富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

「論語」の難読:「賢賢易色」

2018年02月18日 | Weblog

富山出身の井波律子さん「完訳論語」(岩波書店)で、学而編の第7章、「賢賢易色」を、「賢者を賢者として美女のように尊重し」と訳されている。前半は正解である。「色を易える」というところで見事につまづいた。「色」とは、顔色である。賢者の言動に接し、学んでいると、顔色(顔つき)が感化されて変わってくることを意味する。論語では、子夏の言葉になっているが、漢代に書かれた「韓詩外伝」には、閔子ケンが孔子の強化をうけ、「菜色」から「芻豢の色」に変わったことを子貢に指摘され、「易色」の理由を問いただされた話がある。ここに閔さんの見事な実例がある以上は、「色」を美女だ例える艶めかしい翻訳は慎むべきであろう。韓嬰は、これを「切磋琢磨」という詩経の事例として挙げている。子夏は、孔子から詩経の「切磋琢磨」をすぐに思い出したので、いたく褒められている。

「賢を賢として色を易(かえ)る」とは、孔子のような賢者の薫陶をうけ、青臭い青年から思慮深い成人の顔つきに成長したことを意味している。僕が典拠とした「韓詩外伝」は、中国では「論語」を読解する際の確たる挙証として用いられる古典である。ちなみに、加地伸行先生「夫婦はたがいに相手の良いところを見出してゆくことが第一であり、容姿などは二の次だ」と現代語訳(講談社)をされている。すくなくとも、「詩経」の伝のひとうである「韓詩外伝」くらいは、確認しておいて欲しかった。

昭和は、大教授が学力崩壊していたわけである。かくいう僕もその一人。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月17日(土)のつぶやき

2018年02月18日 | Weblog

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国における地方史の活用法

2018年02月17日 | Weblog

中国は、上からみると中国共産党により一元化された社会である。しかし、他方で、少なくとも県別に細かく見ていかないと、中国市場でのビジネスには情報不足となる。1980年代に中国では、社会主義の新時代の地方志の編纂ブームが興された。これをアメリカの拠点大学では、全て蒐集したようだ。日本でも、東洋文庫が蒐集したが、100%かどうか分からない。江戸時代、徳川幕府は、中国の地方志を積極的に蒐集していた。日本には、中国の地方志を重視した時代があった。僕は余りにも対象が広すぎるので、対象を絞りこみ少し集めたが、京大に寄贈した。残したのは、地方志の編纂理論の書物だけである。主要な理論書は、まだ手元にある。

中国では、地方史とはいわない。人文地理の視点で、「志」を主体に「史」を従にするからである。古くは、「芸文志」という「志」があり、その郷土の文学作品が地方志には採録されている。現在、ビジネスに役立つのは、「工業志」のある地方志である。なかでも、江蘇省の「無錫県工業志」は、単独でも出版されている。非常によくできている。いまは、中国ではネット検索により必要な情報が集められるので、当分は、地方志のブームは再来しないだろう。とはいえ、20世紀の最後の20年に現れた中国地方志は、マーケティングには欠かせない基本データとなる。経済産業省の外郭団体としてアジア経済研究所があるが、学問の筋が悪いので、中華人民共和国の地方志をあつめ分析していない。学界からも、経済界からも、このアジ研の評判は良くない。大家から言わせると、大学院の修士のレベルなので、博士論文の水準でないと、外交政策の立案にも役立たないとのことだった。

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月16日(金)のつぶやき

2018年02月17日 | Weblog

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大学図書館に「釣り」に行くぞ!

