東京教組(東京都公立学校教職員組合)

教職員のセーフティーネット“東京教組”

「国民を守る」ための武力って何?

2016年02月29日 | 日記

 集団的自衛権行使の安全保障法が成立した。
 周りの国の中にはいつ攻めてくるかわからない国もあるから、「国民を守る」ための武力行使を米軍などと一緒にできるようにした。使って良いときといけないときの「条件」をはっきりさせているから心配ないということらしいが、憲法ですら、あってなきがごとくに勝手に解釈しようとしている人たちが、いくら細かい「条件」をあげたって次々拡大解釈していくことは目に見えている。憲法で禁じられている武力行使を、できるようにしさえすればあとはやりたいだけやるようになるだろうという、私にはそれが心配でたまらない。
 「力の均衡」で平和が保たれるという考え方は、それもひとつの考え方だとは思うが、それが戦争につながっていくということは、歴史が証明している。
 「戦争は人の心を変える」という言葉を被爆された方から聞いた。
 目の前で死にそうな人がいたら、なんとかその人の命を助けようとするのは人の自然な感情だ。何かの災害があったり、大きな事故があったとき、国や民族に関係なくその人たちの命を救おうと、世界中の人たちは協力する。
 それが、戦争となると全く逆になる。「戦争は最大の人権侵害」と言った人がいたが、戦争では、あれほど大切にされていたはずの人の命を奪うことが正当化される。東京大空襲、沖縄戦、広島、長崎の原爆・・・たくさんの罪のない人たちの命が奪われた。そのとき、多<の人たちは考えた。アメリカが悪いとか日本が悪いとかいう問題ではない。戦争が悪いんだと。
 靖国神社参拝をした安倍首相は、「国に殉じた人に尊崇の念を」と言ったそうだが、「国民を守る」ために死んでもいい「国民」がいるということがまずはおかしい。いくら「尊崇の念」をもたれても。その人の命は、奪われた人生は、返ってこない。ひとつでも奪われた命があるならば、「あなたの命を守れなくて申しわけなかった。」が指導者の言葉であるだろうし、自分が直接の責任者でないなら「二度とこういうことはおこしません」とその人に言うのが筋ではないのか。戦争で亡くなった人に「尊崇の念」を言うことは。どんなに口で「平和」を言っても実は「国のために戦争する」ことを美化していることになる。
 武力行使は、決してそれだけですまない。当然相手も武力行使をするだろう。武力行使の結果は、確実に戦争につながる。その結果は太平洋戦争を振り返れば明らかである。そのときになって、戦争は間違っていたと言ってももう遅い。
 武力をもって、武力に対応することでの平和はありえない。アフガンで人道支援を続ける中村哲さんは、「9条に守られていたからこそ、私たちの活動も続けてこられた」と述べている。
 武力を行使しないということで、お互いの信頼関係は生まれる。一歩間違えば人類破滅という今のこの世界で、武力を行使しないという日本国憲法が、実は「国民を守る」最大の武器ではないのかと、私は思っている。


学校を「プラットフォーム」に

2016年02月26日 | 日記

「子どもと女性の人権を考える東京の会」の1/31(土)に行われた学習交流会で「子どもの貧困にどう取り組んでいくか~学校を「プラットフォーム」に~」末冨芳さん(日本大学准教授)のお話を伺った。

末冨さんは内閣府の子どもの貧困対策検討会の委員をしていて、セーフティネットが子どもに届いていない実態と、貧困の多元的な捉え方(①所得が貧困線を下回ること②高卒未満の教育にとどまっていること③公的年金などに非加入であること④日常生活に支障を来すほど健康に問題があること)や、貧困の連鎖を断ち切るためのプラットフォームとしての学校の位置付け=「学校プラットフォーム化」について、行政の施策や海外でのとりくみにもふれながら、詳しく話してくれた。
 
印象的だったのは、イギリスの学校を視察したときのお話。貧困地区に建てられた立派な学校の写真に、参加者からは感嘆の声が上がった。学校は格差をうめる場所でなければならないという考えに基づき、最先端の物を子どもたちに与えるそうだ。TVゲームのソフトまで用意するのは、子どもが子どもの社会から排除されないようにという配慮。
またこの地区には、養育の不十分さに起因すると思われる発達の遅れのある子どもが多く、授業中の飛び出しもよくあるそうだ。だが仮に飛び出しても、ぐるぐる回ってクールダウンして教室に戻ってこられるように校庭を作ってあるので、自ら戻るというソーシャルスキルを身に付けられるようになっているという。貧困層だからこそ豊かな体験をさせるという理念のもと、様々な取り組みが成されていた。

末冨さんは学校プラットフォーム化を進める手立ての一つとして、スクール・ソーシャル・ワーカー(SSW)の配置を挙げている。学校は子どもに寄り添い、ケースワーカーや児童相談所などの関係機関は保護者に寄り添い、互いに協働できるようSSWが調整をして、子どもの貧困問題を改善していく仕組みを早く作っていくべきだと説明してくださった。学校が全てを担わされていることが多いが、教員が弱ると子どもも弱るので、役割分担をして長く続けることが大切なのだという。

先日、市教委の指導主事と話をする機会があり、SSWの設置について聞いたところ、市役所内に部署を作ったり予算配分を始めていたりと、思っていた以上に進んでいることが分かった。

末冨さんは「最低でも全国の中学校区に一人のSSWを政府は早急に実現すべきだ。テストのスコアを上げることが大切なのではなく、教わったことが分かることが大切。夢がもてれば自分を大切にするようになり、そうなればいわゆる「学力」も向上する」と力強く話していた。力になる言葉をもらった学習会だった。

 末冨さんのお話を聞き、私は不登校学級にいた一人の女子生徒を思い浮かべた。彼女-A子は朗らかで絵を描くのが得意、そして勉強熱心な生徒だった。友達を作るのも早いので、一体なぜ不登校に?と不思議だった。ある日、穴の空いた上履きを窮屈そうに履いていたので買い換えを勧めたところ、「お給料日がきたら…」とうつむいた。たった数百円の上履きが今買えないなんて。しかし、それくらい経済的に厳しい家庭だとしたら、A子が学校に通えなくなった理由に説明がつくように思えた。学年が上がり交友関係が広がってきたとき、「遊びに行こうよ」と誘われても家にはお金がない。友人を作るのにも不安で仕方がなかったのではないか。高校進学の時期になり、面談でA子の母親は開口一番、「中学校を出たら働いて、家にお金を入れてもらいたい」と言った。隣に座ったA子は目を潤ませながらも無言。ちょうどA子が進学する年から高等学校の授業料が無償化されることになっていたのでそのことを伝え、在学中にお金がかかっても、生涯賃金は高卒の方が上であるからと進学
を勧めた。無償化を知らなかった母親は少し乗り気になったが、やはり収入を優先したい様子。そこで昼間働ける定時制高校の話をしたところ、そんな学校があることも知らなかったということで、A子は自宅に近い高校の定時制に進学することができた。あの時授業料が無償化されていなかったら。近所に定時制高校がなかったら。と思うと今でも胸が痛くなる。セーフティネットの大切さを実感したできごとだった。


人類の一員だから

2016年02月26日 | 日記

 今は亡きロビン・ウィリアムズがジョン・キーティングという国語教師を演じている『いまを生きる』という映画を見た。
 授業で詩に対して形式的な説明がつづく教科書に対し、ジョン・キーティングは生徒に、その教科書を破るように指示を出す有名な場面がある。
 今の日本の教育現場では「教科書を教えるのではなく、教科書で教えるのだから、教科書の内容に不足があったら事前に準備しておくのが当然であろう」といわれ、教科書を破らせる行為に対して非難が集中することだろう。破る行為の是非はともかくジョン・キーティングはその時「私たちが詩を読み書くのは、人類の一員だからだ」と生徒たちに丁寧に説明している。この台詞は、数年前の某コンピュータの宣伝で放送されたこともあるので、ご存知の方も多いかも知れない。架空の人物ながら詩を読み書く理由を「人類の一員だから」と言い切ってしまうジョン・キーティングのすさまじさと『いまを生きる』の制作スタッフの感性に深い感銘を受けた。「人類の一員だから」という言葉は、まさにこのように使うものなのだとも思った。
 最近、誰かが「国際社会の一員としての貢献」と演説で使っているが、それはどうも違うような気がする。


「あなたが生まれてきて良かった」と言える世の中に

2016年02月22日 | 日記

 昨年1 1月1 8日に開かれた茨城県総合教育会議で、県教育委員の長谷川智恵子氏は、特別支援学校2校の視察に触れながら、「妊娠初期に障害の有無が分かるようにできないのか。特別支援学校には多<の方が従事し、県としては大変な予算と思う」「生まれてきてからでは大変」「減らしていける方向になったらいい」と発言した。またその場にいた橋本茨城県知事も「産むかどうかの判断の機会を得られるのは悪いことではない」と発言を「問題ない」とした。
 この発言には、全国から抗議が殺到、長谷川氏は結局委員を辞任、橋本知事も「問題ない」という発言を撤回した。
 この長谷川氏の発想は、特別支援学校の予算がかかりすぎることから、障害児が減れば予算も少なくてすむという。子どもの命とお金のどちらが大切かというきわめて基本的なことが抜けている。しかもそれが「障害」児なら生まれて来なくてよいという「障害」児・者の存在を否定するものになっている。
 ここで気になるのは、発言した長谷川氏のこともそうであるが、その発言を擁護した知事のことだ。橋本知事は、長谷川氏の発言についてその場では何も感じていなかった。知事ともあろう人が、長谷川氏の差別的発言に何も疑問を感じなかった。もっと言えば。その場にいたどれほどの人が長谷川氏の発言をおかしいと思ったのか。あるいは、そういった話を仮りに聞いた人のどれだけが、その発言を「間違っている」と感じたのか。
 今回の教育委員の発言がこれだけ大きく取り上げられたことはよかったとは思うが、この問題はとりあげられて、学校でおきる差別事件のほとんどが問題にされないことには、ものすごいいらだちを感じている。確かに「発言」は問題であるが、「実際」に、就学を拒否されたり、宿泊行事に参加させられない子どもたち、付き添いを強要される親たちのことはどうなのだろうか。
 現実に出生前診断なるものが技術を高め。生まれるはずの命が絶たれてしまうケ-スは増えている。その子が生まれ、育って、大変な思いもするけれど、「この子が生まれてきて良かった」と、私の出会った多くの親たちは感じている。ただその子が生まれる前に、この子が生まれたらどうなるかと不安を感じる多くの親がいるのも事実だ。
 障害があってもなくても、当たり前に生き合える世の中でありたい。この子が生まれたら苦労するのではと、心配させるようであってはいけない。「あなたが生まれてきて良かった」と誰もが自然に言える世の中にしなくてはいけない。
 先の二人、委員をやめたり、発言を撤回したりすれぱすむという問題ではない。もっとやることはあるだろう。みんなが地域の学校に通うようになったら、教育予算はずっと少なくてすむ。普通学校での人手も確保できる。ちょっとした工夫と努力で分けない教育は実現できる。どの子にも保証される学校教育を実現することこそが必要なことだと思う。
(アンズを啄むヒヨドリ)


高齢化、そして改憲

2016年02月19日 | 日記

 学生だった頃、先輩に「どうせ、あと四半世紀もすれば、大学何て選り好みしなければ、みんな入れるよ」という言葉を聞いた。「へー、どうしてですか?」と私。「子どもの数が減っていくからさ」という答え。と同時に高齢者も増加すると。かれこれ15年くらい前になるだろうか。
 街を歩いていてふと気づいた。「道行く人が高齢化したな」と。杖を突く人、手押し車を押す人、道端の花壇の縁で休息をとる人など、これまで見かけなかった光景が目の前に・・・でも巷ではワールドカップ日韓開催が決まり、両国民が手を取り合って喜んでいたのが思い出される。
 ところが時が過ぎ、アベノミクスという大嘘がまかり通り、政府が国民をまるで当たり前のごとく騙すようになった今、教職員の中にも中国、韓国に対する敵対心がふつふつと湧き上がっているのが感じられる。ふとした言葉の中に・・・新宿大久保でヘイトスピーチをしながらデモ行進をしている人たちだけではなしに、教職員の意識の中にも「韓国怖い、朝鮮嫌だ」がじわりじわりと広がっている。そして、昨年9月19日、憲法違反の戦争法の可決成立。九条改悪のための外堀の埋め方に一段と拍車がかかっている。道徳の教科化ももうすぐ!!学校現場は上意下達、安倍総理はもう御免。一票を大切に、当たり前に選挙権行使をしましょう!
(ウバユリ)


神様と仏様

2016年02月17日 | 日記

 東京新聞の心のコーナーを読んでいたら、「神様と仏様」の違いについて書いてあった。
 日本人は、12月25日にはクリスマスを祝い、一週間もたたないうちに、初詣に出かける。宗教に関して「融通無碍だ」とはよく言われることである。
 さらに、このごろは、商売とタイアップする形で、様々な宗教的行事が世の中にあふれるようになった気がする。たとえば「ハロウィン」や「恵方巻き」のように。
 で、「神様と仏様」の話である。以下は、東京新聞1月16日朝刊の「現代日本人の神仏観(上)木村文輝さん)にによる。

 「神も仏もないものか」とか、「神様、仏様、稲尾様」(古い!わかる年代はかなり限定されることだろう)なんて、神と仏を一緒にしがちだが、実は、微妙な使い分けをしているというのである。元々、神様(特に神道としての)と仏様を分けるようになったのは、明治以降であり、それまでの日本人はいわゆる「神仏習合」で神と仏の存在を明確に区別せずに崇拝するのが、伝統的な姿勢であったという。しかし、両者を全く同じものととらえているわけではないそうだ。それが神と仏という言葉を使い分けている事実である。たとえば、「野球の神様」や外科医の名手を「神の手を持つ」という。また、「神業」や「神懸かり」こうした言葉は、神を仏に置き換えることはできない。逆に、優しく慈悲深い人を「仏の○○」といい、心穏やかな状態を「仏の境地」といったりする。(「まぁしょうがない今回は許してあげよう」というときは、「仏心」ともいうなあ。と納得)というように、日本人は、「神」を特別な技術や力エネルギーの持ち主で、それを人々に分け与える存在とみなし、「仏」は、欲望をはじめとする様々な力やエネルギーを鎮める存在、あるいは慈悲深い存在だと見なしている。

