座間コミニティー

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レビ記15章19-24節

2012年05月29日 11時48分10秒 | 聖書

15:19 「女に漏出があって、その漏出物がからだからの血であるならば、彼女は七日間、月のさわりの状態になる。だれでも彼女に触れる者は、夕方まで汚れる。」
  次に語られているのは、女性の漏出の場合です。
この場合は、漏出と言うよりは、出血ということです。
 まず、ここでは、その女性の生理の時のことが語られています。
月経が始まったならば、7日間の間、汚れた者とされるといっています。
その彼女に触れる者のみではなくて、彼女の衣服や床、そして彼女が触れた所の物に触れた人も皆、汚れることを語っています。
又その月経の間に、彼女と交わった男性も同じように汚れることを告げています。
これは、その出血の時の女性を守るために、このように言われているのです。
 このような人々は皆、その日の夕方まで汚れた者とされます。
ですから、皆その汚れから清められるために、身体、あるいは衣服などを、洗う必要があることを命じています。
血の重要性から、出血ということが汚れとして問われるのです。
主は何時も、主の前に清い者であることが求められるので、このことが命じられるのです。


◆人  間  の  愛

2012年05月29日 11時37分53秒 | 聖書

貧しい者はその隣人にさえ憎まれるが、
富む者を愛する人は多い。     (箴言一四20)

前にも申し上げたことですが、現代ほど、「愛」ということばが氾濫している時代はないでしょう。しかし、現代ほど、愛のない時代はないのかもしれません。都会の片すみで、数かぎりない人が、自分が見忘れられ顧みられないことを寂しく感じています。けたたましく忙しい一日の活動の後にベッドに横たわる時、人々は、しみじみそれを感じるのです。
どこかが狂っています。どこかに間違いがあります。何がおかしいのでしょう。
家庭での愛情はひとまず置くとして、一歩外に出ると、人間の愛は、相手の利用価値に動かされています。相手に利用価値があれば愛し、そうでないと見向きもしないのです。富んでいる人のまわりには人が群がり、みな心のこもったようないいことを言います。貧しい人のまわりには、だれも集まりません。だれも、慰めも励ましも愛のことばもかけません。いや、それどころか、意地悪する人もあります。人が悩んでいたり苦しんでいるのを、ひそかに喜ぶ者すらいるのです。
家庭の中の愛だけは、無条件のほんとうの愛でしょうか。いつの間にか、ここでもやはり、自分で利用できるもの・自分の役に立つもの・自分の名誉や喜びになるものだけが愛され、そうでないものはポイと捨てられています。ですから、いま家庭の中で、夫婦の間・親子の間でさえ、争いの絶えない冷たい家庭が増えているのです。
ほんとうの愛とは、無条件で相手を受け入れ、相手の喜びを喜びとし、相手の悲しみを悲しみとする愛です。そんなほんものの愛は、神にあるのです。富める者も貧しい者も無条件で愛し、一人一人の最善を願うばかりか、それを備えてくださいます。そんな神の愛を知って、初めて私たちの愛もほんものに近づいていきます。

 


◆あなたは……悪を憎んだ。

2012年05月29日 11時36分15秒 | 聖書

(詩篇四五・七)

「怒っても、罪を犯してはなりません。」もし人が罪を怒らないとすれば、その人の中に善があるとは思えない。真理を愛する者は、一切の偽りを憎むはずである。私たちの主イエスは、誘惑が襲ってきた時、どれほどそれを憎まれたことであろう。それは三度手を変えて襲ったが、主は「引き下がれ、サタン」とのことばをもって撃退された。主は他人の中にある罪を憎み、叱責のことばよりはさらに熱烈なあわれみの涙をもって、罪に対する憎しみを示された。
しかし、主の次のみことばほど、エリヤを思わせるような激しさをもつものはない。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、やもめたちの家を食いつぶしていながら、見えのために長い祈りをするからです。」主はこの上なく悪を憎まれ、悪に致命傷を与えるためにご自身の血を流し、悪が死ぬためにご自身が死に、悪をご自身の墓に葬るために葬られ、永久に悪を御足の下に踏みにじるためによみがえられた。キリストは福音の中におられ、福音はあらゆる悪に反対する。悪は美服をまとい、聖いことばをまねる。しかし、イエスの教えは、有名な宮潔めの縄のむちのように、悪を宮から追い出し、それが主のからだである教会の中に存在するのを黙認されない。それゆえ、イエスの支配下にある心の中では、キリストとサタンのなんと激しい戦いがあることだろう。
さらに、私たちの贖い主がさばき主としておいでになる時には、「のろわれた者ども。わたしから離れよ」との雷のようなみことばが――これは主のご生涯を通じての罪に関する教えの延長にすぎないものだが――罪に対する主の憎しみを表すことだろう。主は罪人に対して温かい愛をもたれるだけに、罪に対しては燃えるような憎しみをもたれるのである。主の義が完全であられるだけに、あらゆる種類の悪を残らず破壊される。
ああ、栄光ある正義の闘士、悪の破壊者よ。それゆえ神、すなわちあなたの神は、あなたの友にまさって喜びの油を多く注がれたのである。