母の実家 愛知県岡崎市のことを書いたついでに、もう少し亡き母のことを書いてみます。昭和12年に父が支那事変(日本と中国の戦争)に出征し、止むなく母の実家岡崎へ母と子供3人が引き取られることになりました。
実家は当時9人の大家族のうえに私たち親子が4人加わり13人という大人数となりました。現在では想像のできない多い人数が一家で暮らすことは、母にとっては息の詰まることだったと思います。
子供3人は男の子ばかりでイタズラもするし喧嘩もするし、いくら実家とはいえ肩身の狭いことだったと思います。その母が小学生4年の私を連れて、ときおりオデンやドテヤキを食べに連れていってくれたことです。喫茶店などない時代でした。
私は珍しくもあり、美味しくもあり、単純に嬉しかったのですが、母はきっと大家族の中で暮らす閉塞感から、しばし逃れて自由な雰囲気にひたりたかったのでしょう。
つまり、この僅かな時間が母の息抜きだったのだろうと今思うのです。
実家は当時9人の大家族のうえに私たち親子が4人加わり13人という大人数となりました。現在では想像のできない多い人数が一家で暮らすことは、母にとっては息の詰まることだったと思います。
子供3人は男の子ばかりでイタズラもするし喧嘩もするし、いくら実家とはいえ肩身の狭いことだったと思います。その母が小学生4年の私を連れて、ときおりオデンやドテヤキを食べに連れていってくれたことです。喫茶店などない時代でした。
私は珍しくもあり、美味しくもあり、単純に嬉しかったのですが、母はきっと大家族の中で暮らす閉塞感から、しばし逃れて自由な雰囲気にひたりたかったのでしょう。
つまり、この僅かな時間が母の息抜きだったのだろうと今思うのです。