東京教組(東京都公立学校教職員組合)

教職員のセーフティーネット“東京教組”

危ない・怖い・高い「オスプレイ」

2012年08月31日 | インポート

10okinawa2
 オスプレイは1機50億円以上もする超高額兵器だ。現行の輸送ヘリCH46が1機5億円弱だから10倍以上もする。米政府はとりあえずこれを458機、調達しCH46から順次オスプレイに更新していく。部品交換や整備も含めて軍需産業に巨万の富を与え続けることになる。そして、配備されれば墜落の危険とともに、いつでもアジアに海兵隊を運ぶことができ、「アジアの要石」として沖縄は機能させられる。

  さて、台風で延期になった「オスプレイ配備反対、沖縄県民大会」が9月9日に開催される。東京でも沖縄県民大会と同時アクション「国会包囲」を行う。

 沖縄と連帯し、県民大会の開催時刻に合わせて、東京・国会議事堂前で「オスプレイ配備を中止に追い込むための国会包囲行動」にしたい。

 日時:9月9日(日)11:00~12:30
 集合場所:憲政記念会館 11時集合
 主催:9.9沖縄県民大会と同時アクション実行委員会(フォーラム平和・人権・環境、ピースボート、沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック他)


食教育(カリキュラム講座)

2012年08月30日 | インポート

Photo_2
 日教組の関東ブロック・カリキュラム編成講座が、8月17、18日に開催されました。
 今年の開催は茨城県の水戸でしたが、使用したホテルが半年前に改修し終え営業を再開した事や、まだ市外にはいたるところでブルーシートに覆われた家屋があることなどを聞き、あらためて、3・11の東日本大震災のすさまじさを思いました。 
 東京からは栄養職員部の武高子さんが、環境教育の分科会で、「食の安全を考える」というテーマで報告しました。武さんは福島第一原発の事故の影響を多くの保護者が心配している、給食試食会の際に放射能汚染について保護者とともに学習会を行った結果について、報告しました。そして、「食教育」とは学校において栄養職員、教員、主事、という様々な職種の人間が連携する事により根付くという事を強調していました。会場からは、今年栄養職員になった若い人から、食材の放射能数値を毎回計り公表しているが、生産者でもある地元の人から公表しないでほしいといわれ、今話し合いの最中であるという、深刻な問題も提起されました。講師の野田さんからは、きちんとはかる事により問題がないということを理解してもらう事に尽きるとの回答がありました。
 今回は他にも、社会科教育、学力の二つの分科会が設定され、活発な討議が交わされました。暑い水戸での二日間でしたが、多くの成果を得る事ができました。

                        (カンナ


生活指導…

2012年08月28日 | インポート
Photo
 生活指導に関する話し合いはどこの職場でも行っているだろう。かつて、こうした話し合いは生活指導上困難な問題を抱えている子に対してどのように対応すべきかお互いに意見を出し合い、共通理解をしていく場だったと思う。しかし、最近は話し合いというよりも一方的な報告会になっているように思う。
 そして、その内容は子どもたちの問題行動についてスクールカウンセラーに相談したところ「通常学級」では困難とのことなので保護者と相談するといったものが多い。私が教員になった頃は、先輩から「クラスの一人も切り捨ててはいけない」と教わったものだが、こうした考えをもつ教員は少ない。
 この夏に行われた学習会で石川憲彦さんにこうした現場の様子について話すと、石川さんは、「子どもの指導に難しさを感じる教員がどう子どもに対応すればいいのか自信がないものだから専門家に頼って、その通りにしてしまう。こうした教員は東電の社員みたいなものだ。」などと話していた。
 一方、参加者の若手教員が、「いろいろな子がクラスにいるのは当たり前のことだと思っている。」なとと発言するのを聞いて、こうした感覚をどうしたら職場の仲間に伝えられるのだろうなと思うのだった。(Weekly東京教組「プラザ」より)
             (ゴーヤ)



横田基地とオスプレイ導入

2012年08月27日 | インポート
Photo
西多摩教組の連続学習会が、9月8日(土) 13:00~17:00に開催されます。
「自衛隊総体司令部移転後の横田基地とオスプレイ導入問題」と題して、マイクロバスによる横田基地フィールドワークと講演を予定しています。
講師は、遠藤洋一さん(元福生市議会副議長)
集合は、西武拝島駅前ロータリー13:00です。
参加費:1500円
フィールワーク後に、JR青梅線牛浜駅側さくら会館で講演を行います。
お問い合わせは、東京教組まで。(03-5276-1311)

