八月十五夜が近づいてくる(むろん、満月だから旧暦だ。今年なら、9月13日)。
「かぐや姫の物語」の姫は、御門が去った後、泉殿で月を見上げては泣くようになった。「竹取」では、御門と心を通わすようになってから3年ほど経った春の初めから。
そのわけを姫が話し始めると、どちらの翁も仰天し、激しく反発する。それに対し、「かぐや…」での姫は、「もう何もかも遅すぎるのです」と繰り返して嘆くだけだ。彼女は、運命をそのままに、悲しみのうちに受け入れようとしているように思われる。行かねばならぬことの悲しみ。
「竹取」の姫は育ての親と別れなければならぬ悲しみを繰り返し、心細やかに表現する。ここの部分の、翁・媼に掛ける姫の言葉は(思いは)まことにやさしく温かく、読む者の心を打つ。
貴公子の求婚に対する拒絶までの姫は、あんなに冷たくそっけなく、彼女が月に世界から来たことをあらかじめ(昔話などで)知っている読者は、「月に世界には悲しみや憂いは無いのだそうだが、姫には温かい感情というものすらないのではないか」と思っていたのだが。
ここの言葉がどれほど思いに満ちたものか、そのいくつかを見ておこう。
「これまでかけていただいた御情愛の数々をかみしめることもできずにお別れしなければならないのが残念です」
「お二人のお世話をほんの少しもいたしませんままに帰らなければならない道は、心残りで辛い道でしょう」
「お二人のお心ばかりを苦しめて去ってゆくことが悲しく耐えがたく…」
そして、極めつけ。
「(月の世界には老いがないといいますが、それすらも嬉しくはありません。)お二人が年老いて体も衰えて行かれる、その姿を見守ってお世話して差し上げられないことがいちばん心残りで、(月の世界に帰ってからもいっそう)お二人を恋しく思うことでしょう」
この情愛の表明は、「かぐや…」の方にも欲しかった。
この情愛とは別に、「竹取」でひとつ注目すべき点がある。姫が「月の世界に父母がいます」と言うこと。
姫の彼の地での身分の高さ(迎えに来た天人の中の王と思われる存在が、姫に敬語を使っている!)から考えて、養い親ではなく、血の繋がった親だろう。とすれば、彼の地でも人は成長し、結婚し、子を産み、育てる。
ということは、姫の「老いもなく憂いもありません」という言葉にもかかわらず、天人も老いるということだ。 (憂いについては、あとで考える。)
迎えに来た天人がどんな様子をしているか、「衣装の美しいこと、比べるものとてない」としかわからないが、「かぐや姫の物語」を仮に参考にすると、“天の王”に相当すると思われるものは、無表情で、如来像のようで、なんだか不気味な存在だ。「天には感情がない」ことの象徴のようだ。
ぼくたちが思い出しておくべきは、“天”は、仏教徒が憧れるこの世とは別の彼方の地、極楽浄土、とは違う、ということだ。人間界を含めた六界、六道輪廻のめぐりあわせの中にある。天人も老い、滅ぶのだ(「天人五衰」)。そのことについては、この世との違いは時間の長さに過ぎない。
姫がこの世の恩愛や喜び悲しみのすべてを捨てて帰らねばならないのは、そのようなところだ。虚無の不毛の空間ではないにしても。
さて、姫は羽衣を着せようとする天人をおし留め、翁と媼に手紙と衣装を残し、先に書いたように御門に手紙と不老不死の薬を残して去っていく。
「かぐや…」では、月に向かう雲の上から、彼女はいちど振り返る。彼方に青く美しい地球が浮かんでいる。姫は、何かを思い出そうとしているように見える。このラストは、大変美しい。
ぼくは、「竹取」と「かぐや…」を通してみて、前半は「かぐや…」に、後半は「竹取」に、心を惹かれる。ラストは、上記のシーンのため、再び「かぐや…」に軍配を上げたい。
だが、もう少しだけ、付け加えるべきことがある。(明日はハイキングなので、明後日。)