2018年02月16日 | Weblog

清王朝の時代の読書人は、書物の中から得たい情報を引き出すことを「魚つり」に喩えた。だから、「釣り」に行く、という遊び感覚が生まれる。日本の図書館は、日本十進分類法を使用し、図書を配架するので、これを知っていると、知りたい事項の分野の整理番号が分かるので、だいたいピンポイントでどの棚を詳しく知ら出たら、欲しい情報に出会える。これは、基本、文科系の話である。理工系では、最先端の情報は、電子化されており、投稿する雑誌が電子ジャーナルになっている。

僕のように退役した学者なら、図書館に釣に行くぞで済まされる。しかし、現役の中国学者なら、図書館に並んでいるのは、常識であって、最先端の研究情報はそこにはない。中国で発表される最新の学術論文は、すべて電子化されており、先方と契約し、高い使用料金を払わないと入手できない。それで、中国研究で日本の最先端の研究書である京都大学人文科学研究所においても、この維持管理費が捻出できないために、医学、薬学、理工系の漢語で書かれた研究論文の最先端を知らないままで進んでいる。僕に場合は、文系で、しかも関心が中国共産党の文化政策と農村政策なので、うまくカバーしている。企業様におかれては、東京の東方書店に相談されることだ。細かなキーワードを絞り込めば、年間10万円くらいの投資で、中国からの情報を買うことができる。パソコンで必要な情報を集める「釣り」と、富山大学の図書館に「釣り」に行く場合とがある。自宅か、富山大学か、全ては家内の機嫌に左右される。

いずれにしても、あらゆる学術分野の最新情報を知るノウハウは、大学にしかない。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月15日(木)のつぶやき

2018年02月16日 | Weblog

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近現代史は、地球横断型の叙述体系がいる

2018年02月15日 | Weblog

高校の日本史と世界史との分立、どちらを必須とするか、これは悪魔の選択だった。日本経済を根幹で支える中核企業は、すでに国際化し、社員の多国籍化も進んでいる。それに対し、高校の歴史教員、特に日本史系が狭い視野の研究・教育の枠からでられないネックがある。そこで、近現代では、世界史・日本史を横断型の科目として教育しようとする案が制度化されようとしている。日本の場合、地球横断型の思考は、マルクスに由来し、コミンテルンの世界戦略のために先行して研究開発してきたので、マルクスの階級闘争進歩史観は薄めながら、地球規模の格差社会の解消という形で、修正マルクス主義がさらに生き延びることが考えられる。世界史では、ケンブリッジ大学が世界で最も公平な歴史像を提供している。特に科学革命を軸にする記述と、カール・ポラニーの歴史理論とケインズ革命との整合、さらにオーストリア学派の再評価などの経済学説の歴史の整理など、非マルクス主義の学者による叙述体系の深い検討がいる。

今度こそ共産党系の歴史学に任せないで、自由民主党が責任をもって政治主導し、広くケンブリッジ学派、ハーバード学派、そして中国、インドの学者の協力を得て、自由主義の貢献と限界、国民国家形成の長所・短所、なぜ、2度の世界大戦を生み出したのか、日本の責任の限界、そして、核兵器の問題など、「国際的にも違和感のない」歴史像、また、日本人の行動指針となる歴史像を提供するべきだ。文部科学省に丸投げしたら、共産党系学者の歴史像の焼き直しに終わるだけだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月14日(水)のつぶやき

2018年02月15日 | Weblog

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

論語の「邦君樹塞門」の読み:日本人学者の誤読はひどい

2018年02月14日 | Weblog

「論語」の八佾篇の第22章に、この文章がある。中国の学者の現代語訳をみると、「邦君、塞門を樹(た)つ」と読んでいる。樹木の「樹」は、「立つ」の同義語である。ただ、朱子は「屛は之を樹という」と誤った注をつけた。それで、井波律子さんも、「邦君は樹(じゅ)して門を塞(ふさ)ぐ」と訓読し、「君子は石の衝立を立てて門内が見通せないようにする」と口語訳されている(『完訳論語」)。この訓読は、安井息軒に始まる。今朝、中国の漢代に編纂された古い字典「方言」を調べると、「樹植、立なり。燕の外郊、朝鮮の冽水の間はでは、およそ置きて立てる者は、これを樹植と謂う」(『方言』七)。この地名は、後漢の初めころ、今の北京から朝鮮半島では、「立つ」という意味の言葉を「樹植」といっていたという方言の説明である。そもそも、春秋時代の魯の国の孔子が、「樹」を立てる、という意味で使用していた言葉が、東の夷では、「樹植」で「立つ」という意味の方言になっていたことが確かめられる。