        (アメリカンブルー



メダリスト・パレード

2012年08月23日 | インポート
10okinawa6ロンドンオリンピックが終わった。といってもこの原稿を書いている時点ではパラリンピックは終わっていないのであって、メダリスト達のパレードだ、と騒ぐのはまだだろうと思うのだが、ともかく終了した。へそまがりの自分は、オリンピックの度にマスコミが「日本のメダルが何個になりました」と大騒ぎする都度、気持は引く一方だ。せっかく世界のトップレベルでの戦いが見られるのだから、日本人選手が出ていなくても、そこが見たいのだが、どうもテレビを見る限り、日本人選手中心の放映になっている気がするのは私だけだろうか。そんな中、こんな心温まる記事を見つけた。男子20キロ競歩で銀メダルに輝いた、グアテマラのバロンド選手がこんな一言を残したというのだ。
「メダルを見て子どもたちが銃やナイフを置きトレーニングシューズを履いてくれたらいい。そうなれば、僕は世界一幸せな人間だ」
 オリンピックの原点は「平和」だ。今回も内戦をかかえたいくつかの国が、参加した。スポーツの素晴らしさに触れる中で、いくつかの地域で戦闘状態が終われば、こんな素敵な事はない。私はこのバロンドの一言が、オリンピックの存在意義を静かに語りかけているように思えた。
ちなみに、パラリンピックが終わってからメダリスト・パレードをする国が多いそうです。
              (ハマゴウ)


アイヌ民族副読本

2012年08月22日 | インポート

Img_4776
 すべての小中学校に配布されているアイヌ民族副読本が、編集委員に断わりもなく改ざんされた件で、東京教組も撤回するよう署名にとりくみました。

 一北海道議会議員のアイヌ民族副読本問題への政治介入に同調してアイヌ文化振興・研究推進機構事務局が行った ①3月27日に全国の教育委員会に「修整・削除」文書を配布して歴史の改ざんする。 ②新たな編集委員会を選任し、来年度から全面改定した副読本を配布する。 ③今年度は副読本は発行しないの方針を決める。などに対して、全国から抗議と撤回要求が相次ぎました。

 アイヌ文化振興・研究推進機構は、これらの抗議を受けて7月24日事業運営委員会・8月1日評議委員会・8月2日の理事会ですべて撤回することを決定しました。

 署名に協力してくださった皆さんに、全面的に勝利したことを報告します。
 このことについて、旭川アイヌ協議会会長・川村シンリツ・エオリパック・アイヌさんは「修正の必要はまったくなく、記述を改ざん・薄めることは許せなかった。今回の勝利は首都圏のアイヌが札幌にかけつけたことも大きい」

 東京アイヌ協会・宇梶静江さんは「40年間、行政に勝つことができず悔しい思いをし続けてきた。今回の勝利は本当にうれしいしやはり言い続けなければならないと改めて思った」

 ペウレウタリの会会長・石川洋子さんは「札幌まで会の代表として行った甲斐があった。みんなが勝利したといって喜んでくれて本当にうれしい」

 レラの会代表・平田幸さん「財団はアイヌを軽んじているが、撤回させることができて本当によかった」と感想を述べています。

        (クローバー、シロツメクサ・アカツメクサ)