 というのである。木村さんはこれを「仮説」といっているが。
 これを読んで、長く疑問に思っていたことが少し納得できたような気がした。それは、新美南吉の「ごんぎつね」にでてくる兵十と加助の会話である。ごんが、栗や松茸を兵十に届けていることを知らない兵十は、加助に、「このごろ不思議なことがある」と話す。それに対して加助が「そりゃあ、神様の仕業だぞ」と答えるのである。二人は、この話をする直前に村人の家で行われた「お念仏」に参加したばかりなのに、なぜ、「仏様」でなく「神様」だったのだろうと、不思議に思っていたのである。さらにいえば、こんなことを疑問に思うという人にも出会ったことがないのだが、、、。しかし、木村さんの「仮説」による「神」と「仏」の違い(役割分担)を考えると、合点が行った次第である。


西・Nishi(北・North)?

2016年02月15日 | 日記

 先日、辺野古のキャンプシュワブ前の座り込み行動に参加してきた。
 正門からは、米軍の大型車両が兵隊をたくさん載せて出入りする。運転しているのは年端もいかない若い兵士。私たちの背丈の2倍もある車両を運転している。それだけで恐怖を覚えるが、基地の中には機動隊や警備会社の人たちが沢山いて、米兵の通行を助けている。機動隊の車両の下には座り込みをしている人々を潜り込ませないために鉄条網が張り付けてあるものもある。沖縄の人々を痛めつけ、米兵の安全を守る警察ってなんなんだろうと思ってしまう。
 話しは変わるが、帰路、那覇の街でおもしろい信号表示(写真)を見た。西(北)と書いてあって、下にはNishi(North)と表示がある。沖縄出身の友人が笑いながら教えてくれたのは、ウチナーグチ(沖縄方言)で、北のことをニシというそうだ。それならば、「西」と書かずに「ニシ」と書けばいいのだろうが、そこは愛嬌で愉快な標識になっているところがいい。
 ちなみに、南はフェー、東はアガリ、西はイリ。だから西表島はイリオモテジマ。また海洋国家だった琉球は風にも敏感で、南風はハエで、南風原は「ハエバル」、東風はコチで東風平は「コチンダ」、梅雨明けに南南西に吹く風を「夏至南風(カーチベイ)」、夏が過ぎ北東から吹く風を「新北風(ミーニシ)」というそうだ。菅原道真の「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」にあるとおり、コチは日本の古語でもある。


子どもを追い出すことで問題は解決しない!

2016年02月12日 | 日記

 「大阪の現状を見てください。実際に問題行動をする子どもたちのせいで学級崩壊しているクラスもある」。これは、大阪市が「個別指導教室」を作ろうということについての記者の質問に答えた橋下市長の言葉だ。要するに問題行動をおこす子どもは、授業を乱して他の「まじめ」に勉強したい子どもたちの迷惑になるから、特別教室へ送った方がよいという。では、いったいどんな子が「特別教室」に送られるのか。
 授業のじやまをする子? 残念だがほとんど、どの子も授業のじゃまをする。先生の話などそっちのけで勝手にわいわいがやがやしゃべりだす。じゃまをしているなんて思っていないでじゃまをする。調子にのってふざけ出す子もいる。自分一人でふざけていればいいのに、周りをまきこむ。
 こういう子たちをみんな特別教室に送ったら、静かでいい。でも教室にはだれもいなくなってしまうかもしれない。そして特別教室が「普通」の教室になり、そこでまたじゃまをする子がいたら特別教室の特別教室が必要になる。
 もっとすごい「問題行動の子」を送るのだと言うかもしれない。でもそれよりもすごい問題行動って何だろう。授業中立ち歩く、大声を出す。友だちをつつく・・・ひとりのそういう子がいなくなれば、教室は落ち着くか。というとそうはいかない。必ず、残された子たちの中から代わりの子がでてくる。
 だいたい、まじめに勉強したい子っているのだろうか? おもしろい勉強なら、子どもたちは、まじめになろうとかそんなことを考えないでも真剣に学ぶ。つまらない勉強なら、騒いだり。いたずらを始めたりする。「学級崩壊」というのは、だれか一人が学級を乱しているのではなくて、みんなが何かに不満を感じて騒ぎ出すからおきる。教員の立場からすればおきてほしくないが、ある意味それは子どもたちの自己主張なのかもしれない。
 「学級崩壊」をおこさせないとかおこることはよくないと言うよりは、学級崩壊がおきたときに子どもたちは何を考え、何を求めているかを考え、そこを追求していったら、子どもたちが抱えている本質的な問題に出会い、教員も子どもも学び合えるかもしれない。
 本来、子どもたちは、枠からはみ出すものなのだと思う。騒いだり、暴れたり、いたずらをいっぱいしながら自分を表現し、成長していく、それが子どもなのだと思う。しょっちゅうもめごとをおこす子がいて、その子のことを個人面談で母親に伝えたら、その母親は涙を流してr先生、この子は大きくなったらどんな悪い人になるんでしょう」と言い始めた。ただありのままを伝えただけだった私はびっくりして「お母さん、ちがうんです。こういう子だから何の心配もいらないんです。無理していい子にしている子のほうが実はずっと心配です。」
 「特別教室」にその子を送ることでの教育的意味は見いだせない。子どもを追い出すところに教育はない。それで根本の問題は解決しないだろう。
(おかのとらのお)


教員の平均睡眠時間は約6時間、読書時間は約14分

2016年02月08日 | 日記

2月2日に行われた連合総研(連合総合生活開発研究所)によるシンポジウム『「教員の働き方」と「時間管理のあり方」を問う!』報告の続きです。

前回4日に小・中学校の教員の労働時間は一日平均約13時間と報告しましたが、そうした長時間労働が、教員の生活時間にも大きな影響を与えています。連合総研の調査によると、勤務日の1日平均睡眠時間は、小学校が6時間4分、中学校が6時間3分となっており、労働者全般の7時間4分と比べると1時間も短いことが分かりました。しかし、驚くのは休日の1日平均睡眠時間です。労働者全般が9時間16分なのに対して、小学校7時間25分、中学校6時間52分と2時間もの差に広がります。おそらくこれは土曜日授業や部活動など、休日も学校に出勤する傾向が強くなっていることを示しているのだと思われます。

 こうした労働・生活の実態の中で、勤務日1日平均の読書時間は(厳密な比較はできないものの)労働者全般が35分であるのに対して、小学校14分、中学校13分。休日では、労働者全般が1時間9分に対して、小学校42分中学校32分と差が広がります。教員は、ワーク・ライフ・バランスが大きく崩れ、勤務日はおろか休日でも仕事の占める比重が大きいことが分かります。

負担を感じる業務については、「保護者・地域からの要望等への対応」が小・中ともに80%を超えて一位となっており、二位も小・中ともに「国や教育委員会からの調査対応」となりました。三位は、小学校が「成績一覧表・通知表の作成」となり、中学校では「児童・生徒の問題行動への対応」でした。「他の職員・スタッフに移行すべき業務」では、小・中いずれも一位が「学校徴収金未納者への対応」で、二位が「国や教育委員会からの調査対応」でした。

 連合総研は「教員の健康悪化や資質向上の機会不足を招き、教育の質の低下につながる恐れがある」として、長時間労働の改善を求めています。今回は「速報」の報告でしたが、今後さらに分析、検討が行われ、答申と提言が出されることになります


「障ハラ」もたくさんある!

2016年02月08日 | 日記

 子どもに「障害」があると、どこか気がひけて、学校に対しても遠慮しがちになる。学校から何かを言われるとその通りにしなければ申し訳ないような気持ちにさせられる人も多いと思う。だから、「付き添いをお願いします」などと言われると、そうしないと学校に入れさせてもらえないような気持ちになったり、子どもが学校でひどい目にあうのではないかと心配になったりして、「はい、わかりました。」と答えてしまう親も多いと思う。
 しかし、どこの法律をみても入学や学校生活の条件に「親の付き添い」などということは書いてない。子どもの権利条約を見ても障害者権利条約を見ても、全く反対で、子どもに必要なことは行政の責任において(合理的配慮)しなければいけないことになっている。(そんなことはありえないはずなのだが)仮に何かの事情で親に付き添いを頼む場合でも、「本来学校でやるぺきところ充分にできずに申し訳ありません。」と親にあやまって「お願い」するぺきところなのだ。
 それを何を勘違いしているのか、障害児は親に面倒を見させるべき、とか、普通学級に入りたいなら親もリスクを負え、とぱかりに上からものを言う学校、教委がいまだに後をたたない。
 すべての親に付き添いを要求するならまだしも。「障害」児の親にのみ付き添いを要求するのは、「障害」を理由としているのだから障害による差別になる。
 にもかかわらず、付き添っている親に対してさらに学校は追い打ちをかける。
 あるとき、親が体調が悪くて「今日は付き添えません」と学校に連絡したら、管理職が「それなら子どもを休ませてください」と言つたという話がある。事情があって学校に来られない子どもがいたら先生が迎えに行ってでも子どもが学校に来られるようにするのが先生の役目だと私は思っていた。まさに子どもの教育権を奪うこの管理職の発言は、憲法違反そのもの、親に対してのハラスメントだ。こう言われた母親はショックでしばらく立ち上がれなかったという。
 この学校では、「子どもがゆっくりなので、親が見ていなかったら危険じゃないですか」「付き添いは学校の
 今は、女性の容姿についてのひとことでもハラスメントとして注意が喚起され、教委もそういう通知を各学校に出しているのに、これだけ親を傷つける障害者ハラスメントについては何も触れていないのはどこか間違っている。障害者には何を言ってもいいということではないはずだ。
 ここにあげたのはほんの一例で、全国連絡会にくる相談ではもっとひどい発言が次々と報告されている。ハラスメントはいまや30種類もあるとどこかに書いてあったが、「障害者ハラスメント」という言葉はなかった。「障ハラ」がハラスメントにならないことが、差別の現実なのかと思う。「障害」者には何を言ってもいいという考えがまだ多くの人の間にあるということだ。
(むらさきししぶ)


まるで年金詐欺じゃないか!

