ツモ爺のひとり言~アートフラワー~

人生を少し長く生きた一人としての”私のひとり言”を聞いてください。

セールスマン時代の思い出

2006年12月25日 17時55分55秒 | ツモ爺のひとり言
念願が叶って経理から営業に移りました。最初は思うほど売れず苦戦しましたが、婦人服地の専門店さんと顔馴染みとなり徐々に売れ始めました。
そこで現品ばかりを売るのではなく先物を売ることにより成績は飛躍的に上がりました。
それは仕入れ担当者が産地で仕入れた商品のサンプルを借りて先物販売をするのです。先物は半月から1ヶ月先の商品です。
通常は一つの品種で赤、オレンジ、グリーンというように仕入れています。それを売り歩くと赤とオレンジは売れるがグリーンはさっぱり売れないということがわかります。
そこで仕入れ担当にグリーンはキャンセルして赤に交換してもらうよう進言します、そうしてもらうとその商品は完売します。荷物が入荷してからのキャンセルは嫌がられますが、まだ入荷しないうちですから相手も「うん」といいます。

段々それをやっているちに仕入れ担当も私をあてにしはじめます。「津本君この商品の評判を聞いてきてくれや」と言われ、他のセールスマンより先に見本を渡されます、したがって現品の販売にプラスして先物を売るのですから、成績も上昇します。おかげで社内の評判も上々となります。
やはり仕事は先手先手と進めるほうがリズムはよくなり結果も良くなることを覚えました。
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セールスマン時代の思い出

2006年12月25日 17時55分42秒 | ツモ爺のひとり言
念願が叶って経理から営業に移りました。最初は思うほど売れず苦戦しましたが、婦人服地の専門店さんと顔馴染みとなり徐々に売れ始めました。
そこで現品ばかりを売るのではなく先物を売ることにより成績は飛躍的に上がりました。
それは仕入れ担当者が産地で仕入れた商品のサンプルを借りて先物販売をするのです。先物は半月から1ヶ月先の商品です。
通常は一つの品種で赤、オレンジ、グリーンというように仕入れています。それを売り歩くと赤とオレンジは売れるがグリーンはさっぱり売れないということがわかります。
そこで仕入れ担当にグリーンはキャンセルして赤に交換してもらうよう進言します、そうしてもらうとその商品は完売します。荷物が入荷してからのキャンセルは嫌がられますが、まだ入荷しないうちですから相手も「うん」といいます。

段々それをやっているちに仕入れ担当も私をあてにしはじめます。「津本君この商品の評判を聞いてきてくれや」と言われ、他のセールスマンより先に見本を渡されます、したがって現品の販売にプラスして先物を売るのですから、成績も上昇します。おかげで社内の評判も上々となります。
やはり仕事は先手先手と進めるほうがリズムはよくなり結果も良くなることを覚えました。
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ダンスホール「アリアケ」

2006年12月21日 17時52分26秒 | ツモ爺のひとり言
昭和30年代初期ダンスホール「アリアケ」は大阪宗右衛門町の道頓堀近くにあり青春時代のメッカのような存在でした。なにしろ独身で会社に寝泊りする身分ですから夜ともなれば、誰に拘束されることなく、自由の身でした。惜しむらくは時間はあれど入社したてで金が無い。
ですから、前述のように日曜出勤をして金を握るやいなや「アリアケ」に駆けつけるのでした。
入場するチケットを買いホールのドアを開けるや否や、ぐあーんと聞こえてくるスイングする音楽、ドア一枚で別天地が広がるこの瞬間が一番好きでした。
そして好みのダンサーを物色してダンスを踊るこの瞬間もまた格別です。
12月この時期はクリスマスを間近にして胸をときめかす時期です。
これは場所、方法は違っても現在も変わらぬ心境でしょう。
そして、15分ごとに違ったバンドが演奏を始めます、雰囲気が変わり、またいっそう情熱をかき立てます。
資金が豊富な時はラストの蛍の光を演奏するまで踊り続けます。
こんなことが吾が青春時代の一齣ですから「アリアケ」は特別印象深い場所です。