オキナワ・スタディー・ツアー報告 その3

2012年08月21日 | インポート

7月29日 Oki1

辺野古テント村

 基地との間に5000万円かけてフェンスを作ったそうです。このフェンスはアートギャラリーとしてバナーを貼ったりリボンを結んだりしています。米兵や右翼がバナーを持って行くことがあるので、朝貼って夕方はがしているそうです。右翼が来ることもあり初めて警察が守ってくれたとのこと。オスプレイについても沖縄県内41市町村の全て反対、知事も反対している。もしOki2
辺野古に新基地をつくったら、その滑走路はオスプレイのために使う計画。新基地建設の経費は埋め立てや滑走路建設の費用のみ公開されていて、付属施設やコンピュータ施設の費用は明かされていない。辺野古付近はジュゴンやウミガメウミガメの産卵地とアOki4セスでも出ているのに埋め立てても環境に影響なしというのは考えられないこと。今ある娯楽施設(プール映画ボーリング場)は2500万円かけて作ったものだが新基地建設となれば壊してまた建てる
ことになる。埋め立てに必要な土砂2100万立方メートル(10tトラックの2560000台分)がどこから持ってくるとは言っていない。このようにたくさん不明点や問題点がある。年末年始に埋め立て許可の申請が出る。そこが大きな戦いになる。安次冨さんが熱く語ってくださいました。
 辺野古の座り込みが3000日を越えました。ここまで長引くとは予想しOki5_2なかったですが、状況が変わって辺野古という言葉が全国紙に載るようになりヤマトンチューの意識も変わってきたと思います。今後も辺野古新基地建設反対の闘いに連帯していきます。
バスのドライバーの屋比久さんが三線を弾いてくださいました。曲は昨日真栄城さんが紹介してくださった「かんぽーのけーぬくさー(艦砲射撃の食い残し)」です。こんな風に話に出てきた曲を三線で弾いてくださるなんて感激でした。
午後から渡嘉敷島に渡りました。

Oki6集団自決跡地

 当時、渡嘉敷島は特攻を目的とした部隊がいました。でも陸上戦を考えていなかったので、まさか米軍が島にくると思っていなかったそうです。米軍が上陸した3/28は土砂降りの雨でした。住民にニシヤマに行けと役場の指示がありました。日Oki7本軍が住民に基地を作らせたので住民は軍の規模を知っています。情報が漏れるのを恐れて手榴弾が配られました。役場にいた退役軍人が軍から渡され
た手榴弾を住民に配ったそうです。
ニシヤマの沢に逃げていた住民のところに米軍の砲弾が飛んできました。その砲弾が人に当たって肉片が飛び散り、辺りはパニックになりました。そして集団自死が起きてしまったそうです。
Oki8
白玉の塔

 白玉の塔は、島民だけでなく軍人も島外出身者も名前を刻んでいる慰霊碑です。軍人でも反省した人もいたそうです。戦後その人は島にテレビを送ったり、祭りの商品を送ったりして交流しました。死んだ人はみな同じ、だから亡くなった人の名前を全て刻もうという嘆願があって実現したそうです。
Oki9
アリラン慰霊のモニュメント

このモニュメントは「アリラン慰霊のモニュメントをつくる会」の呼びかけに応え沖縄県をはじめ全国からのボランティアによってつくられました。
Oki10 海上特攻隊の秘密基地とされた慶良間諸島には、朝鮮半島から強制連行された千余の「軍夫」が苦役に、21人の女性が「慰安婦」としてつながれていました。戦後帰郷の道を失って沖縄に取り残された渡嘉敷の元「慰安婦」のポペンギさんが死語5日目に発見されたことに衝撃をうけ、悲惨な犠牲を強いられた女性達を悼み心に刻むためモニュメントをつくりました。
 Oki11米田秀明さんのお話 米田さんは1923年生まれ、琉球新報の記者として働いてきました。戦争体験はありませんが、体験を語り継いでいこう、過ちを繰り返えさないために子供に伝えたいという思いで、語り部をしていらっしゃいます。
戦前戦中は、学校で子供のころから「アメリカ人に捕まってはいけない、捕まるのは日本人として恥だよ」と教えられました。兵隊になるのが憧れでした。硫黄島陥落後、沖縄で基地つくりや疎開が始まりました。明治時代の地図があったので米軍は沖縄本島を攻め入る前の準備を慶良間諸島でする計画をたてました。日本軍は1000名の軍人を慶良間諸島に連れてきて、学校を兵舎にし、民家にも泊まって、基地を作り帰っていきました。次に来たのは赤松隊長の特攻隊400人でした。海上特攻艇は120キロ爆弾を積んで体当たりする作戦でした。特攻艇の秘密基地つくりに少年や女性を借り出しました。朝鮮人を連れて来て特攻艇を隠すための穴を掘らせました。奴隷のように使い、血をダラダラ流しながら穴を掘っていたそうです。「慰安婦」も6人いて、日本人がそこに並んでいたそうです。10okinawa2_2
 3/26座間味島は米軍に最初に占領されました。阿波連ビーチに米軍が上陸してきました。1000人いた日本軍がニシヤマに集まれといわれ、壕を沢の横に掘って3/27の夜移動しました。阿波連の人もそこに行きました。手榴弾が各家庭に二個ずつ渡され、ひとつはアメリカ軍に投げて、ひとつは自決に使うように言われたそうです。手榴弾の不発があったため、死ねなかった人たちの間に、カミソリや刀を使う、紐でしめる 、棒でたたくという悲劇がおこりました。生き残った人は思い出したくない、語らないで戦後ずっときました。でも教科書問題がおこり、嘘が教科書に載ったら困るという思いで、体験を語る人が増えました。
 米山さんのお母さんもずっと語らなかったそうですが、教科書問題のときに語ったそうです。
母の体験談・・・母が16歳の時、ニシヤマで「天皇陛下万歳」といいながら自決がおきた。家族13人は死んでもはなれないようにと父が着物の帯10okinawa5で結んだ。手榴弾で父兄5人は即死だった。母と祖母は爆発の時父が二人の頭を下げたので命をとりとめた。逃げようとすると「どうして逃げるのか、日本人なのに」といわれた。それを振り切って逃げた。夜一人になると玉砕を思い出す。封印したい。悲しみよりも死ぬことができた父が羨ましかった。あんな教育だったから・・・

