林試の森から自然教育園まで行くのはぼくのお気に入りの散歩だが、林試は半分は運動公園化しているし、教育園は決まったコースしか歩けないので、今日は神代植物公園に行った。
中央沿線の山に登るのに高尾まで京王線で行くのだが、調布駅を通過するときにいつも植物園のことが気になっていた。
ぼくは神社仏閣にほとんど関心がないので、たとえばパリにいた時でも、ノートルダムとサント・シャペルと近郊のシャルトルはステンドグラスを見に行ったことがあるが、他はどこにも行っていない。ムードンやフォンテーヌブローの森を歩き回っていた。
今日は深大寺にも行ったが、狭い敷地にごちゃごちゃと建物があるな、というのと、土産物屋と蕎麦屋が軒を連ねて、目黒不動よりずっとにぎやかだな、と思っただけだ。
植物公園に行くのは、実に56年ぶりだ。広大だからあとでゆっくり回るとして、まずはバラ園に行った。枯れていて淋しいだろうな、と覚悟して行ったのだが、この時期でもバラって、いっぱい咲いているんだね。知らなかった。
たいへん美しく、感慨にふけった。花の間をゆっくりゆっくり歩いていると、時の迷路の中に迷い込んだような、めまいのような感覚を覚える。ここでは何十年の時も、何千年の時も、一瞬の時も、同じもののような。今あるものが、小径も中央の噴水も奥の大温室のガラスの建物も、この季節だけのはずの黄葉も枯れた藤棚も、今あるのと同じに時を越えて在り、永遠に同じ謎をかけてくるような。目の前の黄色いバラの株もその向こうの赤いバラの株も、50年前も同じようにあり、あるいはその遥か前からあり、これからもあり続けるような。
神代植物園は、1961年に開園した。新聞に大きく取り上げられたのを覚えている。ことに、バラ園の美しさは話題になっていた。
だからぼくたちは行ってみる気になったのだ。
ぼくたちがそのバラ園を訪れたのは中学三年生の時だ。ぼくと、同じクラスの彼女と、彼女の親友とその彼氏、つまり二組のカップルで、平日の授業をすっぽかして出かけた。なぜそんな大胆なことをする気になったのかはよくわからない。当時誰もそんなことをする生徒はいなかったから、大騒ぎになるのはわかっていたはずなのに、ぼくたちは誰もそんなことを考えもしなかった。大冒険をする、という意識もなかった。「ねえ、明日、バラ園に行かない?」「いいねえ、行こ行こ」みたいな感じだった。たぶんぼくたちは自分たちに夢中で周りの状況は何も見えていなかったのだろう。
バラ園は静かな雨が降っていて、バラは盛りを少し過ぎていて、平日のせいか人はほとんどいなくて、ぼくたちは手をつないで歩き回った。当時の中学生は今と違ってかわいいもので、キスをするどころか、手をつないでいればそれで幸せだったのだ。
そのあと、すぐには帰りたくなくて、後楽園遊園地に行ってぐるぐる回るティーカップに乗って、目黒駅前の「薔薇窓」という名の中華料理屋(名前がバラだったから)に入ってラーメンを食べた。
…帰ったら大騒ぎになっていた。同じクラスのカップル二組が同時にさぼった、というので学校から父兄に連絡がいっていて、ぼくは父に散々殴られた(ただでさえすぐ殴る人だった)。翌日学校に行くと、担任は文学青年上がりの物分かりのいい人だったが、当然ながら厳しい尋問をされた。あとで聴いたら一年生の妹のクラスにまで、「三年の不良」のうわさは広がったらしい。
そのあと、交際を禁じられたぼくはグレた。
…それは嘘だが、受験勉強は全くやる気がなく投げ出して、理科系一直線だったのが、文学を読みふけるようになった。やがて、彼女本人よりも文学作品の方に、つまりフクションの恋愛の方に、ぼくは夢中になった。
卒業してから、彼女には一度も会っていない。
徹底抗戦するだけの気概はなかったから、サボタージュすることにした、ということかな。情けない話だ。
その後50年、いろんな人や事に出会い、手放し、失い、別れて生きてきた。
ふと思った。
失ったものを、人や、恋や、大切にしていた何かを、もういちど見つけ出す―心の中で。もういちど味わいなおす。老いる、とは、生きる、とは、その過程なのではないか。そしてそれはなかなか悪くないことではないか。情けない人生も、そのことによって救われるのだから。
今日、バラ園の止まった時間が教えてくれた。
中央沿線の山に登るのに高尾まで京王線で行くのだが、調布駅を通過するときにいつも植物園のことが気になっていた。
ぼくは神社仏閣にほとんど関心がないので、たとえばパリにいた時でも、ノートルダムとサント・シャペルと近郊のシャルトルはステンドグラスを見に行ったことがあるが、他はどこにも行っていない。ムードンやフォンテーヌブローの森を歩き回っていた。
今日は深大寺にも行ったが、狭い敷地にごちゃごちゃと建物があるな、というのと、土産物屋と蕎麦屋が軒を連ねて、目黒不動よりずっとにぎやかだな、と思っただけだ。
植物公園に行くのは、実に56年ぶりだ。広大だからあとでゆっくり回るとして、まずはバラ園に行った。枯れていて淋しいだろうな、と覚悟して行ったのだが、この時期でもバラって、いっぱい咲いているんだね。知らなかった。
たいへん美しく、感慨にふけった。花の間をゆっくりゆっくり歩いていると、時の迷路の中に迷い込んだような、めまいのような感覚を覚える。ここでは何十年の時も、何千年の時も、一瞬の時も、同じもののような。今あるものが、小径も中央の噴水も奥の大温室のガラスの建物も、この季節だけのはずの黄葉も枯れた藤棚も、今あるのと同じに時を越えて在り、永遠に同じ謎をかけてくるような。目の前の黄色いバラの株もその向こうの赤いバラの株も、50年前も同じようにあり、あるいはその遥か前からあり、これからもあり続けるような。
神代植物園は、1961年に開園した。新聞に大きく取り上げられたのを覚えている。ことに、バラ園の美しさは話題になっていた。
だからぼくたちは行ってみる気になったのだ。
ぼくたちがそのバラ園を訪れたのは中学三年生の時だ。ぼくと、同じクラスの彼女と、彼女の親友とその彼氏、つまり二組のカップルで、平日の授業をすっぽかして出かけた。なぜそんな大胆なことをする気になったのかはよくわからない。当時誰もそんなことをする生徒はいなかったから、大騒ぎになるのはわかっていたはずなのに、ぼくたちは誰もそんなことを考えもしなかった。大冒険をする、という意識もなかった。「ねえ、明日、バラ園に行かない?」「いいねえ、行こ行こ」みたいな感じだった。たぶんぼくたちは自分たちに夢中で周りの状況は何も見えていなかったのだろう。
バラ園は静かな雨が降っていて、バラは盛りを少し過ぎていて、平日のせいか人はほとんどいなくて、ぼくたちは手をつないで歩き回った。当時の中学生は今と違ってかわいいもので、キスをするどころか、手をつないでいればそれで幸せだったのだ。
そのあと、すぐには帰りたくなくて、後楽園遊園地に行ってぐるぐる回るティーカップに乗って、目黒駅前の「薔薇窓」という名の中華料理屋(名前がバラだったから)に入ってラーメンを食べた。
…帰ったら大騒ぎになっていた。同じクラスのカップル二組が同時にさぼった、というので学校から父兄に連絡がいっていて、ぼくは父に散々殴られた(ただでさえすぐ殴る人だった)。翌日学校に行くと、担任は文学青年上がりの物分かりのいい人だったが、当然ながら厳しい尋問をされた。あとで聴いたら一年生の妹のクラスにまで、「三年の不良」のうわさは広がったらしい。
そのあと、交際を禁じられたぼくはグレた。
…それは嘘だが、受験勉強は全くやる気がなく投げ出して、理科系一直線だったのが、文学を読みふけるようになった。やがて、彼女本人よりも文学作品の方に、つまりフクションの恋愛の方に、ぼくは夢中になった。
卒業してから、彼女には一度も会っていない。
徹底抗戦するだけの気概はなかったから、サボタージュすることにした、ということかな。情けない話だ。
その後50年、いろんな人や事に出会い、手放し、失い、別れて生きてきた。
ふと思った。
失ったものを、人や、恋や、大切にしていた何かを、もういちど見つけ出す―心の中で。もういちど味わいなおす。老いる、とは、生きる、とは、その過程なのではないか。そしてそれはなかなか悪くないことではないか。情けない人生も、そのことによって救われるのだから。
今日、バラ園の止まった時間が教えてくれた。
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