、三重野瞳あたりである。
この中でいまも人気を保っているのは林原めぐみと井上喜久子くらいのものであろう。
私は声優、ことにアイドル声優の多くを知ったが、声を知らない人も多かった。
というのも、アイドル声優はいわゆるオタク系のアニメに多く出る。
意外かもしれないが、私はオタク系のアニメをほとんど見なかった。
今ではさほど抵抗は無くなったが、中高生の時分はオタク系アニメを殆ど嫌悪していた。
だから、今でも声優を知っている割にアニメを知らないのでアニメオタクからは馬鹿にされることがある。

横山智佐を卒業した後、好きになったのは宮村優子だった。
(横山智佐を卒業したのは自分のイタさが嫌になったからだと思う)
宮村優子といえばエヴァンゲリオンのアスカが有名だが、私はエヴァなんてオタクがみるアニメだと思っていたので興味すらなかった。
私が宮村優子を好きになったきっかけは、「宮村優子の直球でいこう!」というラジオ番組を聞いたことと、決定的だったのはある雑誌に載ったラジオメンバーとの座談会記事を読んだことによる。
その座談会で宮村は岩田光央とトークを繰り広げるのだが、下ネタやオヤジ発言のオンパレードで私はこんな声優が居たのかと衝撃を受けた。
元来、ギャップに弱い私は見た目が好みだということもありすっかり好きになった。
CDを買って聞いてみるとますます好きになり、ほとんど“みやむーキチガイ”になった。(「みやむー」は宮村優子の愛称。)
みやむーの歌の魅力はここではなんとも語り尽くしがたいが一言で言うと唯一無比なのである。
他の声優ソングに無いものをみやむーは持っていた。
わかりやすくいうとぶっ飛んでいた。
作曲者陣を見てみればわかる。
関口和之(サザンオールスターズ)、大槻ケンヂ、戸川純、平沢進、高浪慶太郎(元・ピチカートファイブ)、ジッタリンジン・・・。
この濃さは他の声優ソングにはなかった。
ラジオでのみやむーも凄かった。
下ネタ、オヤジギャグ、シュールのオンパレードだった。
下ネタはここに書くのを憚られるような内容も多々あり、今考えてみるとよく放送できていたなと思う。
事務所もよく許したものだ。
本人も自分のことを「企画モノ声優」と言っていたので、イロモノと自覚して色々やっていのだろう。
こんなアイドルの規格から随分外れた宮村優子もデビュー当時はきちんとアイドルをやっていた。
1995~96年頃のことである。
もともと、エヴァの御蔭でブームに火がついたのでアイドルをやらざるを得なかったのだろう。
むろん、私はこの頃の宮村優子を知らない。
97年頃から次第にどんどんやさぐれて、私が知る頃にはすっかり下ネタ声優となっていた。

宮村優子ファンだった時期は横山時代と違って、私は宮村優子をアイドルとは思わなかった。
いわば、パンクロック歌手みたいに捉えていた。
だから、人が宮村優子の悪口を言ってもむしろ嬉しかったし、AV出演疑惑騒動が起きた時も「みやむーならありえるかもしれない」とむしろニヤニヤしていた。(なんて酷いファンだろう)
私にとって宮村優子はそんな存在だったのだ。

みやむーは2004年に結婚して今は第一線を退いているが、私はいまでも密かに応援している。


つづく

「著作権法の非親告罪化」大反対

2007-06-08 02:12:38 | 漫画・アニメ
http://news.ameba.jp/2007/05/4871.php
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_b72f.html

とんでもない法案が審議されている。
著作権法が非親告罪化されるかもしれないかもしれないのだ。
竹熊健太郎氏は「パロディ同人誌などにも深刻なダメージが加わる可能性があります。」と述べているが私もそれを危惧している。
先日の「ドラえもん最終話」事件のように他の同人作品も同様にかたっぱしから規制されたら堪ったものではない。

先日もコメント欄に書いたが「海賊版」は明らかに著作者の権利を侵し、ひいては著作者に多大なる不利益をもたらす。
が、一方、同人誌に代表される二次的、三次的作品は厳密な著作権の問題はあるにしても、著作者に不利益をもたらすどころか有益に成り得る。
じじつ、私は同人作品やアンソロによって本編への興味が一段と湧いているクチで、「つよきす」に関して云えばアンソロ本を先に読んで後からゲームを買った。
同人作品と商業作品は上手く共存できると信じている。
どころか、同人作品の繁栄は漫画界全体の繁栄に繋がるとさえ思っている。

もっと深く云うならば、同人作品には当然ながら質が低い物が多い。
エロをテーマにしたものも多くあり、誰が見ても有害なものもある。
しかし、文化は多様性の上に成り立っている。
ピラミッドに譬えるならば底辺が広くて大きいほど、大きなピラミッドになる。
その底辺を構成する大きな要素が同人作品なのである。
つまり、同人作品を規制することは漫画文化全体の衰退に繋がる。
漫画が嫌いな人にとってはどうでもいいことかもしれないが、私のように漫画文化を愛する者にとっては一大事である。
考えてみれば、同人作品だけでなくパロディ漫画も滅びるではないか。
『銀魂』や『ハヤテのごとく』あたりも駄目になるだろう。
特にパロディが大好きな私にとっては余計に危機感を覚える。
この国の役人は何処まで文化を破壊すれば気が済むのか。
少し前に江川達也が云っていた。
「日本が漫画大国になったのは国が関与しなかったからだ」と。
至言である。
国が関わるとろくなことが無い。
日本は国が漫画を無視していたからこれほどまでに漫画文化が繁栄したのである。


