座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

レビ記14章19-32節

2012年05月22日 07時11分15秒 | 聖書

14:21 「その者が貧しくて、それを手に入れることができないなら、自分を贖う奉献物とするために、雄の子羊一頭を罪過のためのいけにえとして取り、また穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の一エパと油一ログを取り、
14:22 また、手に入れることのできる山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取らなければならない。その一羽は罪のためのいけにえ、他の一羽は全焼のいけにえとする。」
  ここでは、汚れを清める儀式がなされる時の、貧しい人々に対する配慮が語られています。
その人は、全焼の生け贄として献げられるべき小羊に換えて、山鳩か家鳩を献げることが許されています。
こうすることによって、その負担を減らされているのです。
 ところで、よく見ますと、罪のための生け贄のことでは、その負担は全く変わりません。双方共に、小羊を献げることが求められています。
これは、罪とその赦しということでは、貧しくても、あるいは豊かであっても、その深さは同じであるからです。
同じように、その赦しと清めを必要とするからです。
ですから、赦しの為には、同じ犠牲の供え物が求められるのです。
罪の値に、差はないのです。


レビ記14章10-18節

2012年05月22日 07時09分37秒 | 聖書

14:10 「八日目に彼は、傷のない雄の子羊二頭と傷のない一歳の雌の子羊一頭と、穀物のささげ物としての油を混ぜた小麦粉十分の三エパと、油一ログとを持って来る。」


  次は、その人が8日目にすべきことです。

幕屋の聖所で、犠牲を献げる儀式を行うことが、求められます。

その時に持ってくるものは、雄の小羊2頭、雌の小羊一頭、油を混ぜた小麦粉と油です。

  まず成されることは、罪の赦しの為の犠牲として、雄羊を献げます。

その時に、殺した羊の血を、右の耳たぶと親指と、足の親指につけます。

又、油も同じ所に塗ります。

 こうして、彼のために献げられた、罪の赦しを求める犠牲が支払われたことによって、彼の全身が、神の前に清められることが示されます。

  次に献げる物は、全焼の生け贄です。

これは、神様に対する自分の献身の思いを表すものです。

又、油を同じように塗ります。

そのことによって、自分が清められた者として、全身をあげて神に感謝し、仕える者となることを証するのです。

汚れが清められるためには犠牲が必要ですし、清められた者は、喜んで神にお仕えするのです。


◆子どもを愛するとはどういうことか

2012年05月22日 06時57分43秒 | 聖書

むちを控える者はその子を憎む者である。
子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。(箴言一三24)

ほんとうに子どもを愛する親は、正しいことは正しい、悪いことは悪いとはっきりけじめをつけ、ぴしぴしとしつけるでしょう。権威をもって、教え導いていくと思います。
昔の親には、それがあったように感じます。食べる物も乏しく、着る物も粗末、情報・知識・教養も、今ほどありませんでした。しかし昔の親は、子どもはこうあってほしい、こうあるべきだというものを、ちゃんと知っていました。権威をもって子どもを叱り、しつけられる親だったように思います。
ところが、今の親はどうでしょうか。食べ物は余るほどあります。着る物もぜいたくです。自動車・冷蔵庫・ピアノなど何でもそろっていて、知識・教養も豊かです。しかし、子どもが叱れません。子どもの顔色をうかがい、子どもに追従していきます。権威がなくて子どもになめられ、軽蔑されている親が多いのではないでしょうか。
どうしたら、ほんものの権威をもって、子どもをしっかり育てられるような親になれるのでしょうか。
第一に、子どもを私物化しないことです。子どもをつくるなんてよくいいますが、子どもは神からの大切な預かり物だと、徹底的に分からなければなりません。エゴのない私心のない心から、権威は生まれるのです。どんなに知識や情報に通じていても、神を知らず神を恐れないで、ただ子どもを私物化する親には、権威が備わるはずがありません。
第二に、自分のエゴイズム・見え・都合でなしに、真実の愛を心の底に持つことです。神から預かった子どもを心から尊ぶことができ、おろそかにしない愛は、やはり神から出るのです。

 


◆(主は)彼らをまっすぐな道に導き……。

2012年05月22日 06時55分16秒 | 聖書

(詩篇一〇七・七)

あまりに身の上の変化が激しいと、苦労性の信者は「なぜ私だけがこうなのだろう」と言う。光を求めたのに、見よ、暗やみがやって来た。平和を求めたのに、困難がやって来た。私は心の中で言った。「私の山は堅く立って、決して動かされることはない」と。しかし「主よ。……あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていました。」昨日、私は神の子どもであると堅く信じることができた。しかし今日になってみると、その確信は弱まり、その希望はかすんできた。昨日、ピスガの頂に登って前途を展望し、受け継ぐ御国を確信して喜ぶことができた。ところが今日は、たましいに望みなく、喜びなく、恐れは多く、悩みはひどくなった。
これは私に対する神のご計画の一部だろうか。神が私を天国に導かれる道だろうか。たしかにそうである。あなたの信仰が光を失い、心が暗くなり希望がかすむのは、すべて神が、将来あなたの受け継ぐべき大いなる資産を備えられるためである。これらの試練は、あなたの信仰を試み、強めるためである。これらは、あなたを岩の上に運んで行く波であり、またあなたの船を早く目ざす港に吹き送る順風である。ダビデのことばを借りれば、あなたについても「主は、彼らをその望む港に導かれた」と言い得るのである。
名誉、恥辱、賞賛、ひぼう、富、貧困、それらはすべてあなたのたましいのいのちを支え、あなたの前進を助ける手段である。おお、主にある友よ。あなたの悲哀が神のご計画の外にあるものと思ってはならない。それはご計画の重要な部分である。「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」だから、「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思う」ことを学ぶべきである。
 ああ、私の動揺するたましいを静めてください
 あなたのさとく聖いみこころを
 待ち望ませてください
 主よ。あなたの目的を知ることはできませんが
 あなたは万物の支配者であられるゆえに
 すべてがよいのです