「種を蒔く人」
マタイによる福音書13章1~9、18~23節 によるひとつの黙想
ここに書かれている種蒔きは、どうやら、日本のようなやり方ではありません。
種を蒔き散らして、その後から耕す、という方法をとっていました。それで、蒔か
れた種は、最初は、道ばたや、石だらけで土の少ないところ、あるいは茨の間、そ
ういうところにも落ちたのです。ここで、「種」とは何かということですが、「御
国の言葉」だと言われています。主イエスが話された言葉のこと、または、主イエ
スの言葉だけでなく、主イエスのわざを通しても、種はもう蒔かれている、という
ことだと言ってもよいと思います。
ここで語られていることの中に、今の自分自身の、信じる気持ちがあやふやなの
を見て、不甲斐ない姿を読みとることができるし、まだまだ、自分はダメだなとも、
読むのではないでしょうか。しかし、主イエスがこのたとえ話によって私たちに語
ろうとしていることは、そのように、あなたはまだまだダメだ、ということなのだ
ろうか。人間には4種類あって、道端と、石だらけのところと、茨の間と、良い土
地だ、さあ、あなたはその中のどれに当るのか、自分を振り返ってみなさいと、主
は言っているのだろうか。
しかし主イエスは、この話を、そのようには言ってないと思います。なぜかと言
えば、「近寄った」弟子たちに「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許され
ている」とあるからです。たとえでは「御言葉を聞いて悟る人」「良い土地」であ
るということです。さらに、「あなたがたの目は見ているから幸いだ」とも。
「がんばって良い土地になりなさい」と言っておられるのではないのです。あな
たがたは群衆ではない。百倍の実を結ぶ良い地である、というのです。
いったい、主イエスは何故、最初の三つの土地の話をお語りになったのでしょう
か。ここが大事。最初の三つの土地も、やはり実は、私たちの姿なのです。しかし、
神はそこにこそ常に御言葉の「種」を、蒔き続けていてくださっているのだ、とい
うことなのです。神は、どこにも蒔き続ける。そのわけは、神が私たちを、何とか
して、御言葉の種が育ち、実を結ぶ良い土地にしようと、情熱を傾けていてくださ
るからです。神の情熱と犠牲の頂点は、イエス・キリストであり、十字架の死です。
神は、このような一見、無駄なような犠牲を払ってさえ、私たちを、良い土地とし
ようとしてくださっているのです。
「信仰の道作り」
教会のすぐ横を「大山道」が通っていることから、興味が出て、「ホントに歩く
大山街道」という本を買いました。残念ながら、これは「赤坂御門」からスタート
する、ほぼ国道246を行くルートでありました。私が期待したのは、もちろん、
和泉町を通る「大山道」でした。「大山道」というのは、江戸時代に盛んになった
大山参りのための道で、県内にはいくつかの道筋がありますが、その1本が、東海
道の戸塚で分岐する「柏尾通り大山道」で、和泉町内を通っているのです。教会の
横を、江戸から出た人々が、大山に向かって参拝のために行き来したのです。
欲しかった本ではなかったと言いましたが、認識を新たにしたことがありました。
この本にある「大山街道」は、246号線と重なっている道を指していましたが、
ということは… 私がかつてお仕えていたさがみ野教会の横を通っていた旧道の2
46号線。まさにそれが「大山街道」でした。ああ、あの道がそうだったのか、今
さらながら、思いを新たにした次第です。座間にいても、和泉町に来ても、教会の
すぐ横を大山道が通っている。大山道は、そんなに何本もあるのかと言えば、どこ
に行ってもあるものでもない。それが、たまたま両方にある、というのは、そこで
「信仰の道」ということを考えないわけにはいかなくなるわけです。
私が、なぜ大山道とか、大山街道に関心や興味を持ったかと言えば、それが信仰
の道、庶民の道だからです。何本もルートができたくらい、それは、庶民の信仰の
道でした。私は牧師として一つの町にとどまり、そこで伝道する者ですが、こうし
て信仰の道を作る生き方があったことに、いろいろと考えさせられるのです。「点」
を「線」にする生き方、さらには「面」にもしていく生き方があり、しかも信徒が
そういう道を作るのです。
なるほど、キリスト者は礼拝への道を作っています。彼らの言葉で言えば、それ
は「お参りの道」「巡礼の道」というのでしょうか。はたして、そういう道作りが
あるのです。であれば、それが後世にも続くような「お参りの道」になっているだ
ろうか。自分の都合であっちこっち、うろうろするような道にしてしまっていない
だろうか…。大山道は、なにやら大事なことを訴えている気がします。
ケンタッキー・フライドチキンのお店に立っている人形ですが、あれは、あのお
店の創業者でカーネル・サンダースと言う人です。彼は、一代で小さな店を世界の
ケンタッキー・フライドチキンにしたのですが、彼がフライドチキンの事業を始め
たのは、何と彼が軍隊を退役したあと、66歳の時だったそうです。普通なら老後を
のんびり過ごそう、と思う年齢だったわけです。
88歳で来日した時に、新聞記者が「いつまで働くのですか」と尋ねると「まだ頑
張ります。神さまは人間を造ったとき、定年を造ったわけではありません」と言っ
たそうです。そのくらい、働くことに意欲を持っていたのです。でも、ただ闇雲に
働くことに意欲的だったというのではありません。なぜ働くか、ということを彼は
考えていました。
彼は、確かに猛烈に働く事業家だったわけですが、しかしそれは、自分の収入を
増やして資産を大きくしたいとか、自分の名誉のために事業の拡大をしてきたので
はなかったのです。ただ、おいしいフライドチキンを多くの人に手頃な値段で食べ
てもらいたいという、純粋にそのことに賭けていたのです。
彼はクリスチャンでした。自分の生き方でキリストに従う生活を作ろう、という
クリスチャンだったのです。稼いだお金は、自分のふところにしまうのでなく、惜
しみなく、献金しました。おいしいチキンを人々にささげ、利益は神さまに献げる。
