大江健三郎さんが3月8日の福島県民大集会で、伊丹万作の「戦争責任者の問題」を取り上げて、だまされることにも責任があること、「日本人は、福島第一原発の事故の後、もう原発はいやだと思ったが、いつの間にか政府は『原発は安全だ』と言っている。日本人は、また騙されたいと思っているのか?もう一度騙されてしまえば、私たちの未来はない」といった。
伊丹万作の「戦争責任者の問題」は、佐高信さんがある対談で取り上げていたので、読んだことがあった。今のようにインターネットで簡単に検索できるころではなかったので、区立の中央図書館に行って、伊丹万作の全集を調べてコピーした。読んでみると、はじめっからうなりっぱなしだった。一部を紹介する。
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
さらに、伊丹万作は、次のように続けます。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
まさしく、3月8日の県民大集会では、高校生からの「大人の方々の中には、<wbr></wbr>脱原発で頑張って下さっている方々もおられることは分かっていま<wbr></wbr>す。しかし、大人の方々に問いたい。原発爆発後の世界を、<wbr></wbr>私達の世代に残すのは、どんな気分ですか?」という発言があった。彼女を含めた子どもたちに、大人たちは、どう答えればよいのだろうか?