東京教組(東京都公立学校教職員組合)

教職員のセーフティーネット“東京教組”

戦争させない国会行動に12万人!

2015年08月31日 | 日記

 「安全保障法案」の参院での審議が9月に入りいよいよ山場を迎える。戦争法案廃案と、安倍政権退陣を求める行動は、夏休み中も連日のように続けられた。8月23日には、連合による国会前集会と日本教育会館での日教組集会も開かれた。

 8月最後の日曜日、30日には「戦争をさせない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」による最大の国会包囲行動が行われた。総がかり実行委は、国会に10万人、全国で100万人動員することを目指して準備を進めてきた。

 東京教組は、日教組独自の新宿駅頭街宣行動と国会前集会に参加した後、国会包囲行動に結集した。行動開始の午後2時前には、国会周辺の地下鉄駅や歩道は大混雑となり、立錐の余地もない状態となった。参加者は12万人に上り、国会前から霞が関・日比谷まで広がった。国会正門前では参加者が車道を埋め尽くし、60年安保闘争時を彷彿とさせる様相となった。

 包囲行動の午後2時、3時、3時55分には、国会周辺をはじめ全国で同時にコールが行われ、戦争法案の廃案と安倍政権の退陣を求めて参加者が一斉に声を上げた。コールの間には、スピーチも続いた。まず、野党4党の党首が次々に挨拶し、法案成立阻止に向けた院内の状況と院外の運動の必要性を訴えた。著名人の挨拶も続き、音楽家の坂本龍一さんは「イギリス人にとってのマグナカルタ、フランス人にとってのフランス革命。それが私たちの今のこの運動。一過性のものにしないでほしい。」と語った。作家の森村誠一さんは「戦争で犠牲になるのは若者と女性。特に女性を壊す。ごく当たり前の女性の権利が壊される。戦争ができる国にしてはいけない。」と話した。総合研究大学院大学の池内了教授は「科学が軍事利用され、武器のための研究を科学者にさせるようになっている。こうした動きなくしていきたい」と訴えた。

 朝からの小雨がやまない中、東京教組は、衆院第2議員会館前を中心に70名以上が集まり、日教組の他県の仲間とともにコールの声を上げ、法案を成立阻止に向けた意思を確認し合った。


戦争させない8.30国会10万人大行動

2015年08月28日 | 日記

 いよいよ明後日30日、国会周辺で戦争法案廃案!安部政権退陣!8.30国会10万人大行動(戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会主催)が行われる。当日は、国会周辺には近づけないほどの人々が結集することが予想されている。
 霞ヶ関・日比谷公園周辺のエリアと国会周辺のエリアにがあり、ステージも六っ所用意される。 

0830_kokkaiこの地図がわかりやすい!のでご利用ください。
↑ここをクリックで鮮明な地図が見られます。 

前日から、稚内から那覇まで、全国各地でも集会、宣伝活動が行われ、全国100万人大行動になります。その場所は、こちら。

8月30日(日)14:00~ 大行動のチラシPDF
国会議事堂周辺ほか


戦場ぬ止み(いくさばぬとうどうみ)

2015年08月24日 | 日記

 三上智恵監督のドキュメンタリー映画の題名だ。沖縄で今、何が起きているのか?その実像を余すところなく映像として見せてくれる。翁長沖縄知事の勝利にうれし涙、機動隊と海猿の暴行に悔し涙、海中に沈められサンゴを傷つけるコンクリートアンカーに怒る。
たたかいの喜怒哀楽を、登場する人びとと共有しているような映画だった。
 上映後、三上監督と高畑勲さんのトークに巡り合えた。
 高畑さんは、安倍だって「火垂るの墓」(高畑監督、野坂昭如原作)のような悲劇を繰り返したくないと思って戦争法を制定しようとしている。だから戦争被害の悲惨さを描く映画では十分でない、戦場ぬ止みのように今、どうなっているのか、どうしたら戦争が止められるかを訴える映画が必要だと語る。
 三上監督は、沖縄の運動をとおして沖縄だけに憲法も民主主義もないという日本(ヤマト)の本性に気付かされた。高畑さんの平成ポンポコは、まさに沖縄の民衆の姿、運動をテーマにした映画だと改めて感じたと語る。
 辺野古をめぐっては、沖縄出身の機動隊、海上保安庁、防衛庁に雇われた漁民、土建業者と毎日向き合っている。政府は、沖縄の内部を対立させようとしているが、この映画では両者が語り合う姿が描かれる。そこに、権力の思惑を乗り越える現場の力を見た。
 高畑さんの「沖縄の人々が、基地をなくす日を、一緒に迎えたいと思う」という言葉にも希望を感じた。


だれの子どもも殺させない

2015年08月21日 | 日記

 渋谷では、大学生のSEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)や前回紹介した高校生(T-nsSOWL)も「戦争法案反対」の声を上げてデモ行進をしている。

 7月26日には、安保関連法案に反対するママの会が、「戦争法案反対!ママの渋谷ジャック!」と題して街頭演説とデモ行進を行った。
 合い言葉は「だれの子どもも殺させない」。
 街頭演説で福岡から来たママが、8歳の息子から預かったメッセージを涙ながらに読み上げた。