 米山さんはアレクサンダー伍長という人がニューヨークタイムズに載せた記事や「この写真はわたし」という金城トミさんの記事も見せてくださいました。渡嘉敷島では329名が集団自決でなくなりました。生き残った人の戦後の話、赤松隊長のその後の話、住民が全員生き残った前島の話など、たくさんのことを米山さんは語ってくださいました。
 お話の後、解散式をその場でやりました。初参加の5人にツアーの感想を語ってもらいました。内容の濃い3日間でした。4日目はフリータイム。でも台風のため、渡嘉敷には10時までしかいられませんでした。みなさんお疲れ様でした。
    (クサトベラ)


差別があるところに公害

2012年08月21日 | インポート

Photo
 胎児性水俣病の発生を証明し、カネミ油症、三池炭鉱CO中毒などにもとりくみ続けて、患者・被害者の信頼を集めていた原田正純医師が6月11日に静かに息を引き取った(享年77歳)。
 1300人もの市民が参列して地元熊本で「お別れ会」が開催された。9月29日(土)には追悼講演会が有楽町朝日マリオンホールで行われる。
 「公害が起きて差別が生まれたのだと思っていたが、どうも違った。差別があるところに公害が起きた、というのが実相ではないか」と語った原田さん。そのことは、沖縄にも、福島にも通じる。原発被害者の補償が始まろうとしている中、水俣病被害者の補償申請は、7月で終わり、幕引きをはかろうとしている。
 「人類にとって水俣病の経験は、かけがえのない負の遺産です」とも話していた原田さん。その遺産を生かせず、また政治と企業の論理(理念なき政治、道徳なき商業)によって引き起こされた原発事故をどんなに無念に思っていただろうと思う。

 ミナマタもオキナワもフクシマも差別のあるところに起きた公害ではないだろうかと、差別してきた東京にいて思う。

                 (フジ・藤)


領土問題

2012年08月20日 | インポート

Photo
 オリンピック韓国サッカー選手の「独島領有」メッセージボードや李大統領の竹島訪問、尖閣諸島に香港活動家上陸など「領土問題」をめぐり、ナショナリズムを煽る報道や主張が目立つ。「北方領土」「尖閣諸島」「竹島」など隣国との領土問題にどのように臨むべきか、孫崎亨さん(元・外務省国際情報局長・イラン大使・防衛大学教授)が外交官らしい冷静な提起をしている。

