座間コミニティー

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レビ記14章33-42節

2012年05月23日 08時13分57秒 | 聖書

14:37 「その患部を調べて、もしその患部がその家の壁に出ていて、それが緑がかったか、または赤みを帯びたくぼみであって、その壁よりも低く見えるならば、
14:38 祭司はその家から入口に出て来て、七日間その家を閉ざしておく。」
 ここでは、家の壁に患部が出来るとことが語られています。
患部というのは、通常、病気であることによって生じるものですから、生きている者に生じるものです。
ところが、ここでは家の壁に出来ている患部ということを語っています。
したがって、ここで語られているツァラートの患部というのは、通常家に出来る「カビ」のことだということが分かります。
このように言われるのは、それが、人が持つ皮膚病と似ているからです。

 こうしたカビが出来た時には、まず祭司に見せることが求められます。
祭司は、そのカビが広がるのかどうかを見極めるために、1週間その家を閉ざしておいて様子を見ます。
その後、その結果を見て、どうするのかという判断が成されることを語っています。
 家にとってもカビというのは、人の皮膚病と同じように、その家に被害をもたらすものであるからです。


◆口 が 誇 る 時

2012年05月23日 08時04分03秒 | 聖書

愚か者の口には誇りの若枝がある。
知恵のある者のくちびるは身を守る。(箴言一四3)

子どもは何でも自慢したがります。ことに幼椎園に行っているくらいの子どもは、自慢のかたまりです。今まで私が見聞きしただけでも、お父さんの頭のはげ具合・お父さんのおならの音の大きさ・自分の靴下に穴のあいていることと、その穴の大きさを自慢していた子どもたちがいました。
もちろん子どもたちでも、お父さんの月給や会社での地位や職業、家屋敷の大きさや持ち物の自慢は多いのですが、子どもにかかると何でも自慢の種になります。単純というか素直というかむき出しというか、ほほえましいものです。
では、大人になり老人になると、この自慢はやむかというと、なかなかそうはいきません。この間、家の年寄りといっしょに近所の老人会館に見学に行ったのです。お年寄りがたくさん集まっていました。まず第一に、子どもたちの自慢話・成功談・もうけ話が盛んです。しかし驚いたことに、自分がどんなに病気を多く持っているか。自分の子どもがどんなに薄情か。嫁がどんなにひどいか。……そんなことまで自慢の種なのです。働き盛りの人々も、やはり自慢話をよくします。自分だけが、正義に立っている。一番犠牲を払っている。一番物分かりがいい。一番苦労している。一番病気で悩んでいる……などがその話題になります。
自慢ばかりしている人を見ると、あまりに見えすいて、いやになることもあります。そして反省させられるのは、自慢する人は、第一に、自分で自分のことがよく分かっていないということ。第二に、自分のことばかり考え、人のことを思いやる余裕がないことです。
こんな私たちを愛して見守っていてくださる神が、この私をどのように見ていてくださるでしょうか。これが分かることが大切なのです。

 


◆主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。

2012年05月23日 08時02分18秒 | 聖書

(詩篇一三八・八)

詩篇の作者がここで明確に語っている信頼は、神に対する信頼である。彼は「私は自分のことは自分で完成するに十分な徳をもっており、私の信仰は堅固で揺るぐことなく、私の愛は温かくて決して冷えることなく、決心は強固で何ものにも動じない」と言わなかった。否、むしろ彼は、主にのみ信頼を置いたのである。
もし私たちが千歳の岩以外のものに信頼を置くならば、私たちの信頼は夢よりもはかなく、それはいつかは私たちの上に崩れかかり、破滅をもっておおい、悲哀と困惑とをもたらすだろう。自然が紡ぐすべてのものは、時によってほどかれ、それを着ているすべての者を永遠の混乱に陥れる。
詩篇作者は賢明であった。主のみわざ以外の何ものにもより頼むことをしなかった。私たちのうちによいわざを始められたのは主であり、それを継続されるのも主である。主がもし中止なされば、それは尻切れとんぼで終わらなければならない。しかし私たちは、主が始められたわざを全うされることを確信する。主は今までにもすべてをなされた。現在でもそうである。将来においても、すべてを成し遂げられるであろう。
私たちの信仰は、私たちがなしたこと、なそうと決心したことにあるのではなく、主がなされることにかかっている。不信仰が忍び込んで「あなたは決して立っていることはできない。あなたの心の中にある悪を見よ。あなたは決して罪に勝てない。あなたをとりまく罪深い快楽とこの世の誘惑を思え。あなたはそれらに誘われ、迷わされるだろう」と言う。もし私たちが自らの力によりかかるならば滅びるほかはない。またもし一人で荒海を小舟で航海しなければならないとすれば、絶望に陥って航行を断念してしまうであろう。しかし、主は私たちのためにみこころを成し遂げられ、私たちの望む港へ連れて行ってくださる。私たちがただ主にのみ信頼する時、信じすぎるということは決してなく、またそのような信頼に対し、どんなに関心をもとうと、もちすぎるということはない。