東京教組(東京都公立学校教職員組合)

教職員のセーフティーネット“東京教組”

ジェンダーの視点から働き方を考える  ~労働経済ジャーナリスト・小林美希さんの講演から~

2017年10月31日 | 日記

 9月9・10日に行われた日教組女性参画推進担当者会議で、労働経済ジャーナリストの小林美希さんのお話を聞きました。小林さんは非正規雇用問題やブラック労働、産育休についてのルポを書かれている方です。

劣化し続ける日本の雇用

 2000年以降、専門業務の派遣期間が無期限になったり、製造業務への派遣が解禁になったりと、非正規雇用が生まれやすい法改正が相次ぎます。法律を作っている大学教授が、企業からお金をもらっているので、企業寄りの法律が作られているのだそうです。

 現在、約5200万人いる労働者のうち、4割近くが非正規労働者となっています。連合の調査によると、正規雇用の半分、非正規雇用の7割が妊娠後に退職しているそうです。働きたくても働けない女性は303万人もいるとのことでした。キャリアが継続しないことは、労働者自身のためにならないだけでなく、企業のためにもなっていないと言えるのではないでしょうか。                                                      

 正規・非正規というふうに、雇用を分断することで、異なる立場の社員への想像力を失わせ、団結する力を弱めたと小林さんはおっしゃいます。組合の力が弱められていること、マタハラやパタハラが深刻化していることにもつながっているように思います。

今、何が必要なのか

 「社員を大事にしない会社は業績も傾きがち」「採用時にエントリーシートで大学差別をする企業も業績が悪化している」と小林さんはいくつかの具体的な企業名を挙げていました。労働環境を整えることが企業としての先行投資の一つである、と考えている企業は少しずつですが業績を伸ばしているそうです。また、賃金表のある企業は、東京都でも半分しかないとのこと。正規雇用でも、労働条件があいまいなまま働かされているのです。

 ワークライフバランスに向けた先進的な取り組みも紹介されました。ある病院では妊娠8~12週は強制的に深夜勤を免除しているそうです。またある介護施設では、いつでも短時間正職員になれる制度があるそうです。このような、女性が活躍してきた職種(保育士・看護師・介護職等)は、国の制度で働き方が決まってしまいます。この職種が今、激務であり低賃金であることを、国が改善しなければ劣化どころが存亡の危機だともおっしゃっていました。

 妊娠したら当たり前のように「おめでとう」と言うべきであること、組合が労働条件を改善していることなど、今、取り組んでいることに自信がもてるようなお話ばかりでした。

 

グループ討議での話題~各道府県からの意見など~

 日教組女性参画推進担当者会議では、グループ討議の時間も設けられています。話し合いの中で出てきた意見などをいくつか紹介します。

・女性の雇用問題は差別であるととらえるべきである。

・多忙であり激務だが、教職員は恵まれている方かも。他職種を巻き込んで活動を。

・現在は産育休代替は非正規教員が行っているが、以前は各職場に正規職員が常駐していて、その人が代替していた。正規職員にゆとりが必要である。

・女性の社会進出と同時に、男性の家庭進出を。

・「妊娠・出産・育児=働けない」はおかしい、というところから女性部の様々な運動が始まった。子どもたちに自立と共生を伝えるためにも、女性の働き方をより良いものにしなければならない。

・女性参画とは女性を何人参加させるといった見た目をよくするということではない。女性が元気な単組は全体が元気である。女性に寄り添える職場・組合は、全ての人に寄り添える職場・組合である。


チェ・ゲバラ没後50年

2017年10月24日 | 日記

今年(2017年)は、チェ・ゲバラが39歳という若さでこの世を去ってから50年目にあたります。そのため、日本でもいくつかチェ・ゲバラに触れられる機会がありました。チェは、どこに行くにもカメラを手放さなかったと言われています。恵比寿では、約240点もの写真を展示した「写真家 チェ・ゲバラが見た世界」が開催されました。その中の1枚に、チェがヒロシマで撮った原爆ドームの写真がありました。

映画『エルネスト』の冒頭は、日本外務省の意向を無視して、チェが汽車で大阪から広島に向かうシーンから始まります。原爆資料館や原爆ドームを見学し、慰霊碑に献花を終えたチェは、「君たちは、アメリカにこんなひどい目に遭わされて、どうして怒らないんだ」とつぶやきます。

『エルネスト』は、チェ・ゲバラとともにボリビアで戦った、日系ボリビア人フレディ前村の生涯を描いた映画です。ヒロシマの心を世界に発信することに最も寄与したと思われる作品に贈られる「ヒロシマ平和映画賞」を受章しました。

全編スペイン語で、前村を演じるオダギリジョー、素晴らしいですよ。是非ご覧あれ。


佐伯敏子さんの逝去を悼む

2017年10月24日 | 日記

 佐伯敏子さんと私との出会いは1989年、杉並教組で行った平和ツアーです。8月5日の市内慰霊碑巡りのバスで私の隣に座られたのが佐伯さんでした。うだるような真夏の広島、市内100カ所程の慰霊碑を一つずつ訊ねて回りました。大きなやかんを抱え、ろうそくとお線香を持ち碑の前で手を合わせます。酷暑の中、私自身相当堪えましたが70歳を過ぎている佐伯さんのどこにこの様なエネルギーがあるのだろうと不思議でした。