この著作権法の非親告罪化は漫画だけの問題ではない。
音楽やその他著作権が絡む分野すべてに関係する。
乱暴に云えば官憲が「これは著作権違反だ」と判断すればしょっぴかれるのである。
これはかなり恐ろしい。
私は治安維持法より悪法だと思う。
何を以って著作権法違反であるかは実に曖昧な部分があり、主観によってかなり左右される。
例えば、これはあの漫画と絵柄が似ている、この曲はあの曲と曲調が似ていると官憲が判断すると著作権法違反になる可能性もある。
ジャスラックは今、それをやっている。
喫茶店でハーモニカでビートルズを演奏していた老店主が著作権法批判で逮捕されたのは記憶に新しい。
小田嶋隆さんも書いておられたが喫茶店で店長がビートルズを演奏するなんて本来、ほのぼのとした情景ではないか。
別にビートルズで商売をやっていたわけではないのに逮捕とは酷すぎる。
ジャスラックは戦前の特高警察か。
じきに鼻歌を歌っても逮捕される時代が来るだろう。
それは言い過ぎだと思われるだろうか、しかし、そういう時代が来てからでもう遅いのである。

ドラえもん「最終話」、怒られる

2007-05-31 23:34:13 | 漫画・アニメ
「ドラえもん」最終話、勝手に出版した男性が謝罪

 電池切れで動かなくなったドラえもんを、35年後にロボット工学の第一人者になったのび太がよみがえらせた――。藤子・F・不二雄さんの人気漫画「ドラえもん」の「最終話」と称する冊子が出回っている。「ドラえもん」の出版元の小学館は29日までに、無断で漫画化して出版した男性(37)が、同社と藤子プロに謝罪して今後同様のことをしない旨を誓約、不当な利益を得たことを認め、売上金の一部を支払ったことを明らかにした。
 人気漫画の改変は同人誌などで行われているが、今回は約1万3000部も販売していたため、小学館と藤子プロは重大な著作権侵害として男性に警告していた。
 この「最終話」は、98年ごろから、インターネット上で文章で広まっていた。05年秋に、男性が「田嶋・T・安恵」の名で漫画化、20ページの冊子にした。約500円で東京・秋葉原の書店やインターネットを通して販売していたという。いかにも最終話らしい展開と本物そっくりの絵が一部で評判を呼び、男性が販売をやめた今も、ネットオークションで5000円近い価格で売買されたりしている。
 支払額について小学館側は明らかにしていない。男性はかつて一般出版社から単行本を出すなど、漫画家として活動していたこともある。
 「ドラえもん」は96年に藤子さんが亡くなったため未完となっている。その後のアニメや漫画の「新作」は、藤子さんの指導を受けたスタッフらの手で作られている。
 藤子プロの伊藤善章社長は「藤子さんの世界観に基づく作品を第三者が改変して公にするのは問題だ。ファンが仲間うちでやることはまだ許容範囲と考えているが、今回はその一線を超えている」と話している。

(朝日新聞 2007年05月29日16時51分)



この「最終話」私も読んだ事がある。
じつはこのストーリーは以前から知っていた。
かなりよい話で初めて知ったときは涙腺がゆるんだ。
その時の感動が強かったせいか漫画で読んだ時は予想した以上のものではなかった。
構成にやや不満があったのだ。
とはいえ、絵柄もそっくりで質は決して低くない。

同人誌は本来、水面下で楽しむものでそれが表に出てきたから怒られた。
早い話が売れすぎたのだ。
ただ、ポケモン同人誌事件の時の任天堂の対応と違い、小学館はまだまだ大人の対応だと思った。
小学館の社長は「ファンが仲間うちでやることはまだ許容範囲と考えている」と述べている。
任天堂は仲間内でも許さない。

しかしそれでも、あの作品を闇に葬るのは随分惜しい気がする。
小学館によると、ある教師が「たいへん良い話なので授業の教材に使用してよいか」と連絡を入れてきたそうだ。
だからこそ困ったのだろうが、著作権が問題であれば小学館がお墨付きを与えてはどうだろうか。
いまでも、小学館の雑誌にはお墨つきを与えられた漫画家が描いたドラえもんが掲載されいてるのだから著作権の問題は簡単にクリアするはずだ。
小学館はあの作品を全く藤子さんのものとは違うと断りを入れた上で(本来のドラえもんとは完全なパラレルワールドとした上で)同社から出版するとよい。
ネット上でもあれだけ売れたのだから必ず売れる。
そして、そんな粋な計らいをした小学館はますます人気が出るだろう。

泉下の藤子さんが許さないというのなら、いまやっているドラえもん映画のリメイクはいつ許しを得たのか。
いやいや、某や某々と違って藤子さんのことだからこの「最終話」のことも決して怒らないと思うのだが、それは死人に口なしだから誰にもわからない。
「虎は死して皮を残す」をもじって「Fは死してドラを残す」と漫画家の松田洋子が書いていたが、なかなか上手いことを云うと思った。
あの「最終話」によって、F先生が残したドラに多くの人がより親しむことが出来るのであれば、それこそ小学館の為になると思うのだが如何だろう。
ひいては藤子さんの・・・といえば僭越だから云わないが、私はあの「最終話」を多くの人に読んでもらいたいと思うものである。
いずれにしても、あの「最終話」が再び日の目を見ることをこいねがう。

ブロッコリーという会社

2007-05-03 02:21:12 | 漫画・アニメ
ブロッコリーという会社がある。
ブロッコリーはゲーム、アニメのキャラクターグッズの販売している会社でゲーマーズという販売店を経営している。

かつてギャラクシー・エンジェルというアニメがあった。
ブロッコリー系のアニメで元はゲームが原作であるらしい。
ギャラクシー・エンジェルはゲームはシリアスな内容だったらしいが、アニメはブロッコリー特有のぬるいギャグアニメだった。
私はこういう類のぬるいギャグアニメが好きで、それゆえ同じブロッコリー系アニメのデジキャラットシリーズも好きだった。
ギャラクシー・エンジェルとデジキャラットに共通する特徴はぬるいギャグを基調としパロディをふんだんに取り入れ、かつシュールでオチが無いというところだ。
また、一見オタク向けに作られているが、あからさまにオタクを馬鹿にした表現がみられる。
例えば、デジキャラットの主人公、デジコはオタクを見るたび嫌な顔をしたり、冷たい態度をとるし、秋葉原に行った時はアイドルオタクの集団を見て呆れた表情(?)で「ここはどういった世界なのかにょ・・・」と云って憚らなかった。
私はこういうブロッコリーが時折みせるオタクを突き放した態度が好きだ。
いや、それは突き放しているのではなく実は自己批判であり、自嘲しているのである。
それゆえか、オタクがブロッコリー系アニメに激怒したという話は聞かない。
おそらく、両者の間にある種の信頼関係があるからだろう。
オタクもブロッコリーのそれをみて互いに自らを嗤うのである。

先日、起こったガイナックスの事件はガイナックスとオタクの間に信頼関係が無かったから起きたものだと思う。
信頼関係があれば悪口を云っても笑って赦される。
それが赦されていないとするならば、信頼関係が無いということであり、さらに云えば某掲示板に書かれた下らぬ悪口に本気になって怒ったガイナックス社員は自らを嗤うことをしないのだろう。

オタクに厳しいといえばガンダムの富野監督だが、彼はオタクを嗤うが自らを嗤わない。
これ以上はガンダムを見たこと無いので云わない。

自虐が過ぎると良くないが、夜郎自大になってもいけない。
企業もそれは同じで要は謙虚さが大切であるということなのかもしれない。
贔屓目からか褒めすぎたきらいがあるが、以上私がブロッコリーが好きな理由である。

オタクはオタクを嫌悪する

2007-04-28 02:17:12 | 漫画・アニメ
 「新世紀エヴァンゲリオン」などで知られるアニメ製作会社・ガイナックスの取締役を務める赤井孝美氏と社員が「mixi日記」に書き込んだ内容がファンに不快感を与えたとして、赤井氏は4月27日、取締役を辞任することを同社Webサイトで明らかにした。
(略)
 問題になったのは、同社の社員が4月4日付けで書き込んだ「キモヲタは何故2chに悪口を書くのか」というタイトルのmixi日記。グレンラガンの批判が「2ちゃんねる」(2ch)に書き込まれていたことを取り上げ、「バーカバーカ、キモヲタ死ね!!」「こんな奴らを相手に商売しなきゃならんのかと思うとうんざりです」などと書き込んだ。

 これに対し、赤井氏は「オール匿名だし、ひとつの板で書いてる人って同じ奴が数人でグルグル書いてるパターンが多いから、だんだん中毒っちゅうかね、他人よりすごいこと書きたくなる。『オレはオマエらとは違うんだぜ。』と。そんなのマトモに読むのは、肛門に顔近づけて深呼吸するようなもんです。必ず屁を吸ってしまいますぞ」とコメントをつけた。

 また社員は別の日記で、グレンラガンの作画についてファンが批判した内容について「素人が知ったような口をきくなっつーの」などとmixi日記に書き込んでいた。

 一連の発言に対し、ユーザーからは「ファンを侮辱している」などと批判が相次ぎ、ガイナックスの公式ブログにはコメントが殺到する「炎上」状態になっていた。

 これを受け、赤井氏は27日付けで、ガイナックスのWebサイトで謝罪文を公開。赤井氏は「いずれも視聴者全般を侮辱したり、2ちゃんねる掲示板そのものを貶める意図はありませんでしたが、結果として多くの方に不快な思いをさせ、心を傷つけた事実は重く、弁解の余地はありません」と陳謝した。またmixi日記がWeb上に公開されたものであるという意識が欠けていたことも反省しているという。

 その上で「自戒と反省の意味を込めて」、ガイナックス取締役を辞任することを明らかにした。グレンラガンのプロデューサーも辞し、29日放映予定の第5話から名前が外れるという。社員は厳重注意にしたという。(以下、略)

4月27日18時21分配信 ITmediaニュース


愉快なニュースが入ってきた。
市長が殺されたり商店街が燃えたり暗いニュースが多い中こういうニュースを聞くとホッとする。
・・・などと云うと私もお叱りを受けるだろうか。

それにしても思うのは、このガイナックスの社員や赤井氏の書き込みに怒った人たちに欠けていたのはガイナックス社員(赤井氏も含め)もオタクだということである。
オタクが同じオタクを痛罵することは何も珍しいことではない。
以前、伊集院光さんがラジオで「マニアが嫌いなのはマニア」と云っていたが、その通りだと思う。
人が一番嫌いなのは自分とよく似ているが微妙に意見の違う人である。
まったく考え方の違う人間にも腹を立てるが、それは別の人間と思うからそれまでである。
が、自分の身内や仲間、思想が近いにも関わらず意見が合わないと余計に腹が立つのである。
これに「近親憎悪」という単語を当てはめてもいいが少しニュアンスが違う気がする。
「同種嫌悪」と言った方がしっくりくる。
そんな言葉あるのかどうかは知らないけれども。

ともあれ、オタク同士の対立は凄まじい。
ネットを覗けばいつも同じファン同士で喧嘩ばかりしている。
いや、ネットだけの話ではない。
「新しい教科書を作る会」の内紛も結局は同じオタク同士の喧嘩だし、かつての左翼の内ゲバに至っては殺人まで起こった。
そういえば、ユダヤ、キリスト、イスラームの対立も…と云えば話を広げすぎだろうか。

しかし、似たもの同士で喧嘩している例がいかに多いことか。
そして、そういう争いは限りなく醜い。
今回のガイナックスの騒動もどっちもどっちという気がする。
ただ、ガイナックス側はもっと自分の立場を自覚するべきだった。
ミクシィにそんなこと書いたら直ぐにオタクに嗅ぎ附けられて痛烈な批判を浴びる事くらい予測出来なかったのだろうか。
いづれにしても、オタクはオタクから批判されてももっと広い心をもって捉えるべきだ。
どうせ向こうもオタクなのだから。

「ツンデレ」とは何か

2007-02-20 00:35:42 | 漫画・アニメ
近年、オタクの間で流行っている「ツンデレ」という言葉がある。
一昨年ころから流行り始め、今は下降気味だが、今だに根強く使われている。
一部のマスコミでも取り上げられていたことがあり驚いた。
今更だが、私なりにツンデレの解釈を述べたい。

