すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

タシケント

2019-05-21 21:57:29 | 社会・現代
 以前神奈川県ユーラシア協会でお世話になったIさんから連絡をいただいた。Iさんは長いことウズベキスタン共和国のタシケントで暮らしていたが、数年前に日本に戻ってきていて、今度またタシケントに戻るとのこと。
 一部を紹介したい。

  お久しぶりです。今年、タシケントに戻ります。向こうで、終活する準備です、日本は、そこが抜けたので、もう十分です、、、
  タシケントで元気なうちに、ゆっくり過します。タシケントなら、毎晩、オペラ、バレエを見ても破産しません。庭付きの家で、野菜をつくったり、果樹を植えようと思っています。

 …向こうを終の棲家と決められたのだろうか。大病をされてリハビリ中なのだそうだが、それでも、底の抜けたこの国を終の棲家かとするしかないぼくとしては、うらやましく思えてしまう。
 ウズベキスタンがどんな国なのか、タシケントでの人々の暮らしがどんななのか、ぼくは知らない。百科事典によれば、Iさんの愛する音楽が中央アジアで最も豊かな国らしい(Iさん自身も素晴らしい美声の持ち主だ)。
 それでも、政情はどうなのだろうか? 治安はどうなのだろうか? 宗教や文化の違いもあるだろうし、いろいろ不便な点もあるだろう。
 だからぼくは、毎晩オペラが見られて庭に果樹や野菜が育てられることを、安易に「ここよりずっと幸せそうだ」と思ってしまうのは止そう。
 でも、この国の、とくに都会で、ぼくたちがやむなくしている暮らし方よりもずっとゆとりのある、豊かな暮らし方をしている人たちは、ぼくの狭い実体験の中でさえ、世界のあちこちにいっぱいいるということは確かだ。
 たとえば、フランスの田舎で、パリ郊外の都市で、パリ市内でさえ。また、アルジェリアで、ラオスで、コンゴでさえ。
 (これも行ったことのない場所なのだが、梨木香歩の「春になったら苺を摘みに」を読むたびに、イギリスの丘陵地帯の生活はなんと自然豊かでまた心豊かなのだろう、とため息の出る思いをする。)
 だからおそらく、タシケントでの暮らしも、人が老いを迎えるのにここよりはずっと楽なのだろうと思う。
 そこはここほどは商品に囲まれていないかもしれない。ここほどは移動が簡単ではないかもしれない。ここほどは情報があふれていないかもしれない。
 ここほどは、お金を出してサービスを受けるときに、へりくだった丁寧な応対が当たり前ではないかもしれない(ここでは、同じ人間が、サービスを提供する立場になったときに、へりくだらなければならない。時には、非人間的なまでに。)
 でも、ここよりはずっと、人々は心の余裕があり、時間のゆとりがあり、家族や友人や隣人との交流を味わうことができるだろう。
 ここよりはずっと、空気をいっぱいに吸うことができるだろう。
 そして何よりも、ここよりは人々が疲れていないに違いない。
 タシケントは雨の少ない土地らしい。ぼくも、乾いた土地に憧れていた時代があった。
 Iさん、お元気で。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 五月は夢の季節 | トップ | その土地の食べ物 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

社会・現代」カテゴリの最新記事