すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

心の通い合い―かぐや姫の物語(4)

2019-01-27 21:54:28 | 無いアタマを絞る
 ここまでのところ、ぼくが「竹取」より「かぐや姫の物語」を圧倒的に好んでいるように思われるかもしれない。ここからは…そうとは限らない。

 五人の貴公子が失敗した後、御門が登場する。「かぐや…」で姫に言い寄る御門は、自信過剰でナルシストで、顎ばかりが長い、まことに嫌味な男だ。この国の女はすべて、自分が口説きさえすれば喜んで身を任せるものと思い込んでいる。そして、口説きに失敗したのちはさっさと帰ってしまってそれきりだ。
 「竹取」を見てみよう。
 御門は同じように部屋に忍び込んで突然抱きすくめたりはするが、アニメの方ほど嫌味な性格ではない。そして彼は姫のもとを立ち去りがたくぐずぐずためらうが、けっきょく姫に歌を残す。姫もそれに応える。こうして、二人の交流が始まる。
 姫は御門の求愛をこそ拒絶はするが、(相手が最高権力者だということもあっただろうが)これまでとは違って丁寧な、心のこもった応答をする。彼女は「竹取」の全体を通してはじめて、翁・媼以外の人に心を開くのだ。二人の間ではかなりの頻度で(少なくとも四季折々)、情を込めた歌のやり取りが続くのだ。それは姫が月に帰るまで3年のあいだ続く。
 さらに注目すべきなのは、迎えが来て月に帰る間際になって、それを着るとすべてを忘れてしまうという羽衣を着せようとする天人を押しとどめて、御門に手紙を書くことだ。求婚を拒絶したまま立ち去ることの心残りを書き、「羽衣を着るときになってあなたへの思慕の情をしみじみと感じます」と書き、不老不死の薬さえ手紙に添える。
 姫が、相手が最高権力者だからという理由だけで文をかわしていたのなら、最後はさっさと立ち去ってしまえばいいわけだ。最後の手紙と不死の薬は、姫の御門との心の通い合いが儀礼的なものでなく本物であったことの証拠だ。
 アニメ版はこの御門との交流のエピソードを取り上げて深めて欲しかったと思う。その理由はあとで書く。
 アニメ版で代わりにあるのは、幼な馴染みの捨丸との逃避行の幻想だ。高畑監督は、月の世界に帰るという必然の制約の中で、姫に最後にこの地上での最高度の幸福感を味合わせてやりたかったのだろうか。
 でもそれは幻想にすぎない。姫は、自分がけっきょく宿命から逃れられないことを知っている(とちゅうで思い出す)。それに捨丸はこの時点ではすでに妻も子もいる、一緒に逃げることなどはできない相手なのだ。
 「竹取」では、姫がいつ自分の運命を知ったのかは書かれてはいない。「かぐや…」では、「御門に抱きすくめられた時、思わず月に助けを求めて心の中で叫んでしまった」と言っている。月に帰る直接のきっかけになった出来事を示そうと思ったら、御門は上記のような扱いにせざるを得ないだろう。
 だが、さっき書いたように、むしろ御門との心の絆を描いてしかも深めてほしかった。
 なにしろ「竹取」ではこの部分で姫は初めて、求愛とか男と女とかいうものから離れて、また、親子の情愛とも違う、他者との相互理解を得ることができたのだ。
 そして前回書いたように、「かぐや…」が、生きづらさに苦しむ若い女性を描いた物語という現代的意味を持つ作品であるとすれば、その彼女が月の世界に帰らずにすむ、すなわちこの世界に留まってここで幸福に生きることのできる、唯一の可能性は、他者と心の触れ合いを得ることができ、そこから信頼関係を築くことができ、そこで心の底からの安心を実感することができる、というところにあるはずだからだ。
 月に世界に帰るという物語の前提は崩せないにしても、救済の方向性ぐらいは示せたのではないだろうか。
 なんなら相手は別に御門でなくてもいい。原作にない人物でもいい。それとも、捨丸がそれだというのだろうか? それはヴァーチャルすぎるだろう。
コメント
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