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日曜出勤

2006年12月20日 10時46分18秒 | ツモ爺のひとり言
昭和20年代末から30年代にかけてのことです。大阪船場の婦人服問屋に就職してた頃のことです。その頃は婦人服地が戦後のモノ不足のため面白いように売れていた時代のことです。
日曜日も来店して仕入れをされる客があり、私たち独身社員3人は日曜出勤手当てを貰って出勤していました。通常は5~6名で販売をしているのですが、3名でやるのですから結構忙しい一日です。
やっと夕方を迎え来客もなくなり店じまいをします。いつもはその時に日曜出勤手当てを頂戴するのですが、その日に限って、社長は忘れたのでしょう一向頂ける気配がありません。
たまりかねて、私たちのなかの一人が催促をしました。すると社長は「君たちは車引きと一緒や、すぐ金をくれと言う」社長は昔の人ですから人力車の車夫と言ったのでしょう。このことが印象的で今日でもありありと記憶にのこっています。
さしずめ今日で言えばタクシーの運転手ということでしょう。
私たちにとっては、すぐに貰えないと困る理由がありました。そのお金を握ってダンスホール「アリアケ」へいかねばならぬ大切な軍資金だからです。
やっとお金を握り勇躍ダンスホール「アリアケ」へ出かけるのです。
次回は「アリアケ」の出来事を書きます。
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ツモ爺の半世紀をよければ聞いてください No.4

2006年12月16日 10時25分24秒 | ツモ爺のひとり言
「経理の仕事を3年やりました」
新入社員として婦人服地の卸業の会社に入社しました。
もともと私は営業を希望していたのですが、ちょうど経理の方に欠員があってその補充として経理を嫌々ながら3年続けました。
中学を出て外国語の専門学校を卒業した私は簿記が分りませんでした。
月末がくると試算表を作成するのですが、僅かな金額があわないのです。大きい金額は案外発見しやすいのですが、僅かな金額の時は発見が難しいのです。
女子社員にも手伝ってもらい2~3日は悪戦苦闘の結果発見できた時の喜びは今でも忘れられません。
どうしても基本が理解できなくては駄目だと思い簿記の通信教育を受けてその後は少しづつ進歩しました。
今になりますと、振り替え伝票、決算書が自分で作れるようになったのはその時の経験が役に立っています。
嫌な仕事でも若い時代には柔軟に吸収できます、それが長い人生に役立つこともあり今ではその時の経験に感謝しています。
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富士山がラッキーにも見えました

2006年12月11日 12時47分21秒 | ツモ爺のひとり言
先日の研修旅行で東上する時、その時はあいにく曇り空でした。しかし新幹線の静岡駅に到着すると真正面に富士山が見えるではありませんか、しかも頂に雪をかぶり素晴しい光景でした。
思わず「ラッキー」と心の中で叫びました、なんといっても、日本一高く、姿も美しく外人が日本を評して「フジヤマ、げいしゃ(芸者)」と言われるほど日本の名山です。
次の停車駅は三原、ここで見る富士山は下に山の連峰を引き連れた光景です。このシーンもまた格別の風景です。
何はともあれ、この時季に富士山が見え、また冠雪の美しい富士山を見ることが出来たのはラッキーというよりほかありません。
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富士山がラッキーにも見えました

2006年12月11日 12時47分06秒 | ツモ爺のひとり言
先日の研修旅行で東上する時、その時はあいにく曇り空でした。しかし新幹線の静岡駅に到着すると真正面に富士山が見えるではありませんか、しかも頂に雪をかぶり素晴しい光景でした。
思わず「ラッキー」と心の中で叫びました、なんといっても、日本一高く、姿も美しく外人が日本を評して「フジヤマ、げいしゃ(芸者)」と言われるほど日本の名山です。
次の停車駅は三原、ここで見る富士山は下に山の連峰を引き連れた光景です。このシーンもまた格別の風景です。
何はともあれ、この時季に富士山が見え、また冠雪の美しい富士山を見ることが出来たのはラッキーというよりほかありません。
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ツモ爺の半世紀をよければ聞いてください No.3

