姫の都での生活は、押しつけとそれに対する反抗から始まる。翁は、「都に上がって高貴の姫君となり、貴公子に見初められることこそが姫の幸せ」と信じ切っており、彼としては良かれと思って姫に押し付けることが姫を苦しめる。翁の考えは平安朝時代の貴族社会が持っていた女性の幸せについての固定観念の受け売りだ。固定観念の押し付けが強固であるほど、それを受け入れられない女性は苦しむことになる。
躾と教養を教える係として雇われた女性「相模」も、「高貴の姫君は~するものではありません」と繰り返す。口を開けて笑ってはいけない。走ってはいけない。汗をかくようなはしたない真似はいけない…これは翁よりもっと具体的に、ジェンダー(社会的文化的な性差、男女の役割の差別)・バイアスとして、姫の生き方・行動・感じ方までを縛ろうとするものだ。
姫は走り、笑い、圧力に対しては反抗し、怒る。そして一方で、媼と一緒に糸を紡いだり機を織ったりという、高貴な女のすることでない、女の昔からの日常的な営みに安らぎを得ようとする。
彼女が断固拒否しようとするのが、眉を抜くことと鉄漿(おはぐろ)をつけることだ。彼女は、「高貴な姫君だって汗をかくし、時にはげらげら笑いたいことだってあるはずよ」「涙が止まらないことだって、怒鳴りたくなることだってあるわ」と言う。高貴な姫君について言ってはいるが、じつは男とか女とか、高貴とか庶民とかにかかわらず、人間ならば誰しもに共通な人間性の主張だ。人は感情を殺しては生きられないという主張だ。
この、ひと続きに言われる前半と後半の語尾の差は重要だ。前半の「あるはずよ」は一般的な想像として言っている。後半の「あるわ」は、姫自身のこと、心の叫びだ。
このあと、相模の「高貴の姫君はそんなことはしない」という言葉にたいして、「高貴の姫君は人間ではないのね」と叫ぶ。
女だからという理由で時に非人間的な生き方を押し付けられる、あるいは、男性社会の価値観に服従・屈服させられて生きることの理不尽さ。それは、平安朝だけでなく、現代でもぼくらの周りにいたるところにあることだ。とくにこの国には(日本は、男女間格差の是正について、世界で最も遅れた国のひとつなのだそうだ)。
「竹取」には、こういう場面は全く出てこない。「竹取」の姫は自分の境遇を受け入れているようだ。これは一昨日書いたことに並んで、「竹取」とアニメの最も違うところだ。
「かぐや姫の物語」は、ここに光を当てることで、フェミニズムをテーマにした物語、単なるおとぎ話でなくきわめて現代的な物語でもある。
この後に、5人の貴公子の求婚の話が来る。
ここは「竹取」では全体の半分以上を占め、しかも5人のそれぞれには実在の人物を思わせる名をつけており、貴族の男たちの失敗とその滑稽さが作者の最も描きたかったところかもしれないのだが、アニメの方は上記のフェミニズムの視点を補い、裏打ちする部分と理解することができる。
五人の貴公子のうち、「竹取」といちばん違うのは石つくりの皇子だ。原作ではいちばん初めに、いちばん軽く、どうでもいいように扱われている。
アニメでは4番目に登場する。先の3人が金にまかせて、あるいは武力にまかせて目的を達しようとするのに、彼は言葉で篭絡しようとする。いちばんイケメンでもあり、プレイボーイでもあり、甘言に巧みだ。姫は一瞬その甘言に惑わされそうになる(「一緒に逃げましょう、ここではないどこかへ。花咲き乱れ、鳥が歌う、緑豊かな地へ」という言葉に惹かれたのだろう)が、媼の機転によって危機を脱する。
フェミニズムの観点からは、ここは女性に自覚を促す部分だ。権力や財産の圧力は跳ね返せても、それだけではまだ危うい。女性が男性社会で従属的でなく自律的に生きるためには、かしこくなければならない。
この後、5人目のいそのかみの中納言の死の知らせが届く。ここに至って姫は、初めて激しく自分の生き方を反省することになる、「みんな不幸になった。私のせいで。偽物の私のせいで。こんなことになるなんて思ってもみなかった」と。
…生きづらさを感じている人は時に、「“ここではないどこか”に、自分がもっと幸福に生きられる場所がある」と考えてしまう。このように生きている自分というものを否定したくなってしまう。あるいは逆に、この世界が間違っていて、自分はこんな世界に苦しみながら生きていくような存在ではない、と思ってしまう。貴種流離感もここから始まる。
ぼくもかつて、そのように思っていたことがある。でもいまでは、それは正しくないと思う。
生き方を変えることはできる。住む場所を変えることもできる。社会をより良いものにしようと努めることはできる。それでも自分の境遇はなかなか変わらないだろう。でも、今のこの生とは別の生があるわけではない。ぼくたちはこの生のうちで、心を閉ざさないで、より良い生き方を考えながら生き続けていくしかない。喜びも悲しみも、ここにしかない。