「かぐや姫の物語」の姫は、御門が去った後、泉殿で月を見上げては泣くようになった。「竹取」では、御門と心を通わすようになってから3年ほど経った春の初めから。
そのわけを姫が話し始めると、どちらの翁も仰天し、激しく反発する。それに対し、「かぐや…」での姫は、「もう何もかも遅すぎるのです」と繰り返して嘆くだけだ。彼女は、運命をそのままに、悲しみのうちに受け入れようとしているように思われる。行かねばならぬことの悲しみ。
「竹取」の姫は育ての親と別れなければならぬ悲しみを繰り返し、心細やかに表現する。ここの部分の、翁・媼に掛ける姫の言葉は(思いは)まことにやさしく温かく、読む者の心を打つ。
貴公子の求婚に対する拒絶までの姫は、あんなに冷たくそっけなく、彼女が月に世界から来たことをあらかじめ(昔話などで)知っている読者は、「月に世界には悲しみや憂いは無いのだそうだが、姫には温かい感情というものすらないのではないか」と思っていたのだが。
ここの言葉がどれほど思いに満ちたものか、そのいくつかを見ておこう。
「これまでかけていただいた御情愛の数々をかみしめることもできずにお別れしなければならないのが残念です」
「お二人のお世話をほんの少しもいたしませんままに帰らなければならない道は、心残りで辛い道でしょう」
「お二人のお心ばかりを苦しめて去ってゆくことが悲しく耐えがたく…」
そして、極めつけ。
「(月の世界には老いがないといいますが、それすらも嬉しくはありません。)お二人が年老いて体も衰えて行かれる、その姿を見守ってお世話して差し上げられないことがいちばん心残りで、(月の世界に帰ってからもいっそう)お二人を恋しく思うことでしょう」
この情愛の表明は、「かぐや…」の方にも欲しかった。
この情愛とは別に、「竹取」でひとつ注目すべき点がある。姫が「月の世界に父母がいます」と言うこと。
姫の彼の地での身分の高さ(迎えに来た天人の中の王と思われる存在が、姫に敬語を使っている!)から考えて、養い親ではなく、血の繋がった親だろう。とすれば、彼の地でも人は成長し、結婚し、子を産み、育てる。
ということは、姫の「老いもなく憂いもありません」という言葉にもかかわらず、天人も老いるということだ。 (憂いについては、あとで考える。)
迎えに来た天人がどんな様子をしているか、「衣装の美しいこと、比べるものとてない」としかわからないが、「かぐや姫の物語」を仮に参考にすると、“天の王”に相当すると思われるものは、無表情で、如来像のようで、なんだか不気味な存在だ。「天には感情がない」ことの象徴のようだ。
ぼくたちが思い出しておくべきは、“天”は、仏教徒が憧れるこの世とは別の彼方の地、極楽浄土、とは違う、ということだ。人間界を含めた六界、六道輪廻のめぐりあわせの中にある。天人も老い、滅ぶのだ(「天人五衰」)。そのことについては、この世との違いは時間の長さに過ぎない。
姫がこの世の恩愛や喜び悲しみのすべてを捨てて帰らねばならないのは、そのようなところだ。虚無の不毛の空間ではないにしても。
さて、姫は羽衣を着せようとする天人をおし留め、翁と媼に手紙と衣装を残し、先に書いたように御門に手紙と不老不死の薬を残して去っていく。
「かぐや…」では、月に向かう雲の上から、彼女はいちど振り返る。彼方に青く美しい地球が浮かんでいる。姫は、何かを思い出そうとしているように見える。このラストは、大変美しい。
ぼくは、「竹取」と「かぐや…」を通してみて、前半は「かぐや…」に、後半は「竹取」に、心を惹かれる。ラストは、上記のシーンのため、再び「かぐや…」に軍配を上げたい。
だが、もう少しだけ、付け加えるべきことがある。(明日はハイキングなので、明後日。)