それが彼の喜びだったようです。
カーネルさんのように、意欲的に自分の人生と、この世に向き合うことができる
といいと思うのです。聖書は、「イエスは私たちのために命を捨ててくださいまし
た。そのことによって、私たちは愛を知りました」と言っています。神さまに愛さ
れている、ということがわかった時、それまで自分の内側しか見てこなかった人間
に、いわば爆発が起こるのです。神さまの愛に突き動かされるようになるのです。
その結果、カーネルさんのように事業をする人もいれば、主婦だったら、いつも前
向きになって家庭を築く人も出てくるのです。
神さまの愛に出会うと、あなたも、もう一つのドラマに生きることができるので
す。
皆様の祈りによって佐々木さんの行方が判明いたしました。
現在神奈川県の厚木市の病院に入院しています。
来週中に退院ができるみこみです。
改めて皆様の祈りが神様に聞かれたものですありがとうございました。
11:46 「以上が動物と鳥、また水の中をうごめくすべての生き物と、地に群生するすべての生き物についてのおしえであり、
11:47 それで、汚れたものときよいもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とが区別される。」
今までの教えのことを語って、ここで、これらが主の求めであるので、その戒めを良く知って、それを守るようにと勧めています。
その生き物のことを語ることによって、主の前に汚れたものと清いものが何であり、また主の前に食べて良いものと食べてはならないものが何であるのかということを、知ることができるように伝えた、と申しています。
しかし、こうした戒めをすべて、人が覚えているわけではありません。
ですから、主によって立てられた祭司が、この戒めをよく学んで、それを主の民に教える必要があるのです。
祭司の勤めは、主の御心を伝えることにもあるのです。
また、民の義務は、その教えに従って生きることにあります。
同じように、教会の牧者はみ言葉を誤りなく伝えることが、その勤めです。
そして、主の民はその主の教えを聞いて、従って生きることが、大事なのです。
愚か者は自分の道を正しいと思う。
しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。(箴言一二15)
これは、洋の東西を問わず、昔も今もいわれてきた真理ではないでしょうか。他人の忠告を聞き入れることは、地位や立場が高くなるとなかなか大変なことです。痛いことを言われると、怒ったり、だまりこんだり、挫折感に沈んだり、忠告してくれた人を離れてしまったりすることも起こりがちです。私たちは、口ではもちろんそう言わず、心でも認めないものですが、「自分が正しい」と思いこみやすいものです。
私の身近に、とても気がつき、世話をやく、また、それだけの実力のある頭の切れる人がいました。しかしその人は、どうしても「自分が正しい」という態度から抜けられません。ですから、いつもヒステリーを起こし、結局は、人に敬遠されていました。そういう姿からも反省させられます。
聖書は、「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ三10)とはっきり言っています。神殿へ行って、「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」(ルカ一八11―12)と祈ったパリサイ人がいました。キリストは、その人のことを悲しまれ、きらわれ、「自分を高くする者は低くされる」と言われました。
神が自分を見てくださるとおりを受け入れている人こそ、人の忠告を受け入れられる人ではないでしょうか。上からすべてのものを公平に見ていてくださり、しかも、この私を愛し、この私の最善を計画していてくださる造り主なる神がいらっしゃいます。神のことばである聖書に照らして神を知ると同時に自分自身を知る時、人の忠告を受け入れつつ、柔軟で賢い平和をつくり出す生き方をすることができると思うのです。
(マタイ一二・一五)
なんと多くの恐ろしい病人がイエスの目に映ったことだろう。しかし主が彼らを拒否することなく、忍耐深く一人一人の面倒を見られたことを、この記事を読んで知る。その足もとには、千差万別の症状の者がいた。うみの出ている腫瘍もあった。しかし主は、どんな新しい型の悪化した病にも常に備えられ、あらゆる難病にも打ち勝たれた。どの方向から火の矢が飛んで来ても、その激しい炎を消された。熱病の暑さ、水腫の寒さ、中風のものうさ、眼病の暗さも――それらはすべて主のみことばの力を知っており、主がお命じになると逃げ出した。主はその戦場のあらゆる場所において、悪に対して勝利を得、救い出した囚人の忠誠の誓いを受けられた。主は来て、ご覧になり、至る所で勝利を得られた。
今朝もまたそうである、私の容態がどうであろうと、愛する医者は私をいやすことができる。また、今私が祈りの中に覚えている他の人の病状も、それがどんなものであっても、イエスは必ずその罪の病をいやすことができると確信する。主のいやしの力を思い出す時、私の子ども、友人、愛する者のすべてに、希望をもつことができる。私自身のことにしても、私の罪と、弱さとの戦いがいかに激しくても、依然として勇気を奮い起こすことができる。地上におられた時、病人を訪ねていやされた主は、今もなおその恵みを分かち与え、人の子たちの中で奇蹟を行っておられる。ただちに心を定めてイエスのみもとに行こうではないか。
今朝イエスがどのようにしてたましいの病をいやし、人々に知られるようになられたかを考え、主を賛美しよう。それは私たちの病をご自身の身に負うことによってであった。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」のである。地上の教会は、この愛する医者にいやされたたましいで満ちている。そして天に住む者たちも「彼らをみないやされた」と告白する。それゆえ、私のたましいよ。主の恵みの徳を世に語り伝えよ。「これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」