ぼくは将来、フランス料理のシェフになりたいです。でもその夢は叶えられるの?国の偉い人たちは、ぼくたちが大人になった時に、日本が戦争をする法律を決めようとしていると聞きました。ぼくは、戦争に行きたくありません。大人のみなさん、どうかぼくたちを守ってください。

 教え子を戦場に送ってしまった私たち日本の教職員こそ、この願いに応えなければと思う。
 「私は子どもを戦争に行かせるために生んだわけではありません」「小さい頃母に、何で戦争なんかしたのか、何でみんなで反対しなかったのか聞くと、いつの間にか反対できなくなっていたと言いました。今私たちが戦争を止めなくてはならない。誰も殺させない。」など力強いママたちの声が渋谷の街にとどろいた。

 


僕らだっておかしいことにはおかしいって言う。

2015年08月10日 | 日記

 18歳からの選挙権が実現した。マスコミや教育現場は、「正しい政治教育」などと大騒ぎしているが、18歳に限らず政治について自分の頭で考え、自分の言葉で語り、自分の意志で投票することが最も大切なことは言うまでもない。「正しい政治教育」などと宣う人々の多くは、洗脳したいか、政治批判を怖れているか、高校生を馬鹿にしているかではないかと思う。渋谷で8月2日に高校生の戦争法案反対のデモがあった。そこに参加した龍紀さんが8日の国会集会でスピーチした。この高校生達を応援しようじゃないか。しっかり選挙権を行使してもらおうじゃないか。だれからも干渉されず、自分で考え、行動する多くの高校生達を支援したい。彼のスピーチを紹介する。

高校3年生 龍紀さんのスピーチ。

こんばんは!2日に渋谷でデモをしたT-nsSOWLです!
5000人集めました!
あの高校生デモで、なにかでかいもの、つかんだと思います!
政治家って肩書きつけて椅子に座ってるだけの人に
俺らの未来は決めて欲しくない!
負けてられないよね、って言葉、よく耳にします。
俺らは今の政権には、負けません!
それでも「高校生は勉強してろ」って言われます。
でも、高校生だって、国民です。
わざわざ高校生が国会前でこんなことしてるなんて、異常なんですよ。
それよりもたくさんの人から、オマエ、すごいぞ、とか、私もやれることやる、って声を聴きます。
あと、ひといきなんです!
仲間のため、恋人のため、家族のために
一人ひとりが声をあげる時期なんです!
冷笑してる場合じゃない!
僕らだっておかしいことにはおかしいって言う。
だけどそれは一人じゃ足りないんです。
僕らを応援して一緒に立ってください!


長崎平和宣言、戦争法案にも言及!

2015年08月09日 | 日記

 今日は長崎原爆忌。70年前の11時2分、プルトニウム原爆が長崎を襲った。長崎の平和祈念式では、被曝者と市長から「安保法案」への懸念が表明された。
 原爆で大やけどを負った被爆者の谷口稜曄さん(86)は「安保法案は被爆者が積み上げてきた核兵器廃絶への思いを覆すもので、許すことはできない」と訴えた。
 また、田上長崎市長は平和宣言で、「悲惨な戦争の記憶を語り継いでいくことが必要だ」と呼びかけるとともに、「安保法案」について、「70年前に心に刻んだ誓いが、日本国憲法の平和の理念が、いま揺らいでいるのではないかという不安と懸念が広がっています。政府と国会には、この不安と懸念の声に耳を傾け、英知を結集し、慎重で真摯な審議を行うことを求めます。」と政府と国会に対して、慎重な審議を求めた。
 平和宣言の全文を紹介する。 

長 崎 平 和 宣 言

  昭和20年8月9日午前11時2分、一発の原子爆弾により、長崎の街は一瞬で廃墟と化しました。

 大量の放射線が人々の体をつらぬき、想像を絶する熱線と爆風が街を襲いました。24万人の市民のうち、7万4千人が亡くなり、7万5千人が傷つきました。70年は草木も生えない、といわれた廃墟の浦上の丘は今、こうして緑に囲まれています。しかし、放射線に体を蝕まれ、後障害に苦しみ続けている被爆者は、あの日のことを1日たりとも忘れることはできません。

  原子爆弾は戦争の中で生まれました。そして、戦争の中で使われました。

 原子爆弾の凄まじい破壊力を身をもって知った被爆者は、核兵器は存在してはならない、そして二度と戦争をしてはならないと深く、強く、心に刻みました。日本国憲法における平和の理念は、こうした辛く厳しい経験と戦争の反省のなかから生まれ、戦後、我が国は平和国家としての道を歩んできました。長崎にとっても、日本にとっても、戦争をしないという平和の理念は永久に変えてはならない原点です。

 今、戦後に生まれた世代が国民の多くを占めるようになり、戦争の記憶が私たちの社会から急速に失われつつあります。長崎や広島の被爆体験だけでなく、東京をはじめ多くの街を破壊した空襲、沖縄戦、そしてアジアの多くの人々を苦しめた悲惨な戦争の記憶を忘れてはなりません。

 70年を経た今、私たちに必要なことは、その記憶を語り継いでいくことです。

 原爆や戦争を体験した日本そして世界の皆さん、記憶を風化させないためにも、その経験を語ってください。

 若い世代の皆さん、過去の話だと切り捨てずに、未来のあなたの身に起こるかもしれない話だからこそ伝えようとする、平和への思いをしっかりと受け止めてください。「私だったらどうするだろう」と想像してみてください。そして、「平和のために、私にできることは何だろう」と考えてみてください。若い世代の皆さんは、国境を越えて新しい関係を築いていく力を持っています。

 世界の皆さん、戦争と核兵器のない世界を実現するための最も大きな力は私たち一人ひとりの中にあります。戦争の話に耳を傾け、核兵器廃絶の署名に賛同し、原爆展に足を運ぶといった一人ひとりの活動も、集まれば大きな力になります。長崎では、被爆二世、三世をはじめ、次の世代が思いを受け継ぎ、動き始めています。

 私たち一人ひとりの力こそが、戦争と核兵器のない世界を実現する最大の力です。市民社会の力は、政府を動かし、世界を動かす力なのです。

  今年5月、核不拡散条約(NPT)再検討会議は、最終文書を採択できないまま閉幕しました。しかし、最終文書案には、核兵器を禁止しようとする国々の努力により、核軍縮について一歩踏み込んだ内容も盛り込むことができました。

 NPT加盟国の首脳に訴えます。

 今回の再検討会議を決して無駄にしないでください。国連総会などあらゆる機会に、核兵器禁止条約など法的枠組みを議論する努力を続けてください。

 また、会議では被爆地訪問の重要性が、多くの国々に共有されました。

 改めて、長崎から呼びかけます。

 オバマ大統領、そして核保有国をはじめ各国首脳の皆さん、世界中の皆さん、70年前、原子雲の下で何があったのか、長崎や広島を訪れて確かめてください。被爆者が、単なる被害者としてではなく、“人類の一員”として、今も懸命に伝えようとしていることを感じとってください。

 日本政府に訴えます。

 国の安全保障を核抑止力に頼らない方法を検討してください。アメリカ、日本、韓国、中国など多くの国の研究者が提案しているように、北東アジア非核兵器地帯の設立によって、それは可能です。未来を見据え、“核の傘”から“非核の傘”への転換について、ぜひ検討してください。

  この夏、長崎では世界の122の国や地域の子どもたちが、平和について考え、話し合う、「世界こども平和会議」を開きました。

 11月には、長崎で初めての「パグウォッシュ会議世界大会」が開かれます。核兵器の恐ろしさを知ったアインシュタインの訴えから始まったこの会議には、世界の科学者が集まり、核兵器の問題を語り合い、平和のメッセージを長崎から世界に発信します。

 「ピース・フロム・ナガサキ」。平和は長崎から。私たちはこの言葉を大切に守りながら、平和の種を蒔き続けます。

また、東日本大震災から4年が過ぎても、原発事故の影響で苦しんでいる福島の皆さんを、長崎はこれからも応援し続けます。

  現在、国会では、国の安全保障のあり方を決める法案の審議が行われています。70年前に心に刻んだ誓いが、日本国憲法の平和の理念が、いま揺らいでいるのではないかという不安と懸念が広がっています。政府と国会には、この不安と懸念の声に耳を傾け、英知を結集し、慎重で真摯な審議を行うことを求めます。

 被爆者の平均年齢は今年80歳を超えました。日本政府には、国の責任において、被爆者の実態に即した援護の充実と被爆体験者が生きているうちの被爆地域拡大を強く要望します。

 原子爆弾により亡くなられた方々に追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は広島とともに、核兵器のない世界と平和の実現に向けて、全力を尽くし続けることを、ここに宣言します。


Mal Waldron at Hiroshima 1999

2015年08月08日 | 日記

 16年前の1999年8月6日。平和祈念式で秋葉広島市長は、被曝者が残した大きな足跡として、①地獄の惨苦をや絶望を乗り越えて、人間でありつづけた事実。②核兵器の使用を阻止したこと。③戦争の過ちを一身に背負って未来を見据え、人類全体の公正と信義に依拠する道(憲法前文)を選んだことをあげた。意志さえあれば、核兵器廃絶の道は開ける。被曝者の強い意志を若い世代に持ってもらいたいと平和宣言を結んだ。
 その夜、灯籠流しの川辺にグランドピアノを出して、ジャズピアニストのマル・ウォルドロンが、自身の作曲したヒロシマ鎮魂の曲を演奏した。静かに、時に激しく川辺に流れる曲は、そのまま原爆で亡くなり、元安川に流れた屍へのレクイエムだった。演奏後、マルに平和祈念式のパンフレットにサインをお願いしたところ快く応じてくれた。そこには、日本の文字で「平和と愛」丸三、と書かれていた。あの時の演奏の記憶と核廃絶の意志とともに、今も私の宝物である。
 そして、ナガサキ原爆忌の1999年8月9日、国旗・国歌法が国会で成立した。