東京教組(東京都公立学校教職員組合)

教職員のセーフティーネット“東京教組”

オキナワスタディー・ツアー報告2

2012年08月17日 | インポート

Okinawa17月28日
ヌヌマチガマ~ガラビ壕
 ガマは石灰岩つまり炭酸カルシウムからできています。それはサンゴチュウの外骨格が主なもとです。
 沖縄は雨多いところです。北部には川がありますが短いです。南部には川は少なく地下ダムになっています。
Okinawa2_2 ガマは石灰石を川がとかして再結晶化したものです。
 安定した空洞で地下水があるので隠れるのに適した場所でした。
 このヌヌチマガマは白梅部隊がいたところです。白梅学徒5名が生き残りました。南部撤退のとき歩けるものは現隊復帰と言われ、歩けないものは殺されました。Okinawa4
軍事保持のためという理由で殺された約500人は戦病死扱いになりました。「戦う能力のないものは捕虜になる権利がある」という教育がされていなかったのです。白梅部隊は毒薬を包む仕事を命じられましたが配ってはいません。「元いた隊に戻りなさい」と言われ配らずガマを出たのでした。その中の一人、仲地さんが忘れ物をとりにきて実態を知るわけです。
オキナワスタディー・ツアー2日目(7/28)は、沖縄戦で避難所や野戦病院として使われたヌヌマチガマ~ガラビ壕、浦添城址公園 前田高地平和の碑、くすぬち平和文化館、嘉手納米軍基地が一望できる「道の駅・かでな」、読谷村の不戦宣言の碑をまわりました。

Okinawa6_2浦添城址公園 前田高地平和の碑
 浦添城跡からは、作戦本部の首里城が見え、米軍が最初に上陸した座間味島が見え、普天間基地も全体像がよく見えます。
 首里戦線のここは5000人も亡くなった激戦地です。日本軍は守りたかったし、米軍はとりたかったところです。そのため土台も無くなるくらい浦添城は壊されました。戦後は普天間基地の滑走路を作るため残っていた浦添城の本殿の石を使われました。戦争でめちゃめちゃに壊された浦添城です。そのため他の城のように世界遺産にも認定されませんでした。しかし現在少しずつ復元工事がされています。Okinawa7_2
 前田高地平和の碑の後ろには亡くなった方のお名前が刻まれています。北海道出身者が多くいます。現在の階段の下に当時の階段が残っていました。日本軍は隠れる所として、たくさんあった穴に陣地を作りました。その一部も碑の右側に残っています。前田高地ではノモンハンでやった「火炎瓶戦法」をやったそうです。爆雷で米軍のキャタピラーを壊し、火炎瓶で砲弾を壊すという戦法です。兵士は戦闘前に「認識票を外せ」と上官に言われたそうです。それは骨になっても帰らないことを意味していました。2/3の兵士が亡くなりました。
 2004年にイラクのサマワに自衛隊を派兵して誰も死なずに戻ってきましたが、その後自殺者が15人出ています。派兵されたのは北海道出身者でした。「またかと思った」と山内さんが語ります。

Okinawa8_2くすぬち平和文化館
 お昼からはくすぬち平和文化館の館長である真栄城玄徳さんがガイドしてくださいました。
 真栄城さんは1974年子ども達のために地域文庫を作りました。すると「この絵本はどこで買えるの」と聞かれるようになり1980年に子どもの本を売る本屋「アルム」を作ったそうです。また真栄城さんOkinawa9_3は嘉手納基地の中にある祖母の土地を相続し反戦地主でもありました。
くすぬちとはクスノキのことです。祖母の土地にクスノキがあったそうです。
 貯めた地代は地域の子ども達に使おうと考え1998年「くすぬち平和文化館」をつくりました。サロンの壁には巾2.5M・高さ6Mのガラスモザイクの壁画「ゆがふたぼうり」がはめこまれています。それは農作物がよく育ちますようにという意味で、黒は文化、青は友情や人とのつながり、赤は情熱や命、白は希望、緑は成長を表しています。         
Okinawa11_2道の駅かでな

  嘉手納基地は2000万㎡で品川区と同じ位の面積があります。この日は新型機F22を撮影しようという人がいっぱいいました。爆音はすごいです。山本隆さんの調査によると爆音で学校の授業がストップすることが12年間で9000時間もあるそうです。60デシベル以上の騒音は生物に影響を与えます。子ども達は12年間爆音を聞き続けることで免疫力が落ちるといわれています。
不戦宣言の碑Okonawa6
 読谷村は米軍基地の中に公共施設を建てさせてきました。戦争を二度としないという思いをいろいろな世代Oki14がこの碑にこめました。老人クラブは8886の定型詩にしました。
戦争責任まで追求している歌「かんぽーのけーぬくさー(艦砲射撃の食い残し)」を碑にしようという動きもあるそうです。この曲のCDを真栄城さんにいただきました。
Oki16_2
チビチリガマ
 4/1上陸した米軍の投降の呼びかけがあり、ガマの中はパニック状態になりました。地域の指導的役割をしていた18歳の少女が「米軍の辱めを受けるよりお母さんの手で殺してください」といい母が娘の首に刃物をあてました。従軍看護婦の経験者は薬Oki15
を家族に注射しました。なんとか死のうとして布団に火をつけた人もいました。80数名が焼け死にました。酸欠状態のあまりの苦しさに窒息死するより外を見て殺されたいと思い脱出した人もいました。知花カマドさんは長女を連れて外に出て、長女は米兵のくれたさとうきびの汁で息を吹き返したそうです。しかし長男は母の着物の裾をもっていOki17たはずがはぐれてしまいました。母は引き返し探しますが見つかりません。長女は無事育って結婚し子供もできました。自分が生き残ったので何かしたいと母は語っているそうです。

恨の碑
 残波岬に朝鮮半島と向かいあう形で碑がたっています。日本は朝鮮半島から100万人以上といわれる人々を強制連10okinawa1
行し、日本軍の軍夫や性奴隷として使役しました。その不幸な過去を心に刻み平和・共生への決意の印として2006年に碑を作りました。

 (ゲットウ・月桃)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