1975年にザイール共和国、現在のコンゴ民主共和国、にほぼ一年滞在した(もう45年も前のことだ!)。ブルンジやウガンダに近い東部の山地の国立公園で、マウンテンゴリラの記録映画を撮影するプロジェクトの、通訳兼助手という仕事だった。ところが西のはじの首都キンシャサで撮影許可を取るために、4か月も足止めを食うことになってしまった。
当時、ザイールではコレラが大流行していた。キンシャサはまだ持ちこたえていたものの、首都を取り巻いて環状に感染が迫っていて、口から口への情報で「あと300キロ」「あと200キロ」というように環は絞られつつあった。
日本を出る前に、破傷風と黄熱病とコレラの予防注射はしていた。マラリアも蔓延していたが、これはワクチンが無く、予防薬を毎週呑まなければならないとのことだった。
コレラの環が狭まる中、ぼくはほぼ毎日、首都一の巨大市場に食料品の買い出しに行った。露店や屋台で現地の人と一緒に串焼きの肉やオムレツや主食のウガリやバナナを食べた。多くは直に指で食べた。ときどきは昆虫の空揚げや佃煮のようなものも食べた。コメを除いて、どれも美味かった(コメは一口食べてやめた。白い細かい石が混じっていて、噛むとガリガリして、とても食べられたものじゃなかった。コメを常食にするザイール人は歯がボロボロになっている)。
コレラのことは、予防注射が万全かどうかわからなかったが、気にしても仕方がない、と思った。
マラリアの予防薬ははじめのうち呑んでいたが、キニーネ系の薬で呑み続けると胃に負担がかかる、酒がまずくなる、気分が鬱になる…とかで、みんな嫌がるのだそうだ。半年ぐらいでやめてしまうので、長期滞在の日本人商社員などはマラリア持ちが多い、と聞いた。ぼくらもやめてしまった。マラリアを媒介する蚊はいたるところにいて、一緒にいた大酒飲みのカメラマンなどはあるとき酔っぱらって路上で寝てしまったそうで、朝になって手足や顔をぼこぼこにして帰ってきたが、感染はしなかったようだ。
コレラの予防接種は有効期限が半年。半年たったら現地で再接種をして、証明書をもらわなければならない。 ここで驚くべき話。
撮影許可がやっと取れて、東部に移動。キブ湖のほとりのブカブという町から少し離れたカフジ=ビエガ国立公園に入った。すぐ近くにかつてのベルギー植民地時代につくられた、広大な敷地を待つ熱帯研究所というのがあって、東北大学の地震研究チームや京都大学の文化人類学チームなどもいたのだが、感染症を研究しているベルギー人のドクターがいて、相談したところ、「ぼくはコレラの予防接種をして証明書を発行する権限を持っています。でも、あれは効かないから、してもほとんど意味ありません。証明書だけ出してあげましょう」ということで済んでしまった!
ものすごく意識の低い野蛮な話をしているようだが、いまから45年前は、コレラもマラリアも、現地で暮らす人々は、手洗いや飲み水の煮沸はしたが、その程度の危機感で済んでしまっていたのだ。
帰国して翌年、同じ会社から同じザイールでの、今度はピグミー・チンパンジー(ボノボ)の撮影の仕事のオファーが来た。ただ、ぼくは前回の仕事の条件があまりにひどかったので、断った。その年、まさにその撮影予定地で、エボラ出血熱の初めての感染が発生した。致死率80%の、驚愕のウィルスだった。行かなくてよかった、と思ったが、その後プロジェクトは中止になったはずだ。
ぼくはエボラのニュースを聞いて初めて、自分たちが熱帯病に対していかに軽率だったかを知って戦慄した。そしてそれはおそらく、スペイン風邪いらい初めて世界中に、その間に小さな感染症はあっても、ウィルスの恐ろしさを知らしめた事態だったろう。
今日、感染症対策も人々の意識も遥かに進歩しているはずだが、それでもSARSだのMARSだの、次々に新しい感染症が出現する。それは高度に開発が進み、高度にグローバル化が進行してしまった現代文明の業のようなものかもしれない。人類はこれからも新しい感染症に直面し、それを乗り越え、それと共存していく道を探し続けるしかないだろう。
「ペスト」の最後の言葉を引用したいが、長くなり過ぎたので明日にしよう。
註:1.コレラの予防接種は現在では効き目が乏しいことが立証され、廃止され、予防薬を呑むように変えられている。