2006年12月06日 11時02分14秒 | ツモ爺のひとり言
「噂が危機をもたらす」

昭和30年に入り婦人服地もじょじょに市場に出回り活況を呈してきました。
その当時、毛織物の産地として尾張一宮を中心に活発に商売が始まりました。
その当時の言葉に「ガチャ万」という言葉がはやりました。それは服地を織る織機が一回”ガチャン”と音をたてるたびに万というお金が儲かると言う状況を世間がやっかみ半分に言ったことばです。

さて、私が勤める婦人服地卸としても活発に一宮より仕入れて大阪の船場で販売をしていました。戦後のこととて皆が服地に飢えていた時代ですから面白いほど売れました。
その商品の中に「モツキ」と称する織物があり、まだ本格的毛織物がありませんから毛織物に似せて化繊糸を使い一見毛織物に見える織物が大変よく売れました。
ところがその良く売れる商品がパタッと入荷しなくなり、毎日出荷の督促をするのですが一向入ってきません。
それでよく調べてみると京都に同名の会社があってその京都の会社が倒産したのを
間違われて機屋さんが出荷しなくなったのです。
そのことがわかり早速社長に呼ばれてお金を機屋さんに届けるよう私は言いつけられました。
当時のお金で300万現在の価値からすればやく1000万ぐらいに相当するでしょうか、それもわざわざ銀行小切手(絶大な信用がある)にして持参しました。
それからは、その”もつき”織物はどんどん送られてくるようになり、わが社も
活況を呈しました。
このことは信用不安のときはどうすれば良いかということを私自身が学びました。

さて、ツモ爺は7日から10日まで研修のため出張いたします、そのためその間お休みさせて頂きます。どうか宜しくお願い致します。
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ツモ爺の半世紀をよければ聞いてください No.2

2006年12月05日 10時19分48秒 | ツモ爺のひとり言
「ジエーン台風のこと」
大阪船場の繊維問屋に就職して間もない頃、昭和25年9月3日にジエーン台風が近畿地方を襲い大きな被害の爪跡を残して去りました。
その時入社したてのころですから会社の2階に寝起きをしていました。一階は雨戸がありますが、2階はガラスの窓だけです。
猛烈な風を2階で防ぐため雑巾を両手でもって窓ガラスを数人で内側から支えていました。
ゴーッという唸り音とともに窓が内側にしなります、それを必死になって支えるのです、もし窓を割られたら屋根をもっていかれます。外を見ると剥ぎ取られた看板はまるで紙くずのように飛んでいきます。
ずいぶん長い時間のように思ったのですが最盛期は1時間ぐらいで徐々に風は収まり、ようやく自分自身を取り戻したような気がしました。
外は街路樹は倒れ、剥ぎ取られた瓦がこっぱ微塵となり、それこそ無残な有様でした。
翌日は台風一過、輝くようなお天気とともに暑い夏が一挙に秋となり気持ちの良いシーズンに変わり、これが台風一過と言うのだなあと、自分自身が納得するのでした。
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ツモ爺の半世紀をよければ聞いてください No.1

2006年12月04日 09時59分38秒 | ツモ爺のひとり言
1930年昭和5年生まれのツモ爺は76歳になります。今までの半世紀は形は変われど色と形の仕事を一貫してやってきました。
若い時から今日に至るまで仕事は幾たびか変わりましたが、いつも色と形に関わる仕事でした。
まず最初に入社したのは大阪の船場(現在の中央区本町を中心とした場所)の繊維問屋です。昭和25年ごろでした、その頃の一番面白い話にこんなことがありました。スフのサージ(人絹糸を綿にして紡いだ糸の綾織)の機織(キバタまだ晒しの済んでいない織物)の売買をしていました。
スフのサージのまとまった数量を仕入れてそれに自社のマージン(利益)を加算して売ったわけです。
時代はインフレですから次々と高くなります、次にまたスフのサージを仕入れたところなんと以前自分のところで売ったサージではありませんか。
ぐるぐる回りまわってまた自分のところへ回ってきたということです。
もちろん、以前の価格より数段高くなっていました。
こんな笑うに笑えないことが昭和25~26年頃はまかり通っていたおはなしです。
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