埼玉県秩父の山・谷・川で育んだ
偉大な俳人「金子兜太さん」・・・が逝く
blogに触発されて編集しました。
東京新聞から
現代俳句の第一人者で、金子兜太(とうた)さんが二十日午後、
誤嚥(ごえん)性肺炎による急性呼吸促迫症候群のため死去した。
九十八歳。埼玉県秩父郡皆野(みなの)町出身。
国・上海と埼玉・秩父で幼少年期を過ごした金子さんは、
旧制熊谷高校、旧制水戸高校(茨城大の前身)時代に本格的に俳句を始めた。
東京大経済学部入学後に加藤楸邨(しゅうそん)が主宰する「寒雷」に参加。
以後、楸邨に師事した。一九四三年に日本銀行に入行。
直後に短期現役士官として海軍経理学校に入校し、翌年、海軍主計中尉となった。
そして比企のさんへの記事に、コメントを投稿した。
ヒキのさんへ
ズバリ言行、端的 (縄文人)2018-02-21 18:28:21
秩父人らしい、ズバリ言行、端的、嘘隠しなく豪放な物言い、率直に言う人でした。
そのものズバリ5・7・5に、いや不定形に織り交ぜて詠む人でした。
奥さんが先に逝かれ、その直後新聞で心境を語っていたのを読みました。
父は、秩父音頭の作詞者、皆野町の金子病院の院長・金子元春(号:伊昔紅)です。
その昔、手ぬぐいに染め抜いた歌詞が、殆どの家に在りました。
我が家にもありました。
炭の俵を 編む手にひびが 切れりゃ雁坂 雪化粧
秋蚕(あきご)仕舞うて 麦蒔き終えて 秩父夜祭り 待つばかり
最後に:伊昔紅と書いてありこれ?と思ったことでした。
この元春先生の患者さんは、秩父の山や谷に暮らす農家の人が多い。現金収入がない。
野菜でお勝手は一杯になったとか・・そんな話を何かで読んだことが有る。
診療代を野菜で……。お金は出来てっからでいい・・・そんな人だったそうです。
当時おそらく無医村の村が多かったのでしょう。多くの患者が詰めかけた。
わたしの育った吉田町でも無医村の時があり、皆野町の隣村である国神村、日野沢村
は僻地で無医村であったようです。
・緑陰に秩父の人の話し声・・
きっと、”だんべぇ話”でしょう。
次の2句が秩父を映し出している様で気に入りました。
・曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
・山なみの一と隅明し蚕の眠り
ヒキノさんは、金子先生の本をこんなに読まれたんですか。(本稿に3冊の本)
凄い!!です。金子先生崇拝者!
≪俳人は金にならない!と、母親っからしきりに諭される≫
俳人の道を諦めるように、こと有るごとに母から言いくるめられた・・・とか。
鎧を着たような鉄人の兜太・俳人は、親の背中を見て育ったのでしょう。
学問を積み上げるごとに、俳句の道をまっしぐら、高校に通う頃から進むようになる!!
傾注した。
- 偉大なる俳人 (縄文人さんへ・・・ヒキノさんから)
- 2018-02-21 21:59:31
- 無季語、非定型・・・型破りの俳人であるが俳句の魂を持った人。秩父の山々のように大きくて奥深い人。
・秩父人の 魂叫びつづけて 兜太逝く
比企野さんへ (縄文人)2018-02-21 21:44:43
今晩は、
金子兜太先生
≫無季語、非定型・・・型破りの俳人であるが俳句の魂を持った人。秩父の山々のように奥深い人。
荒川の源流。 最初の一滴は、埼玉の県境にある甲武信ヶ岳に発します。
大滝村から三峰へ、秩父、長瀞~寄居付近までは、鋭い角を持つ岩石がゴロゴロ、岩肌を清流が縫って流れます。滝あり、堰堤あり急流にはとてつもない岩々が清流をふさいで流れを阻害する。秩父付近の荒川は、野山をかけめぐるライオンのような流れです。名前の通り、暴れ川”荒川”の名前の通りでした。
小生、57年前に東京の地を踏んだ時、荒川の流れが東京湾の河口から上流へ逆流↓のを見たと時はびっくりしました。そしてその河口には、小石すら無く、砂と小砂利でした。大きな石は全く見渡らなかった。
金子兜太先生の5・7・5、無季語、非定型・・・型破りの俳句の魂を持った俳人でした。そして人生観は、こんなところからきているのかなあ~・・・・と、しみじみ思いました。岩をも砕くような俳句の言葉・意味合い・発せられる言語、それは聞く人を圧倒させ、その中の含蓄力、他人を震え立たせました。清流が岩をも砕くような言葉に聞く人を圧倒させ、理解・納得・了解と言行一致の人でした。
秩父を囲む山々、その中央を流れる荒川、生活は貧しく、明治17年には秩父事件が椋神社にのろしを上げた、農民一揆(暴徒)が有ります。
・ 秩父人の 魂叫びつづけて 兜太逝く
上の句頂きました。
そして返句
・ 荒川の 魂叫びつづけて 兜太逝く
有難うございました。
合 掌
偉大な金子兜太先生の
少年時代はどんなものだったのか、出来うる限り調べてみたい。
よき資料見つけ、読破する事が出来ましたら改めて紹介いたします。
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