すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

アイ・ソー・ザ・ライト/わたしが歌いに来た歌は

2018-03-28 21:16:59 | 
 「アイ・ソー・ザ・ライト」は発表当時まったくヒットしなかったそうだが、今ではたいへんスタンダードな曲になっている。先日の発表会でも歌った人がいた。
 全くヒットしなかったのも当然かな、とおもわれる、完全に直球の、神への賛歌だ。
 「自分は罪の中に生きていたのに、救い主のおかげで光を見ることができた」という内容は、かの有名な「アメイジング・グレイス」とよく似ている。
 これを日本語でやられたらぼくは共感するわけがないと思うのだが、英語だから直接的に感じないのだろうか。
 素朴で力強い歌で、「アメイジング…」より好きだ(あちらも嫌いではないが)。
 ただ、あまりに直接的なので、ここに歌詞を載せるのはやめておく。

 …ところで、三日前に宗教的な詩作品に触れたときに、いちばん重要な詩人を挙げるのを忘れていた。それは、インドの、ラビンドラナート・タゴールだ。
 タゴールの詩は、引用したいものがいっぱいあるが、このブログは歌手の方が何人か読んでくれているかもしれないので、ここでは「ギタンジャリ(歌の捧げもの)」から、歌を題材にした一編を森本達雄の訳でのせておく。こちらは、「アイ・ソー…」よりは抵抗なく読んでもらえると思う。

「わたしが歌いに来た歌は 今日まで まだ歌われずにいます。
 わたしは 楽器の弦を緊めたり 弛めたりして、毎日を過ごしてきました。
 調子はととのわず、歌詞(ことば)もまだよくは並んでおりません――ただ わたしの胸のうちに 歌いたい欲求の悶えがあるばかり。
 花はいまだに開かず、風のみが 嘆息(ためいき)をつきながら吹きぬけてゆく。
 わたしはまだ あのかたのお顔を拝したことも お声を聴いたこともありません――ただ 表通りを行く あのかたの静かな足音を耳にしたことがあるだけです。
 床に敷物をのべているうちに 長い一日も過ぎ去った――けれども、まだランプに灯が入らないので、あのかたを家にお迎えすることはできません。
 わたしは あのかたにお逢いできるという 期待のうちに暮らしていますが、出会いの時はまだ来ない。」
コメント
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