その提起は、
「(い)第1に相手の主張を知り、各々言い分がどれだけ客観的であるかを理解し、不要な摩擦は避ける。
(ろ)第2に、領土紛争を避けるための具体的な取り決めを行う。中国とASEAN諸国が2002年11月署名した「南シナ海の行動宣言」には「領有権紛争は武力行使に訴えることなく、平和的手段で解決する」「現在(当事国に)占有されていない島や岩礁上への居住などの行為を控え、領有権争いを紛糾、拡大させる行動を自制する」の項目がある。これが参考になる。
(は)国際司法裁判所に提訴するなど、解決に第三者をできるだけ介入させる。
(に)緊密な多角的相互依存関係を構築する。
(ほ)国連の原則を前面に出していく。国連憲章第2条第4項は「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」としている。
(へ)2国間で軍事力を使わないことを共通の原則とし、それについて、しばしば言及する。これによって、遵守の機運をお互いに醸成する。
(と)領土問題は、それだけで紛争に拡大することはない。しばしば、地下資源や漁業資源がからむ。従って、地下資源や漁業資源について合意し、それを遵守する。日中間には「日中漁業協定」がある。資源に関する共同開発などの話もある。これらを進め、これから対立が生じないようにする。
(ち)現在の世代で解決できないものは、実質的に棚上げし、対立を避ける。あわせて、棚上げ期間中は双方がこの問題の解決のために武力を利用しないことを約束する。」(日経ビジネスオンライン より抜粋)

 中国や韓国になめられないために、オキナワを犠牲にして米軍のオスプレイに守ってもらおうとするのは日本の国益にもならない。防衛大学出身で外務省にもいた森本敏防衛大臣に再考を促したい。

                 (オリズルラン)

 


オキナワスタディー・ツアー報告2

2012年08月17日 | インポート

Okinawa17月28日
ヌヌマチガマ~ガラビ壕
 ガマは石灰岩つまり炭酸カルシウムからできています。それはサンゴチュウの外骨格が主なもとです。
 沖縄は雨多いところです。北部には川がありますが短いです。南部には川は少なく地下ダムになっています。
Okinawa2_2 ガマは石灰石を川がとかして再結晶化したものです。
 安定した空洞で地下水があるので隠れるのに適した場所でした。
 このヌヌチマガマは白梅部隊がいたところです。白梅学徒5名が生き残りました。南部撤退のとき歩けるものは現隊復帰と言われ、歩けないものは殺されました。Okinawa4
軍事保持のためという理由で殺された約500人は戦病死扱いになりました。「戦う能力のないものは捕虜になる権利がある」という教育がされていなかったのです。白梅部隊は毒薬を包む仕事を命じられましたが配ってはいません。「元いた隊に戻りなさい」と言われ配らずガマを出たのでした。その中の一人、仲地さんが忘れ物をとりにきて実態を知るわけです。
オキナワスタディー・ツアー2日目(7/28)は、沖縄戦で避難所や野戦病院として使われたヌヌマチガマ~ガラビ壕、浦添城址公園 前田高地平和の碑、くすぬち平和文化館、嘉手納米軍基地が一望できる「道の駅・かでな」、読谷村の不戦宣言の碑をまわりました。

Okinawa6_2浦添城址公園 前田高地平和の碑
 浦添城跡からは、作戦本部の首里城が見え、米軍が最初に上陸した座間味島が見え、普天間基地も全体像がよく見えます。
 首里戦線のここは5000人も亡くなった激戦地です。日本軍は守りたかったし、米軍はとりたかったところです。そのため土台も無くなるくらい浦添城は壊されました。戦後は普天間基地の滑走路を作るため残っていた浦添城の本殿の石を使われました。戦争でめちゃめちゃに壊された浦添城です。そのため他の城のように世界遺産にも認定されませんでした。しかし現在少しずつ復元工事がされています。Okinawa7_2
 前田高地平和の碑の後ろには亡くなった方のお名前が刻まれています。北海道出身者が多くいます。現在の階段の下に当時の階段が残っていました。日本軍は隠れる所として、たくさんあった穴に陣地を作りました。その一部も碑の右側に残っています。前田高地ではノモンハンでやった「火炎瓶戦法」をやったそうです。爆雷で米軍のキャタピラーを壊し、火炎瓶で砲弾を壊すという戦法です。兵士は戦闘前に「認識票を外せ」と上官に言われたそうです。それは骨になっても帰らないことを意味していました。2/3の兵士が亡くなりました。
 2004年にイラクのサマワに自衛隊を派兵して誰も死なずに戻ってきましたが、その後自殺者が15人出ています。派兵されたのは北海道出身者でした。「またかと思った」と山内さんが語ります。