「ツンデレ」には二つの意味があった。

一つは「いつもはツンツンした冷たい態度をとるのに二人きりになるとデレデレした態度になる」というもので、
もう一つは「本当は好きなのに素直になれずツンツンした態度をとるが、時折、優しさ(デレ)を見せる」というものだ。
前者はツンデレの本来の意味だったが、この型のツンデレは人気が無く、次第に後者のツンデレに駆逐された。
今では、前者の意味で使われることはまずないし、前者の型はツンデレの範疇に入れないことが多い。

つまり、今、ツンデレの意味というとおよそ後者の「本当は好きなのに素直になれずツンツンした態度をとるが、時折、優しさ(デレ)を見せる」という意味で使われる。
ツンデレの本質は「本当は好きなのに素直になれない」「愛情を上手く表現出来ない」という事に尽きる。
ツンデレという言葉は最近出来たものだがツンデレは昔からあるし、殊に日本人にはツンデレが多いと思う。
そして、昔から日本人はツンデレな人に強く惹かれてきたのである。
というのも、日本人は感情を上手く表現することが下手な民族である。
福田恆存さんに云わせると
「元来、日本人は開放的で、秘密がない。みんな仲間うちなのです。ですから、表現が下手なのではなく、表現の必要がなかつたのです。」(「日本および日本人」)
という事らしい。

具体的にツンデレな人を挙げるならば、私は向田邦子の父親を思い出す。
向田邦子に父親は暴君で罵声やげんこつは日常のことであったという。
しかし、実は父は娘を溺愛している。
普段、そんなそぶりはちっとも見せないが父は娘を確実に愛していた。
私が中学二年生の時、国語で向田邦子の『字のないはがき』を習った。
今、ネット上でも読める。
http://www.za.ztv.ne.jp/iguchi/monooki/jinonaihagaki.html
短い話なので今すぐにでも読めると思う。
当時はそれほど感動しなかったが、今、読み返してみると涙が溢れそうになる。
この父親こそ、ツンデレの真骨頂だと思っている。
そして、邦子自身もそんな父親が好きなのである。
同じ向田邦子の『寺内貫太郎一家』の寺内貫太郎もツンデレであること説明するまでもない。
(もっとも、寺内貫太郎のモデルは邦子の父なのであろう)

もう一つ、今度は漫画の登場人物から例を挙げよう。
手塚治虫が描いた『ブラックジャック』という漫画がある。
手塚作品のなかでもとりわけ人気が高く、読んだ人も多いだろう。
一昨年までアニメも放映されていた。
この漫画の主人公、ブラックジャックもまさにツンデレキャラである。
ブラックジャックは大学時代、如月めぐみという女性に恋をした。
しかし、ブラックジャックはめぐみに対して決して愛想振りまいたりしない。
それどころか、いつも冷たい態度で接する。
しかし、ブラックジャックは雨が降ればめぐみの為にそっと傘を置いて帰ったり、
夜道のめぐみの安全を守るためこっそり後をつけたりする。(それは今じゃストーカーだよと誰かが書いていた(笑))
ある日、めぐみはいつも傘を置いてくれる人がブラックジャックだと気づき、礼を言って一緒に帰りましょうと云うとブラックジャックはムッとしたようにこれから残業だと云って、さらに「女はあんまり夜まで残るなよ」と言う。
めぐみは思う。
「どうして わざとあたしにつめたいふりをするのかしら……」
これまた美しいほどのツンデレっぷりである。

ツンデレというと今は女性ばかり取り上げられるが、なに、ツンデレはもともと男の専売特許であったのだ。
私もそうであるが、日本人は「普段はああだけど、実は・・・」というのに弱い。
日本人にツンデレ好きが多いと思うのはそういうことである。

以上、書いてきたがこれは私なりの解釈であって別のオタクからは「ツンデレをちっともわかっていない」と罵られるかもしれない。
また、向田邦子ファンからのお声も怖い。
いづれにせよ、私見でありますので御容赦くださいますよう。

『大市民日記』二巻

2006-12-19 01:29:10 | 漫画・アニメ
『大市民日記』の二巻を読んだ。
実は『大市民日記』一巻は読んだことが無くて、
私が読んだことのあるのは『THE大市民』の一巻と『en-taxi』に掲載されていたものだけ。
この『大市民日記』の二巻には『en-taxi』に掲載された分も収録されていた。

『大市民』という作品の内容をどのように説明すればよいだろう。
『大市民日記』の二巻の帯には「鬼才・柳沢きみおが贈る、人生指南の書」とある。
漫画で人生を教わるのもどうかと思うが、確かにそういう側面も持った本だろう。
しかし、私はもっぱら社会批評の本だと思っている。
譬えるなら、初期のゴー宣のようなものかもしれない。
(ゴー宣は初期の頃が一番面白かった。今は政治絵解き漫画になっている)
『大市民』はなにも高尚な話題を扱っているわけではない。
普段の生活を通して感じたことが描かれているだけだ。
というより、ほとんど世の中に対する愚痴で、居酒屋でおっさんがくだをまいているような内容と云えば解り易いと思う。
私は思想態度が若者のそれではなくオヤジであって今の世の中に対して愚痴ばかりこぼしているし、
譬えるならば、愚痴が服を着て歩いているようなもので、口を開けば世の中と若者の悪口ばかり云っている。
そういうわけで、この大市民シリーズは私にとってピッタリの本なのだ。 

特に共感した箇所(言葉)を列挙したい。

みんなも感じていると思いますが、
新札の安っぽさにどうしてこんなのにOKだしたんだろうと
(野口英世について)なんだこの髪は 
(樋口一葉の絵について)なんだこの顔は
とにかく全体が薄っぺらで安っぽい(略)
旧札のなんと重々しくて美しいことか


私も最近、やっと馴れて来たがどうも新札のデザインは好きになれない。
あの薄っぺらさは今の日本を象徴しているようだ。

んで、ライブドアの株主がライブドアを訴えた件だ
コレってメチャクチャ変だ
いつも言っているが株ってのは正体はバクチ打ちの世界なんだぞ
丁半の賭博場なんだよ
だから負けたから金返せは無いでしょーっ


