座間コミニティー

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レビ記13章18-23節

2012年05月13日 09時26分20秒 | 聖書

13:23 「もしその光る斑点がもとのままであり、広がっていなければ、それはただ、できもののあとである。祭司は彼をきよいと宣言する。」
  腫れ物が出来た時、そこに白い色を帯びた斑点が出来、また患部の周りの毛が白く変わり、皮膚の深くまで病状が及んでいるのであれば、それは重い皮膚病と判断されることを伝えています。
 しかし、その皮膚病が進行しないで、色も薄くなってくるようであったら、祭司はその人を7日間隔離をしてその様子を見、7日目に詳しく検査をして、患部が広がっていないようであれば、重い皮膚病ではないと判断されて、「汚れた者ではない」と宣言されます。  通常、重い皮膚病の場合は、このような変化、つまり、病状が軽くなるとかあるいは収まるということが、あまりありません。
ですから、こうした状況が見受けられた時に、これは単なる皮膚病であるということから、ここでその人は清い者と宣言されることを語っているのです。
 この病は、判断が重大な結果を及ぼしますので、検査が慎重にされ、7日間の猶予が取られるのです。


◆勤勉な者の心

2012年05月13日 09時10分47秒 | 聖書

なまけ者は欲を起こしても心に何もない。
しかし勤勉な者の心は満たされる。(箴言一三4)

私たちはみな、「○○したい」という大きな願いを持っているのではないでしょうか。新年には、テレビで有名人・政治家・芸能人などが、この年の抱負を語っているのをたくさん見ました。みんな大きな抱負がありました。
しかし、あるところでこんな文を読みました。「私たちには、○○したいが多すぎる。これが○○するんだに変わらなければならない。たいがだに言い直された時から、ほんとうの人生が始まる。」考えさせられることばでした。
多くの人が自分の人生を変えたいと思い、変わりたいと願っています。しかし、聖書の言う「なまけ者」は、○○したいと願っても、一向に何も決断しないし実行しない人です。ですから、いつも心は、昔どおりにむなしいのです。ところが、聖書の言う「勤勉な者」は、このたいをだに変える人なのです。私は○○するのだと決断し、一歩踏み出して実行します。そして、実行し続けるのです。そんな人の心は祝福され、充実しているというのです。
私たちはだれでも一人残らず、高い人格・きよいもの・愛・親切・思いやりをいいなあと思います。すべての人の心に基本的に、「そのようになりたい」という心があるのです。自分勝手なずるい悪い人をすばらしいなどとは、けっして思いません。しかし、そのようなすばらしいものは、すべて神の中にあります。ですから私たち人間は、意識的にしても無意識的にしても、神を求めているといえるでしょう。
そんな気持ちを、ただの○○したいというレベルから、○○するんだに変え、神に向かって一歩踏み出していただきたいと思います。その時に、心の充足があるのではないでしょうか。

 


◆夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

2012年05月13日 09時09分07秒 | 聖書

(詩篇三〇・五)

主にある友よ。もしあなたが試練の夜にあるならば、夜明けのことを考えよ。主が来られることを思い、あなたの心を奮起させよ。忍耐強くあれ。「見よ、彼が、雲に乗って来られる」からである。忍耐せよ。農夫である主は刈り入れの時を待っておられる。忍耐せよ。あなたは「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る」と言われたのがだれであるかを知っているからだ。もしあなたが、現在ほど不幸な境遇に置かれたことはないとしても、次のことばを覚えよ。
「太陽があと幾たびか出、また没するなら、あなたは美しいカナンの岸に着くだろう。」
あなたが現在、困難のいばらの冠をいただいているとも、遠からず星のように輝く冠をいただく。あなたの手は心配でいっぱいかもしれない。しかしやがて、その手で、天上にあってたてごとを奏でる。あなたの衣は、今はちりにまみれているかもしれない。しかしそのうちにそれは純白になるのだ。しばらく待て、私たちが困難や試練を後ろに顧みる時、それはなんと小さく見えることか。ところが前途に見る時、それは測り知れないほど大きく見える。しかし天国に行けば、
 私たちは喜びにあふれつつ
 足もとの勤労を追憶する
その時、私たちの試練は、わずかの間の苦しみであったことがわかる。いかに夜が暗くても必ず朝が来る。それは、地獄の暗やみに閉じ込められている者には想像も及ばぬ、すばらしい朝である。あなたは、将来に生き、希望に生き、天国を期待しつつ暮らすことがどのようなものであるかを知っているか。このような確実で慰めに満ちた希望をもつ信徒は幸いである。
今はまっ暗であるかもしれない。しかしまもなく光が来る。今は試練のみであるかもしれない。しかしすぐ身に余る幸福がおし寄せてくる。「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」なら、今受けるしばらくの軽い患難は何ほどのことがあろう。