Okinawa8_2くすぬち平和文化館
 お昼からはくすぬち平和文化館の館長である真栄城玄徳さんがガイドしてくださいました。
 真栄城さんは1974年子ども達のために地域文庫を作りました。すると「この絵本はどこで買えるの」と聞かれるようになり1980年に子どもの本を売る本屋「アルム」を作ったそうです。また真栄城さんOkinawa9_3は嘉手納基地の中にある祖母の土地を相続し反戦地主でもありました。
くすぬちとはクスノキのことです。祖母の土地にクスノキがあったそうです。
 貯めた地代は地域の子ども達に使おうと考え1998年「くすぬち平和文化館」をつくりました。サロンの壁には巾2.5M・高さ6Mのガラスモザイクの壁画「ゆがふたぼうり」がはめこまれています。それは農作物がよく育ちますようにという意味で、黒は文化、青は友情や人とのつながり、赤は情熱や命、白は希望、緑は成長を表しています。         
Okinawa11_2道の駅かでな

  嘉手納基地は2000万㎡で品川区と同じ位の面積があります。この日は新型機F22を撮影しようという人がいっぱいいました。爆音はすごいです。山本隆さんの調査によると爆音で学校の授業がストップすることが12年間で9000時間もあるそうです。60デシベル以上の騒音は生物に影響を与えます。子ども達は12年間爆音を聞き続けることで免疫力が落ちるといわれています。
不戦宣言の碑Okonawa6
 読谷村は米軍基地の中に公共施設を建てさせてきました。戦争を二度としないという思いをいろいろな世代Oki14がこの碑にこめました。老人クラブは8886の定型詩にしました。
戦争責任まで追求している歌「かんぽーのけーぬくさー(艦砲射撃の食い残し)」を碑にしようという動きもあるそうです。この曲のCDを真栄城さんにいただきました。
Oki16_2
チビチリガマ
 4/1上陸した米軍の投降の呼びかけがあり、ガマの中はパニック状態になりました。地域の指導的役割をしていた18歳の少女が「米軍の辱めを受けるよりお母さんの手で殺してください」といい母が娘の首に刃物をあてました。従軍看護婦の経験者は薬Oki15
を家族に注射しました。なんとか死のうとして布団に火をつけた人もいました。80数名が焼け死にました。酸欠状態のあまりの苦しさに窒息死するより外を見て殺されたいと思い脱出した人もいました。知花カマドさんは長女を連れて外に出て、長女は米兵のくれたさとうきびの汁で息を吹き返したそうです。しかし長男は母の着物の裾をもっていOki17たはずがはぐれてしまいました。母は引き返し探しますが見つかりません。長女は無事育って結婚し子供もできました。自分が生き残ったので何かしたいと母は語っているそうです。

恨の碑
 残波岬に朝鮮半島と向かいあう形で碑がたっています。日本は朝鮮半島から100万人以上といわれる人々を強制連10okinawa1
行し、日本軍の軍夫や性奴隷として使役しました。その不幸な過去を心に刻み平和・共生への決意の印として2006年に碑を作りました。

 (ゲットウ・月桃)


オキナワ・スタディー・ツアー報告1

2012年08月16日 | インポート

10okinawa4_2東京教組のオキナワ・スタディー・ツアーが、今年も7月27日~30日に行われました。
 1日目は、ひめゆり平和祈念資料館とひめゆりの塔、韓国人慰霊碑、沖縄県立平和祈念資料館と平和の礎、 魂魄の塔をまわりました。那覇空港につくとガイドの山内榮さんが待っていてくださいました。
「時間と距離は人間を忘却させる。記録を消す。記憶が薄れる。ねつ造が始まる。すると事実は子供に伝わらない。」
「疑問符をもって沖縄を見ることが必要。日本国憲法下の沖縄なのになぜこのような状態なのか。考えながらあるくこと。」と 最初に山内さんが話してくださいました。

Okinawa2ひめゆり平和祈念資料館とひめゆりの塔
世界で唯一の「戦争と教育」がテーマの資料館です。
戦後、最大の犠牲を出した伊原第三外科壕跡に「ひめゆりの塔」が建立されました。Okinawa3_2
ひめゆりの塔を建てるのに尽力したのが金城和信さんです。金城さんの次女貞子さんは第一高女におり、第三外科壕でガス弾により亡くなりました。長女信子さんは本科二年におり亡くなっています。
右はは戦後すぐのひめゆりの塔です。塔の前の木の板に
「信子よ貞子よいとし子よ つれだちていづこへ行きし」と書いてありました。