個人で株をやっている者は金儲けが目的なのに
投資だとか何とかいって言葉を飾ること、売春を援助交際と云う如しである。
株の本質はバクチなのだから、相応の覚悟を必要とする。
それで損したら金を返せと云うなど噴飯ものである。
私は借金はするな、株には手を出すな、と云われて育った。
今は親子そろって株の勉強をする家庭があるらしい。
私からみれば異様を通り越して、狂ってるように映る。

ブタエモン(あび註:堀江貴文)が粉飾決算をやったから我々はだまされた
―と怒ってますがそれ以前にアイツを一目見たら変だとフツーの人なら分かるハズだ


私も同意したいところだが、残念ながらこの国の多くの人の感性は鈍っているので、堀江を変だと分からない人が大勢居た。
それどころか、持ち上げて称賛した。自民党すら応援した。
武部は自分の弟とまで云った。
政治家の質を見れば国民の質が解るとは以前にも書いた。
私は堀江が粉飾をやって捕まったから批判したいのではなく、
私が彼を蛇蠍の如く嫌うのはすべては彼の思考回路を下劣そのものだと感じるからである。

それにしても市町村大合併での「次から次のバカ市名」はいつまで続くのだろう
またひとつ「かすみがせき市」だよ
俺は自分の住む町がこんなひらがな名になったら逃げ出すよ


ある作家が「今の日本は女子供の国」と云っていたが私もそう思う。
(女子供とは直接、女性と子供という意味にあらず)
何故、市名をひらがなにするのか私には一向に理解できない。
さいたま市が誕生した時もなんと幼稚な市名だろうと、ひっくり返りそうになった。
国民が幼稚でも国は滅びないが、役人まで幼稚だと国は滅びる。
今、日本に必要なのは品格のある大人だとつとに感じる。

意外だったのが藤原正彦さんを批判していたこと。
曰く、「バーコードオヤジに品格を語る資格はない!!」と。
それはちょっと酷だと思った。
髪の薄さは個人の努力ではどうにもならない。
藤原さん、スキンヘッドにすれば品格を語る資格を有することが出来るのだろうか。
が、上に書いたように居酒屋でのオヤジの愚痴なので一々真剣に反論しない。
当ブログもオヤジの愚痴に相違ないのは承知しているところである。

エヴァンゲリオンの新作はいらない

2006-09-11 02:50:11 | 漫画・アニメ
新世紀エヴァンゲリオン10年ぶり新作

 社会現象にもなった90年代を代表するアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の新作映画が10年ぶりに製作されることが8日、分かった。「エヴァンゲリオン 新劇場版 前編」(07年7月公開)「-中編」(08年1月公開)「-後編+完結編」(08年6月公開)の全4部作。
 前、中、後編はテレビシリーズ26話を描き直すもので原画を一部再使用するが、音や背景を撮り直し、ほぼ新作に近い形になる。当時、ラスト2話は「終わり方が納得できない」と物議を醸した。劇場版も2作製作されたが、ファンの間で議論になっていた。そんな声に応えるため「-後編+完結編」は完全な新作で、ラスト2話を中心にきちんと最後まで描くという。「-前編」は既に映画監督の樋口真嗣氏(40)が新作絵コンテを完成。3DCGなど最新技術を駆使して製作される予定だ。
 「エヴァ」は侵略を試みるエイリアンに、巨大ロボット兵器を操って立ち向かう若者の苦悩と成長を描く作品。その経済効果は1000億円以上といわれる。関係者は、このタイミングでの新作製作の理由について「庵野(秀明)監督がエヴァブームのほとぼりが冷めるのを待っていたため」と説明している。
(日刊スポーツ) - 9月9日10時2分更新


記事を目にして仰天すると同時に「冗談じゃない」と思った。
庵野は何を考えているのだろう。
はっきり云ってエヴァの新作など観たくない。
というより、作って欲しくない。

今回は良い機会なので『新世紀エヴァンゲリオン』(以下、エヴァ)について書いてみたいと思う。


私にとってエヴァとは事件であった。
私がエヴァを初めて見たのは平成十五年。
既にブームから七年余りの月日が流れてからだった。
古本屋でビデオを安売りしていて、「あれだけ話題になった作品だから試しに観てみよう」と思い購入したのがきっかけ。
八話くらいまで観て何が面白いのかさっぱりわからなかった。
元来、私はロボットアニメや戦闘系のアニメに興味がない。
故にガンダムも観たことがないし、今後も見ようとは思わない。
それはさておき、エヴァ八話目を見終えて続きを見たいとは思わなかった。
ただ、最終回のオチだけ知りたくなって再び古本屋に赴き、
一冊五十円で売っていたエヴァの「フィルムブック」を買って最終回を読んでみた。
その時の衝撃たるやなんとも云いようがない。
まったく意味がわからなかった。
今考えればただの洗脳フィルムとでも云えようが、
当時、私はある種の不安感に襲われる程の衝撃であった。
そしてその時初めてエヴァはただごとではないと悟り、
その後、ビデオも手に入れ、TV版の最終回に衝撃を受け、劇場版の最終回では虚脱感に襲われた。
あの「終わり方」こそエヴァのエヴァたる所以だし、現在に至っても根強いファンがいて、
今だ作品の内容について牛の涎の如くだらだらと不毛な議論が交わされるのである。

さて、エヴァは既に過去のものである。
そして、死んだ過去ではなく生ける過去なのである。
何故そうなのかというと先述した通りあの救いようの無いラストにある。
私はあのラストが好きだ。
ほとんどのアニメがハッピーエンドで終わるというお約束を打ち破り、
しかも難解な用語や設定の謎を謎のまま一切明かさないまま、という離れ業をやってのけた。
エヴァは既存のアニメに対するアンチテーゼという見方もできる。
言わば一般アニメファンを悉く打ちのめしたのだった。
私にはその態度が非常に痛快だった。

それが、今度、「きちんと最後まで描く」という。
プロデューサーの大月氏はイタビューで
「わざわざ難解な語句を撒き散らすようなテクニックはもうつかわない。」
と述べている。
要は、ラストをわかりやすいスッキリしたものにするということだろう。
これはエヴァにとって自殺行為だ。