これは、何も難しくない。「樹立」という熟語は、「樹」が「立つ」という意味であるから同義の漢字をふたつ重ねて「樹立」、buildの意味になる。「樹」を「たつ」と読んだのは、日本では、加地伸行先生だけである。朱子は、樹を名詞と解した。「樹」は、目的語(賓語)をもつ典型的なVerb である。日本の学生は、岩波の本にどれだけ騙されてきたのか、想像を絶する。孔子は、志を立てるという心の次元を「立」で表し、建造物の場合は、「樹」と動詞として用いている。こんな用語法に区別もしないで、「完訳論語」と称したのは許せない詐欺行為だ。井波さん、「石の衝立」、この日本語も可笑しいでしょう。「石の屛」なら、日本語として正しい。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内向きの「万葉」学者の饗宴:「詩経」の欧文翻訳に学ぶ

2018年02月14日 | Weblog

私は不勉強なので、「万葉集」に英語訳、フランス語訳、中国語訳があるのか、知らない。私が国学派に疑問を抱くのは、国粋が排外または、外国文化を避ける心理的態度である。大阪大学で、教養部の犬養孝教授に対する敬意と、文学部教授たちの苦笑をまじかにみてきた。私は、文学部の助手だったので、学部生にY君がおり、犬養信者として、万葉ツーリズムの世話役をしていた。ところが、驚いたことに、卒業論文と「万葉集」の間には、彼はなんの橋も掛けることができなかった。それで、卒論の指導には苦労した怨みが残されている。せめて、「万葉」の時代の中国大陸の文化でも扱って欲しかった。つまり、犬養さんは、国粋すぎたのでで、Y君が東洋史学講座に所属する利点をなにも生かせなかった。実は、万葉に用いられた漢字の音の借用だけでも、国粋主義は前提として成立しない。

私が、今、中国人が、特に外交官が、中国の古典である「詩経」を主な欧米語に翻訳出版する事業に大きな努力を払ってきたという事実をしった。陳季同「中国人自画像」という書物にその事実の一端を知った。中国文化が、フランス人から尊敬されるのは、こうした努力が何百年も積み上げてきた事実にある。「一帯一路」というには、最終、文化の架橋が意識されている。日本人が万葉集を日本人の内部で文化の自己消費を行うなら、富山の工芸品が欧州で理解される糸口は拡がらない。せめて、「万葉集」の中国語訳だけでも、富山人は歴史に足跡を残せる。高岡市民には、その能力が潜在するとにらんでいる。「詩経」を原文で読む力がある人たちがおられる。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

曹操が再編集した「孫子兵法」のほうが、千金の書物だ。

2018年02月14日 | Weblog

「三国志演義」が書庫から出てきた。頭から読み始めたが辞めた。同じなら、「資治通鑑」の方が百倍ためになる。まだまだ、小説という娯楽には走れない学者の「意地」があるからだ。それと、劉備、関羽、張飛の出会いの場、「三国志演義」には、骨格しか書かれていない。なるほど、ドラマや劇画により、さらに膨らませる余地があることを知った。

しかし、曹操に関しては、散文、詩の世界では、劉備らの輩とは異次元の人物である。儒学の体系化には、「魏王朝」は格段の寄与がある。中国では、曹操の人格・人望のほうがはるかに高く評価されている。なるほど、文章として読めば、「三国志演義」には学べるところは少ない。大学で中国語を選択したなら、せめて「三国志演義」は娯楽を兼ねた教養として、お勧めする。でも、学者一生をかけて読むだけの価値はない。曹操が再編集した「孫子兵法」のほうが、千金の書物だ。