Okinawa6
韓国人慰霊碑

「虐殺」の言葉がある慰霊碑の解説板があります。
円墳は韓国の典型的な墓で、小さい石は各道県からもってきたものだそうです。地面にある⇒は北に四度傾いていてソウルを指しています。矢印の上で拍手すると響きます。それは矢島の下に甕が入っているからだそうです。
「韓国朝鮮からオキナワにつれて来られた人は軍夫にされた。軍夫には階級の星がなかった。星は給料をあらわす。つまり星がないとは給料なしで働かせるということだ。その上銃も持たされなかった。」

沖縄県立平和祈念資料館と平和の礎Okinawa7

1960年に摩文仁の公園はできました。戦後処理予算で旧厚生省がつくったそうです。
最初は軍人のみの慰霊碑でしたが住民も入れていこうという声が広がり「平和の礎」ができました。
「平和の礎(いしじ)」はあるところに対するアンチテーゼです。それは靖国神社の「国の礎(いしずえ)」。ウチOkinawa8ナーグチでいしずえのことをいしじと言います。戦争の
実相をしめしたのが平和の礎です。
名前は分かるところまで入れました。
沖縄戦で家だけでなく墓もなくなった人達が礎に来て名前を探しました。探して名前がないと刻銘するよう申請しました。

魂魄の塔Okinawa9_2

魂魄の意味は?
「魄」は成仏できなかった魂や浮遊霊、「魂」は昇天する魂、仏教用語です。米軍は沖縄南部に艦砲弾をOkinawa10
80万発も打ち込みました。
なぜそんなにたくさん撃ったかというと、どうやったら合法的に自分の故郷に帰れるかを考え、持っている砲弾を使い切ろうとしたからです。
五インチ艦砲弾は半径230mに飛び散ります。南部では一坪に8発打ち込まれた計算になります。
約35000人が亡くなりました。35000人中の5000人は軍人で残りは住民です。軍人には日本Okinawa11
軍だけでなく米軍も韓国朝鮮人もいました。
戦後、収容所などで栄養失調と不衛生で伝染病が流行ったためGHQは4500人を那覇から荒崎に移住させました。その人たちが畑をつくろうとして地面を掘ると遺骨が出る、それを集めたのが魂魄の塔です。
行方知れずの家族の遺骨が魂魄の塔に入っているかもしれないと思い、6月23日の慰霊の日には摩文仁ではなくここ魂魄の塔にお参りにくる方がたくさんいます。

ミーバルビーチの夜明け

                     (ハイビスカスと蝶「カバマダラ」

 


スクール・セクハラ

2012年08月15日 | インポート
Photo_2
 東京教組の元女性部長の徳永恭子さんが「なぜ防げない?スクール・セクシュアル・ハラスメント―アンケート調査に見る教職員の実態―」(ひろしま女性学研究所発行)を上梓した。
 退職後、現場での体験や、「スクール・セクシュアル・ハラスメント防止関東ネットワーク」の相談員としての活動、教職員へのアンケート調査などを修士論文としてまとめた労作である。
 その中で徳永さんは、セクハラの防止と解決には、①教職員の研修の必要性 ②児童生徒への人権教育としての性教育の必要性 ③保護者へのセクハラ防止に関する啓発の必要性 ④子どもの権利条約とセクハラ防止教育の関連性 ⑤二次被害の防止 ⑥管理職や教育委員会の役割 ⑦障害児へのセクハラ防止と解決などについて具体的な提案と課題を明らかにしている。
 読んでいて、私たちが学校で同僚、児童生徒のSOSに気づく感性と解決に向けて踏み出す勇気が、いかに大切か痛感した。
                 (オシロイバナ)