何度も云う。
エヴァはあの「スッキリしない」終わり方をしたからこそエヴァであるのだ。

勿論、エヴァに人気の理由があのラストだけにあるとは云わない。
作品の質そのものが高いということは云うまでも無く、
作画や映像技術など、どれもハイクオリティなものだ。
なにより、エヴァの登場人物(殊二に綾波レイ)が魅力的であることは
エヴァ人気の支柱を支えている。
これは、エヴァ後に所謂「綾波キャラ」が乱出し、
今ではキャラの性格の一種としてパターン化されていることからも明らかだ。

つまり、エヴァはあのラスト無しでも十分ハイクオリティなのだ。
しかしながら、いや、だからこそ、あのラストを作り直すのはいただけない。
作画技術も構成もキャラもしっかりしている上にあのラストだったからこそやはりエヴァは「すごい」のである。

ところでエヴァのような作品はパロディが多く作られる。
所謂「アンソロジー本」と呼ばれるものである。(所謂「同人誌」とは少し違う)
なぜなら、エヴァのようにキャラが魅力的かつ特徴的で、
内容が複雑で謎が多くさまざまな解釈が出来る作品はパロディのし甲斐があるからだ。
そして救い様のないエヴァだからこそギャグ化すると余計に楽しい。
私などはエヴァの本編よりもパロディの方が好きなくらいだ。
(特にムービックから出版されたアンソロ本は大変質が高い)

私は以前、庵野監督のことを「嫌い」だと書いた。
この認識は今でも変わらないどころかますます強くなっている。
まさか、エヴァを作り直す愚行に出るとまでは思わなかった。

さて、恐らく多くのエヴァファンならぬエヴァヲタクも私と同じような感想を抱いているのではないだろうか。
エヴァには私のようなひねくれたヲタが附きやすいのだ。
みな自分の中に自分だけのエヴァンゲリオンを持っている。
そしてこのようなくだらぬ駄文を綴るのである。

古屋兎丸・著『ハピネス』感想

2006-08-24 21:59:27 | 漫画・アニメ
古屋兎丸の『ハピネス』を読んだ。

最近の兎丸は『π パイ』というくだらない漫画も描いていたが、
ハピネスは久々に兎丸の本領発揮といった作品。
「儚い青い季節の物語・8篇を収録」(←帯の解説文より)されている。
所謂、普通の青春物語ではなく変態であったり自殺志願者であったり普通ではない人ばかりが登場する青春物語。
本書の初めの方に収録されている作品は“記号化された”アングラの匂いが漂って楽しくなかったが、
後半の「インディゴエレジィ」や「アングラ☆ドール」は良作だった。

どの短篇も「救いようの無い人」しか登場しない。
「負け組み」なんて生易しいものではなくほとんど壊れていたり、落伍者であったりする。
そういう人々をただ登場させるだけなら誰でも出来るが、
それで終わらないところが兎丸の三流の作家と違うところだ。
救いようのない内容ながらも最後に一輪の花を咲かせている。
そして、一つひとつの作品の世界観や設定が出来合いのものではなくしっかりと創られている。

兎丸の作品を読むときどうしても意識してしまうのがつげ義春だ。
つげ義春は本人の意図しないまま漫画を文学の高さまで昇華させた人として有名だが、果たして兎丸作品は文学なのか。

兎丸は社会不適合者を描かせたら巧いという点でつげ義春に似ているが、作風は随分異なる。
前者はアングラを常に意識して描いているがつげ義春はまったく意識せず自己の体験から自然に紡ぎだされた部分が大きい。
兎丸作品よりつげ作品の方がより深みがあるのはそういった理由からだろう。
兎丸作品が文学的かどうかはここで答えを出さないとしても、
『涼宮ハルヒの憂鬱』を代表とする所謂ライトノベル作品よりは余程文学的であると思う。

手塚治虫と宮崎駿

2006-08-20 00:39:02 | 漫画・アニメ
『爆笑問題 死のサイズ』で太田光が「宮崎駿は人間否定だけれど、手塚治虫は人間肯定だ」と言っていた。
私もその通りだと思う。

手塚治虫も宮崎駿も自然の素晴らしさを謳う点では共通しているのだけれど、
宮崎駿の方は決定的に人間を否定している。
私は手塚治虫の考え方の方が好きだ。
確かに地球環境の為には人間など絶滅してしまった方が良い。
が、そういって人間を否定することは簡単で、
むしろ、そんな人間を肯定する方が実は大変なのだ。
私は本気で人間を滅ぼす気も無いくせに人間を否定する人よりも
人間の愚かさを自覚した上でその人間を肯定する方が魅力を感じる。

宮崎駿の作品を愉しみつつもどこか説教くさく感じることがあるのはそういう点だろう。
『となりのトトロ』はそういう気持ち抜きで純粋に楽しめるのだが、
『もののけ姫』はそれが全面に出ていてなんだか居心地が悪い。

駿の息子の『ゲド戦記』はまだ見ていないのだけどCMで「命を大切にしない奴なんか大嫌いだ!」と言う台詞を聴いてこの映画は見たくないなと思った。
いや、食わず嫌いと言われればそれまでだし、実際、愉しまれた方には申し訳ないが、この台詞は説教臭さの最たるものだと思う。
命を大切にしなければならないことは正論であろう。
が、私は命を大切にしない者よりも、命より価値あるものを認めない者の方が嫌いである。

アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』最終回

2006-07-09 14:27:21 | 漫画・アニメ
『涼宮ハルヒの憂鬱』の最終回を観た。(福岡では七月八日深夜放送)

以前に「ハルヒ」について「どうしても好きになれない」と書いたが今もその気持ちは変わっていない。

この作品について「言葉 言葉 言葉」の野嵜健秀さんが日記で
涼宮ハルヒ、神樣なのだけれども、良い男を見附けられないで欲求不滿に陷つて、苛々して、世界をぶつ壞さうと思つてゐたけれども、キョンくんが現はれたので――と、さう云ふ話なんですな。
と述べられていたが正に的確な指摘だと思う。

