すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

ぶらんこ

2019-07-20 08:58:03 | 思い出すことなど
 昨日、以前に住んでいた常盤台から星川に向かって下る途中だった。急に暑くなった中、楽器や楽譜や譜面台など重い荷物を背負って、またまた演奏が思うようにいかなかったので重い心を抱いて歩いていた。
 坂の途中に横浜新道のトンネルの上につくられた小公園があるのを思い出して寄ってみた。
 誰もいない。トンネルの出口に近いのに、ここは嘘みたいにひっそりしている。テニスコートにして4面分ぐらいだろうか、砂利が敷いてあって、ちょこんとぶらんこや滑り台やベンチがある。
 外周は垣根や芝の土手になっていて、赤っぽいアジサイが元気なく咲いている。砂利の広場のまわりは北西側だけ、芝草の斜面がやや広く、そこにケヤキやマツが植えられている。ケヤキは木肌はうろこ状に剥がれてしっかりケヤキの成木だが、まだ大木に育ってはいない。この季節、芝の緑色が鮮やかだ。北側は道路を挟んで崖になっていて、南側は展望が開けて相鉄線沿いの市街地が広がり、その向こうは保土谷公園の高台だ。風が気持ち良い。
 あまり子供が遊びに来ないのか、ぶらんこの周りにはシロツメクサがかたまりになって大きく育っている。傍らのベンチに荷物を置き、ぶらんこに腰を下ろしてペットボトルの生ぬるいお茶を飲んでぼうっとした。

 もう十年以上も前だろうか、この公園を通りかかって、平日の午前中だというのにひとりぽつんと今のぼくのようにぶらんこに腰掛けている、中学生と思われる女の子を見かけた。
 カバンを持っているようには見えなかったが、学校に行く気になれなかったのだろうか、あるいはエスケープしてきたのだろうか? ここにどれくらいの時間いるのだろうか?
 坂を下りてくるぼくは背中側になるので、その子は足を止めたぼくには気が付いていないようだ。
 声をかけて、どうしたのか、何か困っているのか、聞いてみようか、ためらったが、ぼくもいたって気の小さい人間なので、邪魔したら悪いような、変なおじさんと思われても困るような、気が引けて声が掛けられなかった。そういうことは、普段やり慣れている人でなければできないだろう。
 そのまま坂を下ったが、その後もかなり長いこと、気になっていた。

 あの子は、その後大人になって、元気で働いているだろうか? それとも今ではもう子育てをしているくらいだろうか?
 あの時、声を掛けた方がよかったのか、掛けなくてよかったのか、それはわからない。でもたぶん、彼女はしばらくの時間ひとりになりたかったのであって、邪魔はしなくてよかったのだろうと思う。
 しばらくの間ひとりでぼうっとしていれば、いくらかは気持ちが落ち着く。気を取り直してまた歩き出す気になれる。
 ぼくは荷物を担ぎなおして坂道を下った。
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