  その日の晩、供養塔の前にござを敷き、車座になって佐伯さんの話を聞きました。 

  「1945年8月6日は、疎開していた長男に合うため前日から郊外の姉の家にいたので、私は直撃を避けられた。市内にいた母や夫の両親を探しに、まだ火の海となっている爆心地を駆けずり回った。まだ生存している重傷者達が無傷の私に助けを求めたが、家族を捜すので彼らを見捨てざるを得なかった。また、市内を歩くには道を埋め尽くす多くの死没者達の遺体を踏みつけるしかなく、この時の足の感触は今でも残っている。『足が熱く、人の上を踏んで歩いた。人間としてやってはいけないことをした。』

 直撃を受けた兄2人と妹はその後亡くなり、母は首だけの姿で見つかった。従兄弟を含め親戚計13人を70日間で失った。その間、私の親族・家族同士の間ですら『病気がうつる』と言って原爆症を発症した者に近づくのを嫌がったり、負傷者を一時的に別の家に預けようとしても、食い扶持が減ると言って断られたりすることがあった。戦争や原爆が人間の身体のみならず心も傷つけることを見せつけられた。」と話された。

 平和公園内には被爆による無縁仏を葬るための原爆供養塔があります。この供養塔の拝礼者はほとんどおらず雑草などで荒れ放題でした。佐伯さんは七万体もの遺骨が納められている供養塔の周辺の草むしりや清掃等を毎日行うなど献身的に活動されていました。また、供養塔を訪れる人々に被爆体験の証言活動をされていました。東京子ども派遣団でも毎年、子ども達の前で証言をしていただきました。

 佐伯さんはその後、脳梗塞で倒れられ入退院を繰り返されました。供養塔への日参や証言活動も止められましたが、自宅を訪れる人々に体験談を語られていたそうです。

 私は佐伯さんをはじめとする被爆体験者から多くの事を学びました。特に「戦争は人の心をも傷つける。」との佐伯さんの言葉はその後の平和への闘いの原点になっています。この言葉を今一度噛みしめ、反戦・平和の絶え間ない取り組みをしていきます。

  今回のご逝去を知り、驚きと悲しみに耐えません。ご生前のお姿を偲びご冥福をお祈り申し上げます。


沖縄 1959年6月

2017年10月12日 | 日記

先日のNHKスペシャル 「スクープドキュメント 沖縄と核」は衝撃的だった
番組HPから内容を抜粋する

  45年前の本土復帰までアジアにおけるアメリカ軍の“核拠点”とされてきた沖縄。これまで、その詳細は厚いベールに包まれてきた。しかし、おととし、アメリカ国防総省は「沖縄に核兵器を配備していた事実」を初めて公式に認め、機密を解除。これを受け、いま「沖縄と核」に関する極秘文書の開示が相次ぎ、元兵士たちもようやく重い口を開き始めた・・・という切り口だ。

 核が1000発以上も沖縄に持ち込まれ戦争のたびに危険にさらされていたということや、嘉手納弾薬庫に置かれた大量の核を守るためにそ周りにまた核弾頭ミサイルナイキハーキュリーズを配備していたという冗談みたいな事実も衝撃だった。しかし恐らく番組を見た多くの人が度肝を抜かれ「魂(まぶい)を落とした」状態になってしまったのは、この核弾頭ミサイルが誤射されていたというスクープだったろう。

 当時、事故を起こしたナイキ運用部隊に所属していた元米軍兵士、ロバート・レプキーさん(81歳)によると、事故は1959年6月19日、海に面した那覇基地(現在の那覇空港の場所)で訓練中に発生した。一人の兵士が操作を誤り、突然、ブースターが点火して、ナイキが水平に発射。核ミサイルはそのまま海に突入したという。たまたま爆発せずに海中に沈んだらしい。それも米軍がこっそり素早くサルベージしてしまったらしい。核弾頭を積んだミサイルが沖縄の海に落ちていたなんて・・・背筋が凍るとはこのことだ。

 そして注目したいのが、この日付だ。1959年6月。これは教員ならぜひ覚えておかなければならない日付の月なのだ。1959年6月30日に沖縄県石川市(現うるま市)の宮森小学校の校舎に米軍の戦闘機が突っ込み、児童11名を含む17名が亡くなる(後に火傷の後遺症で1名亡くなる)悲劇が起こった。

 那覇の基地で核の誤射。その11日後に嘉手納基地の戦闘機が小学校に突っ込む。この密度に驚く。宮森小学校への墜落も原因は人為ミスだと判明している。この時期新型機の導入が続いたことも人為ミスを誘発した原因の一つだという。

 共和国にしろどこの国にろ核実験には断固反対する。しかし恐怖すべきは、飛んでくるミサイルよりももっと身近にある、オスプレイという新型機の配備をしている米軍基地の方にあると断言できる。