もしかしたらかぐや姫はこの時に、月の世界を呼び込んでしまったのかもしれない。
躾と教養を教える係として雇われた女性「相模」も、「高貴の姫君は~するものではありません」と繰り返す。口を開けて笑ってはいけない。走ってはいけない。汗をかくようなはしたない真似はいけない…これは翁よりもっと具体的に、ジェンダー(社会的文化的な性差、男女の役割の差別)・バイアスとして、姫の生き方・行動・感じ方までを縛ろうとするものだ。
姫は走り、笑い、圧力に対しては反抗し、怒る。そして一方で、媼と一緒に糸を紡いだり機を織ったりという、高貴な女のすることでない、女の昔からの日常的な営みに安らぎを得ようとする。
彼女が断固拒否しようとするのが、眉を抜くことと鉄漿(おはぐろ)をつけることだ。彼女は、「高貴な姫君だって汗をかくし、時にはげらげら笑いたいことだってあるはずよ」「涙が止まらないことだって、怒鳴りたくなることだってあるわ」と言う。高貴な姫君について言ってはいるが、じつは男とか女とか、高貴とか庶民とかにかかわらず、人間ならば誰しもに共通な人間性の主張だ。人は感情を殺しては生きられないという主張だ。
この、ひと続きに言われる前半と後半の語尾の差は重要だ。前半の「あるはずよ」は一般的な想像として言っている。後半の「あるわ」は、姫自身のこと、心の叫びだ。
このあと、相模の「高貴の姫君はそんなことはしない」という言葉にたいして、「高貴の姫君は人間ではないのね」と叫ぶ。
女だからという理由で時に非人間的な生き方を押し付けられる、あるいは、男性社会の価値観に服従・屈服させられて生きることの理不尽さ。それは、平安朝だけでなく、現代でもぼくらの周りにいたるところにあることだ。とくにこの国には(日本は、男女間格差の是正について、世界で最も遅れた国のひとつなのだそうだ)。
「竹取」には、こういう場面は全く出てこない。「竹取」の姫は自分の境遇を受け入れているようだ。これは一昨日書いたことに並んで、「竹取」とアニメの最も違うところだ。
「かぐや姫の物語」は、ここに光を当てることで、フェミニズムをテーマにした物語、単なるおとぎ話でなくきわめて現代的な物語でもある。
この後に、5人の貴公子の求婚の話が来る。
ここは「竹取」では全体の半分以上を占め、しかも5人のそれぞれには実在の人物を思わせる名をつけており、貴族の男たちの失敗とその滑稽さが作者の最も描きたかったところかもしれないのだが、アニメの方は上記のフェミニズムの視点を補い、裏打ちする部分と理解することができる。
五人の貴公子のうち、「竹取」といちばん違うのは石つくりの皇子だ。原作ではいちばん初めに、いちばん軽く、どうでもいいように扱われている。
アニメでは4番目に登場する。先の3人が金にまかせて、あるいは武力にまかせて目的を達しようとするのに、彼は言葉で篭絡しようとする。いちばんイケメンでもあり、プレイボーイでもあり、甘言に巧みだ。姫は一瞬その甘言に惑わされそうになる(「一緒に逃げましょう、ここではないどこかへ。花咲き乱れ、鳥が歌う、緑豊かな地へ」という言葉に惹かれたのだろう)が、媼の機転によって危機を脱する。
フェミニズムの観点からは、ここは女性に自覚を促す部分だ。権力や財産の圧力は跳ね返せても、それだけではまだ危うい。女性が男性社会で従属的でなく自律的に生きるためには、かしこくなければならない。
この後、5人目のいそのかみの中納言の死の知らせが届く。ここに至って姫は、初めて激しく自分の生き方を反省することになる、「みんな不幸になった。私のせいで。偽物の私のせいで。こんなことになるなんて思ってもみなかった」と。
…生きづらさを感じている人は時に、「“ここではないどこか”に、自分がもっと幸福に生きられる場所がある」と考えてしまう。このように生きている自分というものを否定したくなってしまう。あるいは逆に、この世界が間違っていて、自分はこんな世界に苦しみながら生きていくような存在ではない、と思ってしまう。貴種流離感もここから始まる。
ぼくもかつて、そのように思っていたことがある。でもいまでは、それは正しくないと思う。
生き方を変えることはできる。住む場所を変えることもできる。社会をより良いものにしようと努めることはできる。それでも自分の境遇はなかなか変わらないだろう。でも、今のこの生とは別の生があるわけではない。ぼくたちはこの生のうちで、心を閉ざさないで、より良い生き方を考えながら生き続けていくしかない。喜びも悲しみも、ここにしかない。
もしかしたらかぐや姫はこの時に、月の世界を呼び込んでしまったのかもしれない。