座間コミニティー

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レビ記15章13-15節

2012年05月27日 07時46分02秒 | 聖書

15:15 「祭司はそれを、一羽を罪のためのいけにえとして、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげ、祭司はその漏出物のために、主の前でその者のために贖いをする。」
  この漏出に寄る病の結果、汚れた者とされた人は、その病が癒された時には、清い者として扱われて、礼拝に出ることが出来るようにされます。
しかし、そのためには儀式的な行為が行われて、その清めの業が正当に成されなければならないことを命じられています。
そうしなければ、神の前に清い者と認められないのです。
 その人がなすべき事は、まず、7日目に自分の着ている服を洗い、身体を洗うことです。そして、8日目に、山鳩か家鳩を2羽とって、祭司の所に持って行きます。
祭司はそれを受け取って、1羽は罪の赦しを求めるための犠牲の供え物として献げ、もう1羽は神様への献身の思いを示す全焼に生け贄として献げるようにすることです。
こうして彼は、この漏出の汚れから清められた者として、正式に宣言されるのです。
 この時の献げ物が鳩であるということは、その病が個人的なものであるということに関係があるようです。


◆自  己  満  足

2012年05月27日 07時36分04秒 | 聖書

心の堕落している者は自分の道に甘んじる。
善良な人は彼から離れる。     (箴言一四14)

昔、『転落の詩集』という小説を読んだことがあります。転落・堕落が、どんなに人生の奥深い実存的問題であるかを考えさせられました。堕落というと、飲む打つ買うの道楽の末、どうしようもない人間になってしまうようなことだと考えやすいものです。ところが聖書は、「堕落とは、自分の道に甘んじること」だと言うのです。自分の姿に甘んじて、これでいいんだ、人生はこんなものなのだと思ってしまう甘え。――ここに堕落があり、人生の進歩の終わりがあるのです。
まず第一は、欲望第一主義というか、お酒を飲んだり、いろいろ楽しくやれば、それが人生だと、そのように甘んじてしまう人です。こういう人々は、高速道路をブレーキのきかない車で走っているようなもので、大きな失敗が待っています。
第二は、自己中心・自分第一主義で、人はどうなっても自分が第一、一番大切と甘んじてしまう人です。こんなエゴイズムをエゴイズムと分かれば、だれもそれでいいと思う人はいないでしょう。自分の中に、こんな自分第一主義が根強くひそんで自分の人生をあやつっていることに気づいて、愕然とすればいいのです。しかし、人生みんなそんなものさ、世間とはそんなものさと甘え、甘んじ、甘く見、自己満足にとどまるなら、これは危険です。人生は、転落の坂をころげています。まるで、ライトなしに夜の高速道路を走るようなものです。室内灯はついているので、自分だけ明るいと高をくくっています。
イエス・キリストは自分を捨て、私たちの喜びのために、いのちを捨ててくださいました。自己満足や自己充足でなく、私たちの喜びのために生き、死んでくださったイエス・キリストを見いだしてください。このお方こそ、真の喜びと生きがいのある神に従う生活を私たちに与えてくださるのです。

 


◆メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。

2012年05月27日 07時34分38秒 | 聖書

彼は両足が共になえていた。(Ⅱサムエル九・一三)

メフィボシェテはダビデ王の食卓に列して、さほど光彩を添える存在ではなかったが、常にダビデ王のそばで食事をとっていた。それは王が、今は亡き親友ヨナタンの面影を彼に見たからである。
私たちも、メフィボシェテのように、栄光の王に向かって、「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか」と叫ぶ。それにもかかわらず、主なる神は、私たちと親しい交わりをもってくださる。神が愛する御子の面影を私たちの中に見られるからである。神の民は御子のおかげで大切にされている。父なる神はそのひとり子に対する愛のゆえに、ひとり子のいやしい兄弟たちを貧困と流刑の中から引き上げ、宮廷の交わりに入れ、高貴な身分を与え、王族としての備えをさせる。身体が不自由であるという事実もその特権を奪うこととならず、足がきかないという事実も子としての資格を妨げない。彼も、足の速いアサエルと同様世継ぎである。力量が足りなくても、私たちの権利に支障はない。
王の食卓は、このような者の尊い隠れ場である。福音のうたげにおいて、私たちは自分の弱さを誇ることを学ぶ。キリストの力が私たちの上にあるからである。
しかし極端な無能力は、最も愛された聖徒たちをも損なう。ダビデのうたげにあずかることのできるメフィボシェテは、王が都を逃げた時について行くことができず、しもべのツィバに訴えられた。このように信仰が弱く知識の足りない聖徒たちは、非常な弱点をもっている。多くの敵にさらされやすく、どこまでも王に従うことができない。この病はしばしばつまずき倒れることによって起こるものである。霊的幼児期における養育が悪かったため、回心者を失望させ、立ち上がれないようにすることがしばしばある。またある場合には、罪のために骨が砕かれることもある。
主よ。このような弱い者を助けて、雄鹿のように躍らせ、あなたの食卓のパンにより、あなたにつくすべての民を満たしてください。