東京教組(東京都公立学校教職員組合)

教職員のセーフティーネット“東京教組”

オキナワ・スタディー・ツアー報告 その3

2012年08月21日 | インポート

7月29日 Oki1

辺野古テント村

 基地との間に5000万円かけてフェンスを作ったそうです。このフェンスはアートギャラリーとしてバナーを貼ったりリボンを結んだりしています。米兵や右翼がバナーを持って行くことがあるので、朝貼って夕方はがしているそうです。右翼が来ることもあり初めて警察が守ってくれたとのこと。オスプレイについても沖縄県内41市町村の全て反対、知事も反対している。もしOki2
辺野古に新基地をつくったら、その滑走路はオスプレイのために使う計画。新基地建設の経費は埋め立てや滑走路建設の費用のみ公開されていて、付属施設やコンピュータ施設の費用は明かされていない。辺野古付近はジュゴンやウミガメウミガメの産卵地とアOki4セスでも出ているのに埋め立てても環境に影響なしというのは考えられないこと。今ある娯楽施設(プール映画ボーリング場)は2500万円かけて作ったものだが新基地建設となれば壊してまた建てる
ことになる。埋め立てに必要な土砂2100万立方メートル(10tトラックの2560000台分)がどこから持ってくるとは言っていない。このようにたくさん不明点や問題点がある。年末年始に埋め立て許可の申請が出る。そこが大きな戦いになる。安次冨さんが熱く語ってくださいました。
 辺野古の座り込みが3000日を越えました。ここまで長引くとは予想しOki5_2なかったですが、状況が変わって辺野古という言葉が全国紙に載るようになりヤマトンチューの意識も変わってきたと思います。今後も辺野古新基地建設反対の闘いに連帯していきます。
バスのドライバーの屋比久さんが三線を弾いてくださいました。曲は昨日真栄城さんが紹介してくださった「かんぽーのけーぬくさー(艦砲射撃の食い残し)」です。こんな風に話に出てきた曲を三線で弾いてくださるなんて感激でした。
午後から渡嘉敷島に渡りました。

Oki6集団自決跡地

 当時、渡嘉敷島は特攻を目的とした部隊がいました。でも陸上戦を考えていなかったので、まさか米軍が島にくると思っていなかったそうです。米軍が上陸した3/28は土砂降りの雨でした。住民にニシヤマに行けと役場の指示がありました。日Oki7本軍が住民に基地を作らせたので住民は軍の規模を知っています。情報が漏れるのを恐れて手榴弾が配られました。役場にいた退役軍人が軍から渡され
た手榴弾を住民に配ったそうです。
ニシヤマの沢に逃げていた住民のところに米軍の砲弾が飛んできました。その砲弾が人に当たって肉片が飛び散り、辺りはパニックになりました。そして集団自死が起きてしまったそうです。
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白玉の塔

 白玉の塔は、島民だけでなく軍人も島外出身者も名前を刻んでいる慰霊碑です。軍人でも反省した人もいたそうです。戦後その人は島にテレビを送ったり、祭りの商品を送ったりして交流しました。死んだ人はみな同じ、だから亡くなった人の名前を全て刻もうという嘆願があって実現したそうです。
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アリラン慰霊のモニュメント

このモニュメントは「アリラン慰霊のモニュメントをつくる会」の呼びかけに応え沖縄県をはじめ全国からのボランティアによってつくられました。
Oki10 海上特攻隊の秘密基地とされた慶良間諸島には、朝鮮半島から強制連行された千余の「軍夫」が苦役に、21人の女性が「慰安婦」としてつながれていました。戦後帰郷の道を失って沖縄に取り残された渡嘉敷の元「慰安婦」のポペンギさんが死語5日目に発見されたことに衝撃をうけ、悲惨な犠牲を強いられた女性達を悼み心に刻むためモニュメントをつくりました。
 Oki11米田秀明さんのお話 米田さんは1923年生まれ、琉球新報の記者として働いてきました。戦争体験はありませんが、体験を語り継いでいこう、過ちを繰り返えさないために子供に伝えたいという思いで、語り部をしていらっしゃいます。
戦前戦中は、学校で子供のころから「アメリカ人に捕まってはいけない、捕まるのは日本人として恥だよ」と教えられました。兵隊になるのが憧れでした。硫黄島陥落後、沖縄で基地つくりや疎開が始まりました。明治時代の地図があったので米軍は沖縄本島を攻め入る前の準備を慶良間諸島でする計画をたてました。日本軍は1000名の軍人を慶良間諸島に連れてきて、学校を兵舎にし、民家にも泊まって、基地を作り帰っていきました。次に来たのは赤松隊長の特攻隊400人でした。海上特攻艇は120キロ爆弾を積んで体当たりする作戦でした。特攻艇の秘密基地つくりに少年や女性を借り出しました。朝鮮人を連れて来て特攻艇を隠すための穴を掘らせました。奴隷のように使い、血をダラダラ流しながら穴を掘っていたそうです。「慰安婦」も6人いて、日本人がそこに並んでいたそうです。10okinawa2_2
 3/26座間味島は米軍に最初に占領されました。阿波連ビーチに米軍が上陸してきました。1000人いた日本軍がニシヤマに集まれといわれ、壕を沢の横に掘って3/27の夜移動しました。阿波連の人もそこに行きました。手榴弾が各家庭に二個ずつ渡され、ひとつはアメリカ軍に投げて、ひとつは自決に使うように言われたそうです。手榴弾の不発があったため、死ねなかった人たちの間に、カミソリや刀を使う、紐でしめる 、棒でたたくという悲劇がおこりました。生き残った人は思い出したくない、語らないで戦後ずっときました。でも教科書問題がおこり、嘘が教科書に載ったら困るという思いで、体験を語る人が増えました。
 米山さんのお母さんもずっと語らなかったそうですが、教科書問題のときに語ったそうです。
母の体験談・・・母が16歳の時、ニシヤマで「天皇陛下万歳」といいながら自決がおきた。家族13人は死んでもはなれないようにと父が着物の帯10okinawa5で結んだ。手榴弾で父兄5人は即死だった。母と祖母は爆発の時父が二人の頭を下げたので命をとりとめた。逃げようとすると「どうして逃げるのか、日本人なのに」といわれた。それを振り切って逃げた。夜一人になると玉砕を思い出す。封印したい。悲しみよりも死ぬことができた父が羨ましかった。あんな教育だったから・・・

 米山さんはアレクサンダー伍長という人がニューヨークタイムズに載せた記事や「この写真はわたし」という金城トミさんの記事も見せてくださいました。渡嘉敷島では329名が集団自決でなくなりました。生き残った人の戦後の話、赤松隊長のその後の話、住民が全員生き残った前島の話など、たくさんのことを米山さんは語ってくださいました。
 お話の後、解散式をその場でやりました。初参加の5人にツアーの感想を語ってもらいました。内容の濃い3日間でした。4日目はフリータイム。でも台風のため、渡嘉敷には10時までしかいられませんでした。みなさんお疲れ様でした。
    (クサトベラ)


差別があるところに公害

2012年08月21日 | インポート

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 胎児性水俣病の発生を証明し、カネミ油症、三池炭鉱CO中毒などにもとりくみ続けて、患者・被害者の信頼を集めていた原田正純医師が6月11日に静かに息を引き取った(享年77歳)。
 1300人もの市民が参列して地元熊本で「お別れ会」が開催された。9月29日(土)には追悼講演会が有楽町朝日マリオンホールで行われる。
 「公害が起きて差別が生まれたのだと思っていたが、どうも違った。差別があるところに公害が起きた、というのが実相ではないか」と語った原田さん。そのことは、沖縄にも、福島にも通じる。原発被害者の補償が始まろうとしている中、水俣病被害者の補償申請は、7月で終わり、幕引きをはかろうとしている。
 「人類にとって水俣病の経験は、かけがえのない負の遺産です」とも話していた原田さん。その遺産を生かせず、また政治と企業の論理(理念なき政治、道徳なき商業)によって引き起こされた原発事故をどんなに無念に思っていただろうと思う。

 ミナマタもオキナワもフクシマも差別のあるところに起きた公害ではないだろうかと、差別してきた東京にいて思う。

                 (フジ・藤)