すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

成長の限界と未来社会

2018-06-10 22:25:53 | 社会・現代
 虐待や、そこまで至らなくても不適切な養育が子供の脳にどのようなダメージを与えるか、は、TVでも話題になったからご存知の方もいると思うが、「子供の脳を傷つける親たち」友田明美著、NHK出版新書を読んでほしい。
 また、児童虐待する親と、社会の在り方の問題については、「児童虐待から考える 社会は家族に何を強いてきたか」杉山春著、朝日新書を読んでほしい。
 どちらも非常に考えさせられることの多い、重い本だ。
 この二人の本はもっと読んでみたいと思いつつ、まだ果たしていない。

 さて、ぼくは、このぼくたちの病んで壊れた社会をどうすればいいのか、展望する力を持たない。現代に生きる誰もが、展望することを、あるいは誰かが展望を示してくれることを、望みつつ、できないでいるのではないだろうか。
 だから自分の手近な、ささやかな行為を(例えば、買い物に行こうとドアを開けたら下校途中の小学生が通りかかったので「こんにちは」と声をかけるとか)、一つ一つしていくより他にないのではないか…と認めたうえで、ここではいったん大きく考えてみる。現代はどういう時代か。

 人類は、生物のロジスティックス曲線の、第二の曲がり角の最中にいる。
 “ロジスティックス曲線”について、比較社会学者の見田宗介氏の説明を引用してみる。

 「一定の環境条件の中に、例えば孤立した森の空間に、この森の環境要件に良く適合した動物種を新しく入れて放すと、初めは少しずつ増殖し、ある時期急速な、時に「爆発的」な増殖期を迎え、この森の環境容量の限界に接近すると、再び増殖を減速し、やがて停止して、安定平衡期に入る。
 生物学者がロジスティックス曲線と呼ぶS字型の曲線である。これは成功した生物種であり、ある種の生物種は、繁栄の頂点のあと、滅亡に至る。…再生不可能な環境資源を過剰に消費してしまった愚かな生物種である。…地球という有限な環境下の人間という生物種もまた、この曲線を逃れることはできない」(見田宗介「現代社会はどこに向かうか」定本見田宗介著作集第1巻。ただし、より詳しくは同第7巻「人間と社会の未来」)

 つまり、人類の歴史と未来には、定常期から爆発期への途中の過渡期と、爆発期から定常期もしくは滅亡への途中の過渡期との二つの曲がり角がある。
 今現在、ぼくたちは第二の曲がり角にいる。
 世界のエネルギー消費の加速度的爆発的な増加を考えてみれば、経済成長というものは永遠には続けられないものである、それどころか、間もなく終わるものである、ということは誰にでもわかる。経済成長を主張し続けている政治家にだってわかる。
 人類はそのことを、すでに無意識のレベルで知っている。先進国のどこの国も、人口減少に直面している。どころか、途上国を含めた世界全体のレベルでも、1970年にはすでに人口増加率は減少を始めていた。そして、1970年代初めにはすでに、この限界は意識のレベルとしても共有され始めていた(例えば、72年「成長の限界」ローマ・クラブ)。
 経済の自己増殖力は、政治家には停めることができない。しかし幸か不幸か、経済は間もなく、必然的に、成長を停めて定常状態に入るか、あるいは人類が滅亡するか、どちらかしかない。
 (原発というのは、この事実に目をつむってそれでも成長を追い求めようとする、現実逃避の愚かな選択だ。)
 ぼくは長い間、人類は滅亡すると思っていた。でも今は、滅亡しないだろうと思う。人類はどのような形かで、定常状態に入る。問題なのはその中身だ。
 できる限り早く、成長を停める決断をしなければならない。後手後手に回って、やむなく急ブレーキを踏まなければならなくなったら、そこに出現するのは、強権による超管理社会だ。貧富の差は極限まで拡大して、一部の支配層と実質的奴隷状態の大衆への二極化になる。AIや再生医療や核燃料サイクルなどの最先端技術は、この支配のために役立つことになるだろう。
 成長への固執を手放す選択を早くすればするほど、精神的に豊かで自由度の高い持続可能社会を実現する可能性が高まる。そのためにはとりあえず、ぼくたち一人ひとりが、価値観の転換をする必要があるだろう。
 ぼくは「できる限り早く」と書いたが、それはぼくが地上を離れる前に実現することはないだろう。今世紀半ばぐらいまではかかるかもしれない。ロジスティックス曲線の第一の曲がり角の時に出たような精神的・思想的なリーダー(釈迦やソクラテスやイエスのような)が出現する必要があるかもしれない。でも、待望しているだけでは仕方がない。今世紀半ばにどのような社会になっているか、そのことにぼくたちは積極的影響力は持てなくても、責任はある。
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