最終回はキョンとみくるがいちゃつく場面を見てしまい、
ハルヒがブチ切れて世界を滅ぼそうとする話。
結局、ハルヒはキョンが好きだったわけだが、
私はあんなツンデレは認めない。
ハルヒのような娘が現実にいたとすれば気違い扱いをされるか、
あるいは本当に気違いであるだろう。

それはさておき、「ハルヒ」は賛否はともかくとして大変な人気であるという。

嘗て、社会現象にまでなったエヴァンゲリオンという作品があった。
(現在でも月刊少年エースでは漫画の連載が続いている)
かの作品がそれほどの人気を博したのには内容のクオリティの高さも去ることながら、
作品中にキリスト教における謎を散りばめたり、心理学の用語を用いて、
謎が謎を呼ぶストーリーに仕立て、そして最後に実験的な最終回をもってきた事にある。

「ハルヒ」の人気も似たようなところにあって、
ハルヒは何者なのかという謎が謎を呼ぶ展開や
長門や古泉、みくるによる似非科学的な解釈によって視聴者を惹き附ける。
ところで、長門有希は外見も性格も名前も綾波レイがモチーフである。

仮にそういった謎の設定がなくても「ハルヒ」は萌えアニメとして
それなりの話題になりえただろう。
が、そこに謎や「ブンガク的」な要素を加えることによって、今期一番の人気作品になった。
私は似非科学も似非文学も嫌いなので、萌えなら萌えに徹した作品であればいいと思うのだが、
それだけじゃモノ足りないと思う人も多いのだろう。

「ハルヒ」において何度もキョンが口にする言葉に「日常」というものがある。
これは「非日常」という単語とセットで使われるが、
キョンは「日常」にどこかつまらなさを感じている。
当然、ハルヒはキョン以上に「退屈な日常」につまらなさを感じている。
最終回、キョンは非日常なる異次元空間に飛ばされ「日常」の有り難さに気づく。

人は皆「当り前」と思っていることに「有り難味」を見いださない。
その「当り前」を失って初めてその「有り難さ」を実感する。
平和が当り前になるとミサイルが飛んでこない限りその有り難味が実感できないのと同じである。
別に新聞のコラムのように無理矢理時事問題と結びつける気はないが、
「ハルヒ」の最終回をみて感じた事はおよそそんなことだった。

私は最終回でハルヒとキョンがちょっとした恋仲になったことよりも
キョンが日常の有り難味に気づいた点が白眉であったと思う。
そして全話を通して唯一共感できた箇所であった。


さて、ミサイル騒動から四日たって我々日本人は呑気な日常を過ごしている。
果てはこんなくだらない駄文を綴る手合が居る。
これも野嵜さんが仰るように
「海の向うの事」なんて、日本人は氣にしないよ。三日經つたらみんな忘れてる。
ということなのである。

安野モヨコ『監督不行届』

2006-06-20 23:30:54 | 漫画・アニメ
安野モヨコさんは『ハッピーマニア』などの作品で知られる人気少女漫画家。
小生、少女漫画の類は『ちびまるこちゃん』と『お父さんは心配性』くらいしか読んだことがなく、
安野モヨコさんの作品を読むのも今回はじめて。
(妹が友人から借りてきたのがきっかけ)

『監督不行届』は作者の夫である庵野秀明との日常を綴ったエッセイ漫画というところ。
庵野秀明は知る人ぞ知るエヴァンゲリオンの監督ですね。
アニメ業界では「巨匠」とまではいかなくともそれに近い評価はされていると思います。

さて、私は庵野監督が大嫌いなのです(笑)
というのも、洵に理窟っぽい人だから。
オタクという生き物は総じて理窟っぽいものでありますが、
この監督は殊にそれが激しく、エヴァにおいても難解な小理屈をこねまわしておられました。
私もオタクの端くれですが、こういうオタクとは附き合いたくない。

ところが、ところが、
この『監督不行届』で描かれる庵野秀明はまったくそういう人物ではなく、
いつものんびりニコニコしていて、さながら可愛らしい猫のようであります。
家庭人としての庵野監督はかくも「カワイイ」人であったのか。
一読すればおそらくほとんどの人が庵野監督に好感を覚えることでありましょう。
じじつ、私も随分イメージが変わりました。
これこそ漫画の恐ろしさなのでしょうね。
イメージ操作をするには視覚的に行なうのが一番なのです。
しかし、これも安野モヨコさんだからこそなせる技なのでしょう。
そんじょそこらの漫画家だと技術が追いつかないと思います。
(と、あまり知りもせず褒めてみる)

そして、巻末に庵野秀明氏のインタビューとオタク用語の解説が載っていました。

本編で庵野監督に好感を抱きつつも、巻末の理窟っぽいインタビューを読んで
「あぁ、やっぱりこれが本当の庵野だよな」と思った次第。
本編で幻想を抱かせて巻末で現実に戻すという粋な構成です(笑)

オタク用語解説もなかなか興味深く、中でもトリビアだったのは
テレビでよく見かける
「このドラマはフィクションであり・・・」
という類の断り書きの発端は「超人バロム」という特撮番組なのだそうです。
というのは、この番組に登場する悪役と同じ名前の子供が学校でイジメにあい、
それが社会問題化してあらゆるドラマにこのテロップが出るようになったのだそうであります。

ところで、一つ指摘しておきたいことは
「第壱話」「第弐話」と旧漢字による数字表記も同作品を踏襲している。
という箇所がありますが、
壱や弐は旧漢字ではなくそれぞれ、一と二の同字(書き換え字)であり、
壱、弐の正字(旧字)はそれぞれ壹と貳です。

少々、蛇足も含めましたが、
『監督不行届』は安野モヨコファンはもちろんのこと
庵野監督が好きな人も嫌いな人も・・・
いえ、特に庵野監督が嫌いな人に読んでいただきたいと思った作品でありました。

讀賣新聞で「涼宮ハルヒの憂鬱」絶賛

2006-06-08 00:47:48 | 漫画・アニメ
今月六日附けの讀賣新聞の文化欄で「涼宮ハルヒの憂鬱」が紹介されていた。
以下、文章を引こう。

既刊8冊で250万部。部数急伸はテレビアニメ化効果も大きいが、小説として結構侮れない。最新刊の『涼宮ハルヒの憤慨』まで一気読みしてしまった。
性格自己中な女子高生が、この世の面白い不思議を求めて「SOS団」なる学内サークルを結成する。適当に集めた団員の正体はそれぞれ宇宙人、未来人、超能力者で、ハルヒ一人がそのことを知らない。団員らの使命はハルヒに愉快で平穏な日々を送らせること。なぜなら、この世界はハルヒが見ている「夢」かもしれないという恐るべき仮説があり、彼女が世界に飽きれば、何が起こるかわからないのだ。
世界の命運が学園の日常に直結するという趣向は、70年代のジュヴナイル(少年向け)SFにもある。が、日常から非日常へ物語が飛躍するのではなく、非日常的な面々が、崩壊ギリギリの現地の中で、「あたりまえの日常」を必死につむいでいくという逆転は、いかにも2000年代的だ。基本的に明るいドタバタコメディだが、10代~20代のライトノベル世代の、世界に対する漠然とした「不安」を映しているようにも感じられる。
ライトノベルとしてはクセのない優等生的な作品。萌えアニメ絵の表紙にひるまず、ぜひ一度手に取ってみてほしい。
(讀賣新聞 平成十八年六月六日)


特に注目したいのは後半の「日常」と「非日常」について述べた箇所。
「ハルヒ」の中で描かれる世界は日常を主体としたものであるが、
実は非日常の連続である。
この論評で「ハルヒ」はほぼ絶賛されているが、私はどうしても「ハルヒ」を好きになれない。
というのも、一見すると巷にあふれる「萌え絵」を使ったライトノベルであり、
アニメの方もドタバタ学園萌えアニメにみえる。
が、内に文学的なものを散りばめており学園や萌えだけではないことが強調される。
あるいはそれは文学ではなく安っぽい「ブンガク」なのかも知れない。
いづれにせよ、不可解で難解な内容・設定はそれだけで文学の匂いを漂わす。
私がハルヒを観つつも一方で不快感を感じるのはこのあざとさがあるからだ。

そして、なにより私は「ハルヒ」の作中で描かれる日常に恐怖を感じる。

少し前、「行け!稲中卓球部」という学園ギャグ漫画が流行った。
「稲中」を御覧になった方に最終巻あたりの日常を描いた箇所を読んで不思議な感覚に襲われた方はいないだろうか。
「ハルヒ」に潜む不思議な感覚とそれは一致する。
じじつ、「稲中」の著者・古谷実はその後、
ギャグを棄て日常に潜む闇や恐ろしさをテーマとして作品に傾倒してゆく。

つまり「ハルヒ」にあるものもそういった日常に潜む闇や恐怖なのである。
いや、だからこそ「ハルヒ」は多くの読者、視聴者を惹きつけてやまないのかもしれない。

「きらりん☆レボリューション」の凄さ

2006-04-21 22:57:58 | 漫画・アニメ
今春からケロロ軍曹の後に「きらりん☆レボリューション」なるアニメが始まりました。

先週、ケロロを録画していたらついでに録れてしまっていたので、
試しに見てみたのですが、主人公の声優の演技が酷い。
なんじゃコリャという心持ち。
エンディングを確認してみると主人公の声優は
モーニング娘のメンバーである久住小春なるアイドルらしい。
これは事だと思い、
「どこの馬の骨かわからぬアイドルを声優にしたて
 しかも下手な演技でもって他人の畑を荒らすとはどういう料簡か。」
と、まぁ、このような内容の記事を書こうと思っていたのですが、
今週も観てみたら、もうそういう気持ちは吹き飛んでしまいました。

というのも、内容が凄まじいのであります。
とにかくツッコミどころが多い。
妹共々大爆笑。
まず、なーさんというネコだか犬だかわからぬ生物がいる。
しかもその顔が2ちゃんねるのギコネコのような顔。
つまりこういう顔→(゜A゜ )
鳴き声は「なーなー」。

次に、主人公の目がでかすぎ。
というか、まさに「ちゃお」という絵柄。
タイトルを「ちゃお」にした方がいいくらい。
(まぁ「ちゃお」なんて読んだことないけどさw)

さらに、わけのわからぬ電波なギャグが目白押しというありさま。
今日の話で言えば、ケーキを作る際に工事現場の音がしたり、
像の泣き声がしたり・・・
そして、出来上がったケーキにはもの凄い色キノコが生えている始末。
なんなんだこのノリは。
なにやら、デジコを髣髴とさせるギャグセンスであります。
ここまでくると声優の演技が下手なこともギャグの一つとして楽しめてきました。

「きらりん☆レボリューション」スタッフにおかれましては、
今後もこの調子で暴走を続けていただきたく思います。

クレヨンしんちゃん『モーレツ!オトナ帝国の逆襲』

2006-04-05 02:09:03 | 漫画・アニメ
現在、春休み中なので終日家に居ることが多い。
今日もそういう日だったので
クレヨンしんちゃんの映画『モーレツ!オトナ帝国の逆襲』のビデオを観た。
この作品は何度観ても泣ける。

クレしんの映画は毎回大人が見ても十分に楽しめる作りになっているが、
このオトナ帝国は格別。
むしろ、大人の為の映画と云って良いくらい。

私は常にノスタルジーを背負って生きているような人間なのでこういう映画は特に琴線に触れるものがある。
私は今の時代にあまり希望を見出していない。
日本人が皆、末来に希望を持っていた七十年代までの日本が好きである。
そして古いものにこそ価値を見出している。
しかし、しんちゃんは云う。

「オラ、大人になりたい」

この言葉にはハッとさせられた。
大人は過去ばかり振りかえっていては駄目なのだ。
ノスタルジーに浸ってばかりでは成長しない。
しんちゃんからこう言われたような気がした。

『オトナ帝国の逆襲』は現代を生きる大人に対する激励である。


・・・とこんなことを二十一歳の青二才が書いてみる(笑)