すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

偏屈老人記す

2017-08-11 23:59:31 | 無いアタマを絞る
 …どうも、ぼくの感覚はいろんな意味で、世間の人の感覚と少しずれているところが多いらしい。金銭感覚とか、人との接し方とか、関心を持つ対象とか、したがって、共通の話題とか、、、最近特にそういうことを感じる。昨日も仕事をしていていくつも感じた。いまのところ、いろいろ差しさわりがあるので、具体的なことは書かないが。
 そしてぼくは、自分の感じ方が間違っているとは思っていない。
 むしろ、ほかの人が当然と思っている感じ方の方が、思い込みや、「こういうものが普通の生活」とマスコミが押し付けてくる常識や、自分で生き生きと物を感じる力の衰えによって、不自然なものに変わってしまっていると思うのだが、これも具体的なことは今は書けないので、やめておく。
 でもこれではあまりに漠然としているので、直接的じゃないことを少し書いておく。
 まず僕は、スマホに夢中にならない(持っていない)。二人三人集まると「スマホでこんなことができる」とかいう話題に夢中になっているのをよく目にするが、ぼくは入っていく気が全くない。
 本をkindleで読まない。傍線を引いたり書き込みしたりができないからだ。
 血液型に関心が全くない。
 Facebookに知り合いの勧めで加入したが、全く記事を送らないし、人の記事も読まない。煩わしいからだ。朝何時に起きて昼に何を食べたか写真付き、なんて関心がない。
 先日、誕生祝いの投稿をいくつもいただいたようだが、それも、少し躊躇ったが、けっきょく読まなかった。
 …というようなことをいくら書いても、今日気が付いたことは別なので、これでやめておく。

 肝心なことは、感覚がずれたまま日々を送っていると、その日々に接する人たちとか、世間の付き合いとか、仕事上の関係とかから、どんどん心が離れてしまうことだ。
 これがあまりひどくなると、心の病ということになる。
 ぼくの場合は、まだそこまではいかない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする