すべての頂の上に安らぎあり

今日はぼくに残された人生の最初の一日。ぼくは、そしてぼくたちは、この困難と混乱の社会の中で、残りの人生をどう生きるか?

空に向かって/いたるところの春

2018-03-26 12:37:34 | 無いアタマを絞る
さらにふたたび、よしや私達が愛の風景ばかりでなく、
いくつも傷ましい名前をもつた小さな墓地をも、
他の人達の死んでいつた恐ろしい沈黙の深淵をも
知つてゐようと、さらにふたたび、私達は二人して
古い樹の下に出ていつて、さらにふたたび、身を横たへよう
花々のあひだに、空にむかつて。
   (R.M.リルケ、堀辰雄訳)
 昨日の文を書いていてふと思い浮かんだ懐かしい詩を載せておく。

 …ここからは違う話。
 桜の小さな名所は、咲かなければわからない。林試の森に行く途中の、小山台公園。小さな公園だが、いつも幼稚園児が遊んでいるのが良い。桜も見事だ。林試の森の「大きな広場」。ここはふだんは野球の練習等に使われているのだが、早朝に行くと、三方を取り囲む桜が静かに咲いていて良い。もう一方はプラタナスの並木で、こちらは新緑が楽しみだ。先日書いた「碑さくら通り」は、やや木の老化が進んでいて、これと交差する田向公園前の通りの方が美しい。
 上野公園に昨日30万人の花見客が出たそうだが、あんな人混みで宴会するなんて、まっぴらごめんだ。

咲くほどに名所とわかる桜かな

あたりいちめんの春。桜の季節が良いのは、いたるところが春につつまれるからだ。

その春の中を歩き回る。
宮沢賢治ふうに言えば、修羅は春の中を行く。
歩き回るぼくは修羅だろうか?
それほど心の中に嵐を抱えているわけでもない。
さりとて、春と菩薩、でもない。
春と、道を尋ねるもの…ではかっこ良すぎる。
春と迷子…子供ではないしなあ。
春と彷徨い老人…徘徊みたいだなあ。

桜の樹の下では、子供が遊んでいる

有名な、「桜の樹の下には死体が眠っている」は、確かに鋭いと思うが、病的な鋭さだ。
子供が遊んでいる方がいい。
あと数日して、散る桜の下なら、なお良い。
 
終わってゆくものと、始まったばかりのもの。
下り行くものと、上ってゆくものの交差。

ふたたび、リルケ。

…みよ、かれらはおそらく、葉の落ちつくしたはしばみの枝に芽生えた
垂れさがる花序をゆびさすであろう、あるいは
早春の黒い土に降りそそぐ雨にわれらの思いを誘おう。

そしてわれわれ、昇る幸福に思いをはせる
ものたちは、ほとんど驚愕にちかい
感動をおぼえるであろう、
降りくだる幸福のあることを知るときに。
    (ドゥイノの悲歌 第十)
コメント
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