大人の千羽鶴

2012年08月13日 | インポート
Photo 7月19日付けの東京教組のブログで「チエルノブイリの折鶴」という記事がありました。もっと読みたい人は次のアドレスへ、というのでクリックして見ました。その記事の途中「大人の千羽鶴」の記事が目にとまり読んでみました。2011年3月11日付けのその内容は、東日本大震災にあった被災地にむけての支援の方法を書いていて、思わずう~んと言ってしまいました。今の1000円札は野口英世のデザインで、鶴は飛んでないけど若者らしい素晴らしい発想力ですね。
 組合では、東日本大震災支援カンパも取り組んでいるし、原水禁大会などへの派遣費としての平和カンパ、世界中の災害や貧困地域などの子どもたちへ送る年末カンパなど、さまざまな形で自分たちの気持ちを届けられるから、とりあえず私は組合を通して「大人の千羽鶴」を何羽か飛ばそうかな。
 「グラビアアイドルの多田あさみさんが、自身のブログに投稿した募金方法が話題になっています。「大人の千羽鶴始めました」というタイトルで始まる投稿には、大手コンビニエンスストアの機械(FAMIポート)から日本赤十字団体へ募金する方法が写真付きで書かれています。多田さんは1000円札に書かれている鶴を千羽鶴にたとえ、「今、本当に必要な鶴を被災地へ」と綴っています。そして、「一人じゃこの千羽鶴はできませんがみんなで力を合わせればきっと千羽以上になるはず。もちろん、鶴より小さい小鳥でもいいし、余裕のある方は諭吉さんのお供の朱雀だか鳳凰を飛ばすのもいいと思います。大人の千羽鶴始めましょ」(ブログより引用)と、「大人の千羽鶴」を呼びかけているのです。」(I)
                   (アプチロン)


日本国憲法バッグとTシャツ

2012年08月11日 | インポート
0_2
 今年も祈りの8月が巡ってきた。ヒロシマ・ナガサキに原爆が投下され、敗戦を迎えて67年になる。このブログにも祈りの様子が掲載されている。
 7月16日の「さようなら原発集会」の時、黄色いさようなら原発のTシャツの多い中、「憲法九条」の条文の一部をデザインしたTシャツを着ている方を何人か見かけた。
 聞くと、デザインされた書は、八王子市内で小学校の教員をしていた方が「二度と戦争はしたくない」という強い思いを込め、永年書き続けていたという。
 終戦直前、高尾山周辺に疎開してきた子どもたちの面倒を見ていて、そうした体験から思いを強くし、書きためていたという。その方が他界したあと、掛け軸は書道に理解のある知人に譲ったが、「家に飾っておくだけではもったいない。故人の遺志をたくさんの人に伝えられないか」と言われ、義父の意志を形にしたいと考えて、Tシャツやバックにデザインを入れて販売をすることにしたという。
01
 九条の条文中、「戦争と武力による威嚇または武力の行使は、(中略)永久にこれを放棄する」が書かれている。製作者の花沢さんは、「ふだんはじっくり考えることが少ない、憲法や戦争について、気軽に考えるきっかけにしてほしい」と話す。
 日常、バックを持ち歩いたり、シャツを集会などに着ていくのも、気持ちを伝える運動のひとつの方法かも知れない。
Tシャツは16色、1枚2000円。布製バックは(A3)1500円、(A4)1200円で、2色。
問い合わせは花工房プラス 042-668-2468




ナガサキ原爆忌 その4

2012年08月10日 | インポート
02_2
 原水禁大会での行動は、爆心地公園での黙祷をもって終了した。せっかくなので、平和公園で行われている平和祈念式典に行ってみた。平和公園は、もともと刑務所があったところで、小高い丘の上にある。川沿いの遊歩道から坂道を登って行くと、「満席です」のプレートを持った警備担当者が立っていた。聞くところによると、会場への入場チェックが厳しくなり、昨年も大勢の人が会場の外で待ったらしい。
 式典では、田上富久長崎市長が「核兵器のない世界の実現のため次世代への働きかけが重要」として、次の世代が相互の信頼と安心感、共生に基づいて社会を動かすことができるように「平和教育、国際理解教育に力を注ぐ」ことを表明した。さらに「放射能に脅かされることのない社会の再構築のための新しいエネルギー政策の目標とそこに至る明確な具体策を示す」ことを日本政府に求めた。
 「長崎市民はこれからも福島に寄り添い応援し続けます」という言葉は、言葉だけに終わらせてはならないと言う決意と同じ被曝者としての思いがこもっている。