このあたり、高岡高校の出身の、井波律子さんの学問が娯楽に終わる哀しさと重なる。高岡の地の挽歌かも知れない。

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月13日(火)のつぶやき

2018年02月14日 | Weblog

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細かな文字の本をどのように読んでいるのか

2018年02月13日 | Weblog

まず、76歳という高齢者なので、細かな文字の洋書は、老眼では読みずらい。それで、まず、スキャナーを用いて、PDF形式に取り込む。このとき、ワード形式で取り込むこともある。PDFは画像形式なので、画像のテキストは、書き込みや削除できないので、主に図版やグラフの多い本は、これを使う。PDFには、音声で読み上げる機能があるので、時に助かることもある。PCのモニターで何倍にも拡大できるので、老眼鏡はいらない。論文などの引用するには、TEXT形式のワードへの転換が便利である。ただ、スキャナーに対応するOCRの読み取りの性能により、校正がかなり面倒である。英文でも古い書籍だと、書体が違うので誤認識が多くなる。このような校正作業が面倒なので、研究の戦線から脱落する人は多い。しかし、ワード形式に取り込んだ外国の書籍の重要部分は、PCのモニター画面と格闘しながら、独自の翻訳の作業が可能である。最近では、英語も中国語も、翻訳書が意外に少ない。それは、プロが翻訳のリスクを負わないで、本当に必要な部分だけを理解できれば良いので、学者の主流は翻訳を選ばない。ところで、最近の書籍は、デジタル原稿から印刷されているので、OCRの誤認識は格段に低い。だから、昔のように紙のスクラップはだんだん不要になる。代わりに、HDDの容量が頼みになる。我が書斎では、HDDの方がPCよりも遥かに高価である。それでも、2重にバックアップしている。クラウドに預けるのもよいが、誰にも楽屋裏は見せたくない。クラウドに任せるなら、バックアップのB版であって、自宅PCには、A版を保存するの限る。お勧めのOCRのソフトは、eタイピストが良い。特に中国語の簡体字のテキスト変換は頼りになる。

以上、述べたことの意味が分からないなら、もうあなたは異次元に捨て置かれた生命体にすぎない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

IoTは部分最適となり全体最適を妨げる

2018年02月13日 | Weblog

ゴールドラットの理論では、ビジネスのプロセスの一部だけに、最新技術を投入すると、全体最適を妨げると注意している。大事なのは、マーケットからの需要の量、タイミングに対し、最適の供給をよどみなく提供できるという最終工程から逆算し、どこかの工程だけが、1単位時間あたりの生産能力を高めても、前工程からの半製品の流れを待つことになる。工程の流れの平準化により、仕掛け在庫を最小にすることが全体最適となる。こうしたゴールドラット理論が実践されているのは、県下では、林和夫社長が率いる朝日建設さんである。工程が遅れたらと、一工程ごとに遅れを想定した「ヘッジ」を見込んでいくと、最終工程までには、「ヘッジ」として残しておいた最終締め切りが当初計画のように意識される。結果、工期の遅れが当然とされる。これも、ゴールドラットが注意する「先送り」思考である。「前倒し」思考でないと、同じ工事処理の能力でも、年間の受注量の達成に大きく関係してくる。しかも、複数の現場を同時進行させ、最新機械を使いまわすには、複数工程を同時進行でこなすので、単品生産の製造業と比較にならないほど、工程の企画管理は複雑・多元である。仮に一つの現場が最適でも、複数の同時進行の現場を含めて全体最適を生み出すには、IoTの技法を部分、部分の投入することの危険性を教えてくれる。この面で、富山の製造業が「ものづくり:職人思考にかまけて、全体最適に近づくような人口頭脳の演算を生み出す工程管理の全体最適に遅れをとっていることに十分に気が付いていない。富山人の心が閉鎖的なのではなく、コンピュータの出来ることを深く理解できていないからである。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月12日(月)のつぶやき

2018年02月13日 | Weblog

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする