富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

リカレント教育:意欲有りすぎ / やる気喪失

2018年12月19日 | Weblog

意欲有りすぎの方は、何かにつまずくと、やる気喪失組に編入される。はじめから、やる気、意欲を持たないで、淡々と可もなく、不可もなく、「仕事」に深い意味を感じないように、淡々と仕事を消化するには、なにを言っても無駄である。老荘思想というか、無為、無策、無自覚、「下は楽」と平然と言い切り、自宅を清潔に、庭を整然と整え、親戚を第一に、かと言って、会社も無遅刻、無欠勤。可もなく、不可もなく、お勤めは律儀。それだけでよい。こういう人材は、老荘思想を見事に身に着けた人材である。孔子の学徒は、そうはいかない。「名」を重んじるから、変に活性化するから、勢い、挫折もする。とくに、職階を上に登りたいという意欲が自己意識となると、リカレント教育も、その効果は一時的なものに終わる。企業がコストをかけて教育しても、「意欲」と「やる気喪失」とは、同じ波動のなかの上下動にすぎないから、企業としてはコストは回収できるが、投資する価値はない。大事なのは、老荘思想できちんと武装した人材が、「会社」という組織のなかで、地道に稼働していることへの感謝をいかにさりげなくするかである。コンサルタントを招き、鐘や太鼓で囃しても、波動型の人間をさらにワナに嵌めるだけである。マネジメント学は劇薬である。老荘思想は、実は見事な自己管理の哲学をその内側に既に持っている。徹底的に無為、先人からの伝承を守り、次世代に芸を偸ませる昔ながらのやり方が、日本の社会の要所、要所にはめ込まれている。洋式の学問であるマネジメント学とは、大野耐一さんの仕事哲学は明らかに違う。それは、老荘思想で武装した職人さんをいつの間にか夢中にさせる遊戯を編み出したことにある。効率よりも、この方が気持ちが良いわ、というジワーとくる改善の喜びである。伝統企業、100年企業は、社長が敬語で呼び掛ける「仙人」が棲んでいる。気が向いたら、好きな時間に来て、好きな時間までいてくださいという特別な存在が、70歳以後の高度プロフェッショナルの働き方である。酒、味噌、醤油、コンブ削り・・・無口な哲学者のような職人さんを尊敬することが、どこまで若い経営者ができるのか?要は、仕事場を離れすぎたリカレント教育はなく、あるとすれば、思い切った異業種の体験である。送り出しの側の経験者なら、受け取る側での体験である。銀行員が、企業側の資金を借りる側を1年以上も経験すると双方向が見えてくる。大学も就職担当から、企業の側の採用担当を経験するとよい。これが立場替えのリカレント教育である。


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中国史を年中行事の変遷から読み解く

2018年12月19日 | Weblog

僕の辛いところは、レベルを上げると受講生が減る、という悩みである。それでも、勉強は辞めない。それは、年中行事の変遷を追うと、案外に、中国の近未来が読み解けることが分かる。まず、暦であるが、1912年に太陽暦が採用されたが、農業暦が20世紀まで支配的だった。周王朝では、この太陰暦の10月1日を周王朝の建国記念日としていた。これを太陽暦の10月1日を建国記念日したのが、中華人民共和国である。由来を周王朝に求めている。次に、1月15日は、周王朝では、太乙(太一)といって北斗七星の信仰があり、これは前漢王朝で復元されている。ところが、後漢王朝の明帝の時代に、西域から仏教が伝来し、灯で夜を照らす「元宵節」が、道教系の太乙祭りと競合しはじめる。仏教系の祭礼は、隋唐王朝時代に全盛となり、元・明王朝の時代では道教系が優勢となり近代中国の時代となった。ここから、孫文を中心に迷信打破、科学主義がおこり今日にいたっている。道教系・仏教系の「元宵節」は、いまや台湾にのこされている。また、隋唐時代の風習は、奈良仏教に転移され、万灯の祭礼として残されている。このように整理すると、中華民国・中華人民共和国は、祭礼文化形からいうと、非宗教化された「儒学」全盛へと向かう数百年の時代の到来を予言する。武上真理子さんの孫文を「科学の人」と定義したは、僕の示唆であるが、儒学が西洋科学と融合した時代へと中国大陸も進化している。ドラッカー、シュンペーターなどが、堂々と中国アカデミズムの中心に君臨している。


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創学の学術と改善の学術:リカレント教育への視点(1)

2018年12月19日 | Weblog

創学の学術とは、過去の定説を論破し、新たな地平を開くことである。改善の学術とは、大野耐一さんのトヨタ生産方式が、指導理論である。これは、学術研究を進めるうえで、研究者の基本の資質に関係する。共通点は、因果関係である。結果から逆算して、既存知識技術のネックをみつけて源流に遡ることで、基本原理そのものを取り替えないといけないのか、部分改善・部分改良で進められるのか、その違いがでてくる。

これまで、大学院におけるアカデミックな研究では、原理を換装する形而上の探究と、改善の工夫とが、混然一体としており、明快な腑分けがなかった。「創学」に端を発する研究も、その仮説の実証に向かう過程では、大野耐一さんのトヨタ生産方式が大いに役立てられる。こうした原理軸に気が付き、教育に画期的な差異をつけたのが、金沢工業大学の成功である。これは、逆に金沢大学をはじめ、富山大学、富山県立大学が根本的に学びなおすために、大野耐一さんの本を工学教育のために深く読み直して欲しい。卒業生が最終製品である。なぜ、このような欠陥が生じたのか、なぜを五回、問い直すことで、教育プログラムの改善点が見つかる。ただ、富山では湾岸社会主義者が、頑固にも、大野さんの著作を熟読しないで批判している。ソニーの会長の盛田さんが読まれた大野さんの著作は、富山市立図書館で閲覧できる。珍しく赤鉛筆が引いてある。議論のために、創学と改善学を2分しているが、実は、「改善」課題の発見からすべてが始まる。まず大事なのは、「改善」という気づきは、ライフワークである。言い換えると、時間外労働である。それは、自分を進化させる学びである。湾岸社会主義者は、それを時間外労働とか、サービス残業という。それを国家公務員である富山労働局は、有償労働として賃金にカウントせよと企業に迫る。その労働観は、極めて思想的に貧しい。労働に備わる天職という人の尊厳に関わる聖域のもつ意味をマルクス系の思想家は、理解できていない。企業内という場所をお借りしての自己修養に富山労働局は堂々と行政介入してくる。


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12月18日(火)のつぶやき

2018年12月19日 | Weblog

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