2.マラリアの予防薬の副作用も現在ではよく知られている。近年ワクチンの研究が進んでいるが、まだ承認、実用化はされていないようだ。
当時、ザイールではコレラが大流行していた。キンシャサはまだ持ちこたえていたものの、首都を取り巻いて環状に感染が迫っていて、口から口への情報で「あと300キロ」「あと200キロ」というように環は絞られつつあった。
日本を出る前に、破傷風と黄熱病とコレラの予防注射はしていた。マラリアも蔓延していたが、これはワクチンが無く、予防薬を毎週呑まなければならないとのことだった。
コレラの環が狭まる中、ぼくはほぼ毎日、首都一の巨大市場に食料品の買い出しに行った。露店や屋台で現地の人と一緒に串焼きの肉やオムレツや主食のウガリやバナナを食べた。多くは直に指で食べた。ときどきは昆虫の空揚げや佃煮のようなものも食べた。コメを除いて、どれも美味かった(コメは一口食べてやめた。白い細かい石が混じっていて、噛むとガリガリして、とても食べられたものじゃなかった。コメを常食にするザイール人は歯がボロボロになっている)。
コレラのことは、予防注射が万全かどうかわからなかったが、気にしても仕方がない、と思った。
マラリアの予防薬ははじめのうち呑んでいたが、キニーネ系の薬で呑み続けると胃に負担がかかる、酒がまずくなる、気分が鬱になる…とかで、みんな嫌がるのだそうだ。半年ぐらいでやめてしまうので、長期滞在の日本人商社員などはマラリア持ちが多い、と聞いた。ぼくらもやめてしまった。マラリアを媒介する蚊はいたるところにいて、一緒にいた大酒飲みのカメラマンなどはあるとき酔っぱらって路上で寝てしまったそうで、朝になって手足や顔をぼこぼこにして帰ってきたが、感染はしなかったようだ。
コレラの予防接種は有効期限が半年。半年たったら現地で再接種をして、証明書をもらわなければならない。 ここで驚くべき話。
撮影許可がやっと取れて、東部に移動。キブ湖のほとりのブカブという町から少し離れたカフジ=ビエガ国立公園に入った。すぐ近くにかつてのベルギー植民地時代につくられた、広大な敷地を待つ熱帯研究所というのがあって、東北大学の地震研究チームや京都大学の文化人類学チームなどもいたのだが、感染症を研究しているベルギー人のドクターがいて、相談したところ、「ぼくはコレラの予防接種をして証明書を発行する権限を持っています。でも、あれは効かないから、してもほとんど意味ありません。証明書だけ出してあげましょう」ということで済んでしまった!
ものすごく意識の低い野蛮な話をしているようだが、いまから45年前は、コレラもマラリアも、現地で暮らす人々は、手洗いや飲み水の煮沸はしたが、その程度の危機感で済んでしまっていたのだ。
帰国して翌年、同じ会社から同じザイールでの、今度はピグミー・チンパンジー(ボノボ)の撮影の仕事のオファーが来た。ただ、ぼくは前回の仕事の条件があまりにひどかったので、断った。その年、まさにその撮影予定地で、エボラ出血熱の初めての感染が発生した。致死率80%の、驚愕のウィルスだった。行かなくてよかった、と思ったが、その後プロジェクトは中止になったはずだ。
ぼくはエボラのニュースを聞いて初めて、自分たちが熱帯病に対していかに軽率だったかを知って戦慄した。そしてそれはおそらく、スペイン風邪いらい初めて世界中に、その間に小さな感染症はあっても、ウィルスの恐ろしさを知らしめた事態だったろう。
今日、感染症対策も人々の意識も遥かに進歩しているはずだが、それでもSARSだのMARSだの、次々に新しい感染症が出現する。それは高度に開発が進み、高度にグローバル化が進行してしまった現代文明の業のようなものかもしれない。人類はこれからも新しい感染症に直面し、それを乗り越え、それと共存していく道を探し続けるしかないだろう。
「ペスト」の最後の言葉を引用したいが、長くなり過ぎたので明日にしよう。
註:1.コレラの予防接種は現在では効き目が乏しいことが立証され、廃止され、予防薬を呑むように変えられている。
2.マラリアの予防薬の副作用も現在ではよく知られている。近年ワクチンの研究が進んでいるが、まだ承認、実用化はされていないようだ。
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