2016年02月05日 | 日記

 「あなたの年金を増やすから私に預けてくれ」と言われたら詐欺だと思うでしょう。しかし、私たちが積み立てた年金がアベノミクスの株価引き上げに勝手に利用され、株価暴落で大損をしているという聞き捨てならない事態に至っている。
 国民年金と厚生年金の積立金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が7~9月期に、中国を震源とした世界同時株安の影響から7兆8 8 9 9億円の運用損を出したことが明らかになった。さらに、1月の株価暴落で4~6兆円の運用損が見込まれると言う。老後の生活資金を詐欺師に持っていかれたようなもんだ。
 GPIFは昨年10月、運用資産の60%を占めていた国債を中心とした国内債券を35%に減らし、12%だった国内株式と外国株式をそれぞれ25%に倍増させた。外国債券も11%から15%に引き上げた。
 その結果、7~9月の資産別収益は、国内株式が4兆3154億円、外国株式が3兆6552億円、外国債券が2408億円の赤字となり、国内債券だけが3022億円の黒字だった。
 比率を引き上げたものは全て赤字で、引き下げたものは黒字という最悪の結果は、懸念していた通り。国民の老後の生活を支える年金を株式で運用する危険性をあらためて露呈したといえる。
 年金積立金運用方針の変更は、GPIFが買いに回ることで株価を上昇させたい安倍晋三首相の意向で決まったもの。アペノミクスがさも成果を上げているように見せたい政権の体面を保つために、年金積立金を危険にさらすことは許されるものではない。
 この事態に対して、日本退職者連合は次の見解を発した。

年金積立金運用にかかるGPIFの公表についての見解
 GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)は11月30日、本年7~9月期の年金積立金の運用結果が7兆8899億円のマイナスになったことを公表した。
 GPIFは昨年10月、それまでの国内債券中心の運用方針を見直し、国内・外の株式の比率をそれぞれ25%に上げることを柱とした資産構成割合を決定、実施に移した。その背景には、安倍政権が進める経済成長戦略の道具として、株式市場に年金資金を投人して株価を上げる「露骨な株価対策=官制相場づくり」との指摘が、各界および有識者から噴出していた。
 公的年金の資産運用は、国民が長期にわたり安定した給付が受けられるよう、長期を見据えて決められるべきものである。加えていえば、年金資産は被保険者・国民のものであり、GPIFは被保険者・国民の負託に基づき、その資産を確実に運用するのが目的であり、経済成長や株価操作に奉仕するものでなく、ましてや、政治が特定の思惑を持って扱うべきものでもない。
 私達はこうした基本的な考えのもと、連合と連携し、政府やGPIFの拙速・強引な手法に異を唱え政府要請行動を展開してきた。しかし政府は、株などのリスク商品を買っても、長期的に運用利回りは確保できると主張して実施を急いだ。
 今般の公表により、私達の懸念していたリスクが現実のものとなった。 GPIFがことさら強調するように、積立金は短期的に運用するわけではなく、長い目で見守る必要があり、当座の年金給付に影響はしない。マスコミがいう金利の低い国内債券ばかりに頼るのでなく、高い運用が見込める株式への投資を増やす考えも全否定するものではない。しか
し問題は、年金資産が被保険者・国民の財産ゆえ、「安全・確実」に運用することが最優先されるべきこと、また、そのための運用方針はすべてのステークホルダーの参画のもとで決定されなければならないと考える。
 日本退職者連合は、引き続き連合と連携し「運用方針は被保険者代表が参画する合議機関を設け、その決定を得て運用する」ことを政府に求め、その実現を期す。
                                       以上

(センリョウ)


小・中学校教員の一日平均労働時間は約13時間

2016年02月04日 | 日記

2月2日に連合総研(連合総合生活開発研究所)によるシンポジウム『「教員の働き方」と「時間管理のあり方」を問う!』が開催されました。このシンポジウムは、連合のシンクタンク=連合総研が行った「教職員の働き方・労働時間の実態に関する調査」(速報)による問題提起を毛塚勝利法政大学大学院客員教授が行い、その後、研究委員会委員(樋口修資明星大学教育学部教授、油布佐和子早稲田大学教育・総合科学学術院教授、青木純一日本女子体育大学体育学部教授、青野覚明治大学法学部教授)の方たちの専門分野からのコメントで構成されました。

 調査結果によると、小学校教員は平均で午前7時29分に出勤し、午後7時11分に退勤。学校外で1時間9分働いていました。中学校教員は午前7時23分出勤、午後7時38分退勤、学校外労働は1時間6分でした。従って、持ち帰り仕事を含めて、小学校教員の一日平均労働時間は12時間51分となり、中学校教員では13時間21分となります。

 連合総研が、07年に実施した労働者全般の調査では、一日平均労働時間は9時間15分となっており、06年度の文科省の調査でも示されていましたが、いかに教員が長時間労働を強いられているかが明らかになっています。そして、その原因が、学校における出・退勤時刻管理のあいまいな実情にあることも指摘されています。出退勤時刻を把握していない管理職が、小学校で16.8%、中学校で20.9%となっています。

 また、「所定勤務時間を知らない」と回答した人が、小学校47.2%、中学校49.3%となっており、約半数の教員が所定勤務時間に対する正しい認識が欠けていることも明らかになりました。特に24歳以下に限ると「知らない」が61.47%となり、初任者研修などで服務義務などは厳しく行う反面、権利についての研修が行われていない実態がうかがえます。


「先生達へ」

2016年02月01日 | 日記

 日本インクルーシブ教育研究所の中谷美佐子さんがホームページで、先生達へ(不登校についてのお願い)と題して、「不登校になった子どもの家族だけが努力するのではなく、学校も、環境だけでなく、教師の考え方や見方も修正していかないといけないでしょう。」と訴えている。
 皆さんの学校にも不登校の子どもは必ずいるだろう。その子どもたち、保護者の思いに立った教育のあり方を問う意見だ。まさしく子どもの権利条約にある、「子どもの最善の利益が第一次的に考慮される。」を体現したお願いだと思うので、少し長くなるが引用させていただく。

先生達へ(不登校についてのお願い) http://ameblo.jp/inclusionclass/entry-12117622349.html
 発達障害への正しい認識やインクルーシブ教育の普及活動をしている日本インクルーシブ教育研究所(http://www.hikk.biz/)の中谷美佐子です。

