すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

「だれでもよかった」

2018-06-16 22:54:06 | 社会・現代
 ある男のことが頭の片隅に引っかかっている。その男を擁護したり酌量したいわけではない。彼は厳しく裁かれねばならない。被害者の家族の無念さや怒りや、いつ被害にあうかもしれない市民の不安や恐怖は言うまでもない。だが一方で、「これは別の意味で容易ならぬことだ」と頭のどこかで感じている。
 新幹線の車内で無差別殺傷事件を犯した男のことだ。
 捜査が、というか、裁判になって審理が進まなければ問題の全容はわからないことだが、これまでの報道を見る限り、彼の成育歴と、彼の社会の見方が、いいかえれば、家族の在り方と社会の在り方が、かなりの重要度でかかわっているのではないかと思う。
 ぼくの乏しい脳力では、その事に言及しない方が良いかもしれない。だが、一般論として少し考えておきたい。
 「むしゃくしゃしてやった。だれでもよかった」という言葉には、彼の精神の異常さや知能の弱さよりもむしろ、社会に対する憎悪や、自分の境遇に対する希望のなさが含まれていると思う。(犯行に至るまでの彼の家庭や職歴などについて、報道されていることをここで繰り返すのは避ける。)
 先日書いた「CM等で欲求が、あるいは欲望や希望がすぐ叶えられる錯覚が刷り込まれ続けてきた結果、忍耐不足の暴挙・暴力が増えた」(06/07)というのは、問題の半面であって、他の半面は、「現実には非正規の仕事しかなかったり、仕事があっても安い賃金で、しかも非人間的にこき使われ、取り換えのきく労働力として、生活設計も自己実現の可能性も奪われた境遇の中で貧しく希望もなく生きている人が多い」ことだ。
 目の前に水があるのに、飲もうとするとその水が逃げる、猛烈な渇きにさいなまれる人の話がギリシャ神話かなんかにあったと思う。
 再びアメリカ社会との比較になるが、銃乱射事件の多くは、これは検証したわけではないが、学校に恨みがあったり、交友関係に問題があったり、テロの思想にはまってしまったり、というように、あるていど動機がはっきりしているものが多いように思う。
 その点では、日本の社会の方が病いが深いのかもしれない。ちょうど10年前の6月8日の秋葉原の事件をいやでも思い出す。「だれでもよかった」という人間が銃を持つことができたら、どんな悲惨な状況になることだろう。
 ぼくたちは、異常な思い込みや残忍な性格を持った人間に注意するだけでなく、この社会がその中で生きる人たちにとって、絶望や無感覚の原因にならないように気を付けていなければならない。
 この事件の問題とは少しずれるが、先日題名を挙げた「児童虐待から考える」杉山春著、朝日新書から、少しだけ引用させていただく。

 「――の父親たちの世代は、会社が丸抱えで家族の面倒を見た。ととのった社会福祉が会社を通じて提供され、会社に奉仕をすれば…ケアを担う妻とともに家庭は維持できた。
 しかし、1997~98年の大手金融機関の連鎖倒産の時期を経て、片働きで男性が就労を確保し、女性がケアを担うという日常の支え方が、経済的な力の弱い家庭では、できなくなっていく」
 「厚労省『労働力調査』によれば、2000年には26.0%だった非正規雇用労働者の比率は…2016年現在で37.5%に達している。とくに15歳から24歳の非正規雇用は49.1%にも上る」
 「困難な生い立ちを抱えているものは、さらなる困難を抱えてしまう。さまざまなことを人と共有できなくさせ、周囲から自分自身を隠してしまう」 
 「社会の中に居場所を見いだせないことへの憎悪」
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