すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

きれいな空気

2018-06-03 21:12:35 | 山歩き
 若い頃、外国、特にアフリカ大陸から帰ってくると、東京の空気がすごく濁ってきたなく、苦しく感じた。とくに、坂に囲まれた低地である渋谷はよどんだ空気が溜まるせいか、息ぐるしかった。
 司馬遼太郎が「モンゴル紀行」に書いていたが、首都ウランバートルの空気は東京の100倍澄んでいるのだそうだ。ところが、ゴビ砂漠で暮らしている人が所用で首都に出なければならなくなると、「こんな空気の悪いところにいられるものか」と言って、用事が済むとさっさと帰ってしまうのだそうだ。
 ぼくたちは、ふだん汚い空気を吸っている。
 そして、それに気がついていない。
 東京を離れて、初めてそれに気が付く。
 と言っても、ゴビ砂漠やアフリカ大陸から見たら、全然ダメなのに変わりはないのだろうが、それでも、山登りに行くと空気の違いを感じる。
 端的に言って、胸が開いて空気が吸える感じ。
 登っている最中は息が上がってそれどころではないが、頂上に着くとそれを感じる。
 山頂に立つと気持ちが良いのは、展望の良さとか、達成感とかもあるだろうが、空気がきれいで思い切り吸える、ということもあるのだろう。
 これは、山頂だけでなく、帰りの林道でも感じることができる。
 今日は、棒の折れ山に登った。下山してからの長い車道歩きでバテたのだが、歩きながら胸が開く感じを何度も味わった。
 体の中は汚れがべったり溜まっていても、肺や心は泥岩のように固まっていても(18/05/21)、とりあえずなにがしかの空気は吸うことができる。
 だが残念ながら、ぼくらはゴビに帰ってゆくのではなくて、東京に帰ってくるのだ。
 (震災の翌々年、福島から帰ってくる新幹線が東京に近づくにつれて、人の住まなくなってしまった浪江に比べて、ぼくたちの住んでいる東京の何と汚くごちゃごちゃしていることか、と胸が悪くなったのを、繰り返し思い出す。)
コメント
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