 さて、今日は学校へお願いがあります。
 子ども達が不登校になると、学校の先生達は毎日のように不登校の子どもの家庭にいろいろアプローチをされます。
 ある不登校の子どものお母さんがこんなことをおっしゃっていました。
 「校長先生が度々お電話くださり、先生方には本当に申し訳ないのですが、息子の発達や心の成長を考えると学校へは行かない方が幸せに生きていけるように思うのです」
 皆さんは、この言葉の意味が分かりますか?
 実は、学校という場所は子ども達に、物事の捉え方や受け止め方、考え方、行動の仕方、やり方等ありとあらゆるところで、普通になることを強要しているという意味です。
 また、その子その子によって発達の仕方や速度は違うにもかかわらず「今、○○できるようになっておかなければ、将来、困る」といったことを子ども達に強く指導しているため、どうしても子どもに無理が生じてしまいます。
 特に小学6年生になると中学校入学に向けて、学校全体で子ども達をしっかりさせようと思う傾向が強くなり、
それに耐えうることができない子ども達は崩れてしまいます。実は、中学になってから崩れる子ども達も多いのです。
 実際、私が社会に出て思うことですが「学校ほど、しんどいところはなかった」というのが正直なところです。
 私とお付き合いのある小学校の先生方が「学校の常識は、社会の非常識!我々がもっと社会を知って一般常識を学ばなければ、子ども達が悪いお手本を学んでしまう!」とおっしゃいます。
 確かに、私も、先生方の不適切な言動をかなり見たことがあります。
 お礼を言わなければならない相手に、形だけでも感謝の意を表すことさえもしない、お客様の前で平気で子ども達を怒鳴りあげる、子どもの見ていない場所で気に入らない子どもに向かって「ばーか!」と言っている等、一般企業に務めていれば恐らく訓戒処分と思われる行為を多々、子ども達に見せていました。
 また、発達障害があり短期記憶が弱いため、前の子どもが質問した内容と同じ質問をしてしまった子どもに対して「はあ~」とため息をつき、「さっき言いました!」と多くの保護者の前で言ってしまった教師もおりました。
 保護者の前で、これをやってしまうのですから全く悪気はないようです。
 でも、それを見ていた子ども達は恐らく「あの子が何度も同じ質問をしたらため息ついてもいいんだ」と思うでしょう。
 こういった教師の態度は子ども達への「いじめ」のモデルとなってしまいます。
 私は、あの質問をした子どもの傷ついた悲しみの様子は今でも忘れられません。
 この子どもはこういった傷つく経験を積み重ね、思春期あたりから二次障害(荒れる等)となっていく様子を
私は目の当たりにしてきました。
 しかし、先生方の対応は力で彼を抑え込む形だったのです。この子が周りから褒められる経験を積み重ねることができていたら、、、と思うと胸が痛みます。
 そして、先生方と話していると、健常者のやり方や考え方が良くて(正しくて)、障害者のやり方や考え方はおかしい(間違っている・恥ずかしい)といった(見えない)考えや思いが、先生方の態度や言葉の端々に出てくることに私は気づきます。
 先生方の健常者が上で、障害者が下といった心の奥底の見方が子ども達にしっかり伝わっていて子ども達はいつしか「普通になりたい」と思うようになっています。
 健常者のやり方や考え方を教え込まれたり、従わせられたりしながら学校生活を送っていると、発達障害の子ども達はいつしかありのままの自分を認めることができなくなっていきます。
 そういった環境の中で育ち、自己肯定感を下げていき、社会に出ていけなくなってしまった子ども達を私はたくさん見てきました。
 障害者に、健常者のやり方を強要すると、より困難さが顕著になります。
 健常者と同じようにできない自分はダメな人間と思うようにもなります。
 そして、常に「できない、どうしよう、分からない」といった焦りと不安の中で、子ども達は学校生活を送ることになります。
 そうしているうちに、だんだん周りが見えてくるようになる思春期あたりから、発達障害の子ども達は人と関わるのが嫌になり、不登校・ひきこもりとなっていくのは自然な流れだろうと私は思っています。
 しかし、日本の学校対応は「クラスのお友達が毎日迎えに行って○○君は学校へ来ることが出来るようになりました」とか「お母さんが○○さんが学校へ行けるように上手に背中を押して下さったので学校に来れるようになりました」とか「担任が毎日○○君の家に行ってお話をして力を尽くしたけれど、○○君は結局、学校には来ることができませんでした」等と呑気なことを言っているのです。
 日本の教育は、学校を変えていかなければならないのに、先生達の子どもへの見方を変えていかなければならないのに、子どもだけに変容を求めています。
 形だけ子どもに学校へ行かせても、何の解決にもならないことを私達は気づいていかなければなりません。
 不登校の原因は「教師にある」というデータが出ているくらいですから、学校環境を変えていかないといけないでしょう。
 子どもの生まれ持った特性を変えることはできませんし、普通になることを強要されるのは学校時代だけであり、社会に出てからは人と違うことができる人が重宝されたりするわけですから、個性的な子ども達をつぶすような教育をしてはいけないのです。
 不登校になった子どもに学校環境を改善することなく先生達の考え方を修正することなく、「学校へ来てほしい。先生は待っています」といった対応だけで、子どもが学校へ行けるはずがないということをご理解頂きたいと思います。
 また、人は発達することで過敏がなくなっていき鈍感になっていくのですが、発達障害者は発達が遅れているために、多くの過敏が残ってしまいます。
 そのため、健常者が何でもないことが非常に苦しく、それを我慢させられていることも多いため、どうやっても不登校にならざるおえないこともあります。
 それは学校に休憩できる場所(落ち着ける場所)が用意されていない上、本人がそれを求めることを恥ずかしいことと思っていたり、やっと求めることができても「それはダメです」等と言われて、苦しみを伝えることができなくなってしまう子ども達も多いからです。
 つまり、発達障害の子ども達がどれ程、苦しみを味わいながら学校生活を送っているかを本当に理解している先生がいないのかもしれません。
 子どもが苦しみを訴えたとき(訴えたくても適切な形で発信できない場合も含めて)それに応えてくれる先生がそばにいれば、子どもは学校にいられます。
 将来、自立していくために、誰も助けてくれないのだから、こういった苦しい状況に慣れていかなければならないと思っている先生方もいるようですが、、、
 障害特性は適切なサポートがあって初めて慣れていくというよりも、何とかやっていけることができたり、工夫していくことができるのです。
 また、どんなサポートがあろうともできないことはできないということもあります。
 それは、LD(算数障害や読み書き困難等)のある子ども達です。
 50歳すぎても単純計算だけは、どんなに努力してもできないという人や60歳すぎても読み書きに困難さがあり、ICT機器を使えば大丈夫な人もいます。
 脳機能というのは、よく働いている部分はよくできるけれど、よく働いていない部分はどんな努力をしても
どうやってもできるようにはならないこともあるのです。たまたま運が良くて(家庭環境にも恵まれていたため)外国で教育を受けることができたり、自分が望む仕事につくことができた発達障害の人たちもいますが、たいていの発達障害のある人達は社会でうまくいかず、ひきこもっていたり、様々な問題を抱えて苦しんでいるのです。
 適切な支援が受けられず、二次障害となって事件を起こした子ども達もいます。大人もいます。
 私達はこういった人達をこれ以上増やすことがないように、発達障害の子ども達を幼少時から適切にサポートできる人(支援者)を増やしていきたいと思い活動しています。
 それには、どうしても学校の先生達のお力が必要なのです。
 まずは、不登校になった子どもの家族だけが努力するのではなく、学校も、環境だけでなく、教師の考え方や見方も修正していかないといけないでしょう。
 微力ながらも、私が学校のお力になることができればと思い、今日も書いています。