13:30 「祭司はその患部を調べる。もしそれが皮膚よりも深く見え、そこに細い黄色の毛がるなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。これはかいせんで、頭またはひげのらい病である。」
ここでは、疥癬(かいせん)の問題について語っています。
疥癬というのは、虫によって起こされる皮膚病の事です。
頭などに出来て、髪の毛を白くします。
この他に「しらくも」というような病気もあって、細菌によって起こされる頭の毛の病気ですが、これも髪の毛を白くします。
このようなことが頭に起こって、髪の毛が白くなりますと、重い皮膚病ではないかと心配が起こります。
そこで祭司は、それが何であるのかという、判断が求められるのです。
なかなか判明しない場合には、1週間あるいは2週間の隔離をして、その症状を調べることが求められます。
患部が広がっていたり、又、皮膚よりも深く沈んでいたりすると、それは重い皮膚病の可能性があるので、注意をして調べるのです。
このようにして調べられる理由は、重い皮膚病の場合には、大変なことになるからです。
正しい者の光は輝き、
悪者のともしびは消える。 (箴言一三9)
「正直者はばかを見る。」「正しくやっていたのでは成り立たない。」これが、現代人の考え・生活哲学ではないでしょうか。
しかし、神はすべてを見ておられます。やがて正しくさばかれる時、正しい者には必ず報いてくださいます。これが、聖書の教えです。そして聖書は、「不正直はその場かぎりだ」と言うのです。小さなともしびが初めは明るくともっていたのに、だんだん小さな火になり、やがて消えてしまう、そのようなものだと言うのです。
私の子どものころ、私の町によく見世物小屋がかかりました。「親の因果が子に報い、首が二つ、手が四本、あわれなお化け娘でござーい。」そんな口上で、人々を呼びこんだわけでした。入ってみると、全くのいんちきです。こんな見世物小屋は祭りの間だけで、長く営業はできません。だれも、二度と見に行く人はありません。それと同じように、不正直なごまかしはその場かぎりです。やがて、人の前でもだめになり、もちろん、神の前にはさばかれるのです。
ビリー・グラハム博士にお会いした時、グラハム博士が、私の上着のえりに銀色のバッジをつけてくれました。それには、「トライ・ゴッド(神を試してみよ)」と書いてありました。それは、神の言うことに誤りはない。あなたの生涯をかけて、神の言われることが正しいか、それとも世の中の人の言うことが正しいかを試してみよというチャレンジのことばだったのです。
私たちは、安易な道をとらず、神の示す正しい道に従い、いわば神を試してみる勇気を持つべきです。そのように勇気をもって神に従う時に、その人生は輝き、いよいよ輝きを増していくのです。
(使徒一三・三九欄外注)
キリストを信じる者はただちに義と認められる。信仰はだんだんに義の実を結んでいくのではなく、今、実を結ぶのである。義認は信仰の結果であるから、たましいがキリストに近づき、キリストをすべてのすべてとして受け入れた瞬間に与えられる。神の御座の前に立つ者は、今、義と認められているのであろうか。そうだ。そして私たちも同様に義と認められている。
私たちは、白い衣をつけて歩み、天上のたてごとに合わせて美しい賛美を歌う彼らと同様に、真実に、また明白に義と認められている。十字架上の犯罪人は、信仰の目をイエスに向けた瞬間に義と認められた。そして長年伝道のために辛苦の生涯を送った老パウロでも、何の奉仕もしなかった犯罪人以上に義とは認められなかった。
私たちは、今日愛する御子によって受け入れられ、今日罪を赦され、今日神の法廷から無罪放免されているのである。ああ、心の躍る喜びではないか。エシュコルのぶどうの木には、私たちが天国に入るまでは取ることのできないふさがある。しかしこの恵みは、塀を越えて外に出ている枝である。これは、私たちがヨルダンを越えなければ食べることのできない穀物ではなく、荒野の中のマナであり、あちこちと旅をする私たちに神が与えてくださった食物である。
私たちは、今という今、罪を赦され、今、罪を取り去られ、今、これまで一度も罪を犯したことがないのと同じ状態で受け入れられている。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」神の書の中には、神の民を断罪する罪は今は少しもない。
あえて神の民を告発しようとする者はだれか。義とされて神の民となった以上はだれであっても、全地のさばき主の前に一点のしみもしわもない。この今の特権が、私たちを今の義務に目覚めさせてくださるように! この世に私たちが生きている限り、自分の生涯を愛する主のために使い果たそうではないか。