すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

砂と緑(3)

2020-09-05 10:02:50 | 思い出すことなど
 サハラ砂漠には数年後にもう一度、仕事で行っている。あの頃アルジェリアには天然ガスと鉄鉱石を原料とするプラント建設と操業に日本から大きなプロジェクトがたくさん入っていて、砂漠の中にもサイトがあった。その一つに資材を届ける大型トラックの助手席に通訳として乗った。途中で一泊して二日がかりで走って、現地に一泊してほぼ同じ道を帰った。
 運転手は陽気な、人柄の良いおじさん(日本人)で、演歌のカセットをかけながら、大声でしゃべりながらの陽気な旅だった。一回目よりいくらか内部に入ったが、砂漠についての印象は全く変わらなかった。
 ぼくが神経質で、あるいは、日本的生活様式が変えられない性格で、と思ってもらっては困る。ぼくはその土地土地の食べ物が大好きで、「アフリカに行くたびに太って帰ってくる」、と母に笑われたものだ。「こんな地の果てに住めるものか」という日本人技術者のたびたび口にする言葉に首を傾げたものだ。ただ、その前に行ったザイールの熱帯雨林帯の自然に強く惹かれたので、それと比較してしまうのだ。
 先週書いた友人Tは、ぼくと反対に砂漠が大好きな男だ。サハラには古代ローマの遺跡や洞窟壁画のある先史時代の遺跡などがいくつもある。海岸から1500キロほど南下した山中には有名なタマンラセトの遺跡がある(飛行機で行く)。彼はそういうところをくまなく歩きまわっている。他にもイエメンやシリアやエジプトや…「君とは一緒に旅行できないね」と話して笑ったことがある。人はいろいろだ。
 シルクロードに行きたいと思っていたことがある。だが、サハラにちょっと入っただけでぼくのシルクロード熱は冷めてしまった。アフリカ熱はもう少し深い。子供のころの冒険読み物、とくにリビングストンとスタンレーのコンゴ川探検物語が始まりだからだ。ナイル川の源流の“幻の山脈”ルーエンゾリはあこがれの名前だった。ゴリラの撮影チームの時は、比較的近くに(300キロほどのところに)半年ほどいた。赤道直下といっても上部は氷河と岩壁の山だからぼくに登れはしないが、一週間ほど休暇をもらってふもとの村まで入ってみたいと思っていた。だが、休暇はもらえなかった。3か月の予定が11か月になった撮影の経費節約のため、ぼくはカメラマンと二人きりになってしまったからだ。あれはまことに残念だった。

 砂漠の話に戻るのだが、帰国して一年後ぐらいに、久保田早紀の「異邦人」という歌が大ヒットした。あの歌はじつに良く砂漠の感じを表現している。

  空と大地が ふれあう彼方
  過去からの旅人を 呼んでる道     

というところ、また特に、

  市場へ行く人の波に 身体を預け
  石だたみの街角を ゆらゆらとさまよう
  祈りの声ひずめの音 歌うようなざわめき
  私を置きざりに 過ぎてゆく白い朝     

というところ。そしてうねうねと続くオリエンタルなメロディーとアレンジ。あれは「シルクロードのテーマ」という副題がついているからサハラではないのだが、ぼくがあのオアシスの町で感じたことを(孤独感も含めて)そのまま思い出させてくれるような歌だ。彼女は砂漠に行ったことがないと思うが、才能というものは大したものだ。

 「水と緑のないところには住めない」と書いたが、じつはぼくは密林よりは砂漠のほうに、より大きな影響を受けているかもしれない。多くは、荒廃のイメージとして。
 明日から、ぼくがあの頃砂漠で、もしくは砂漠の印象で、書いた詩をいくつか紹介してみたい。
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