佐々木珠記さんが4月24日から行方不明です。
55歳です。祈りの課題は、無事に元気に所在が確認できますように。
または、早く身元が確認されるように祈ってください。
現在携帯も不通でマンションにも居ません。
心配しています。
皆様のお祈りをお願いいたします。
佐々木珠記さんが4月24日から行方不明です。
55歳です。祈りの課題は、無事に元気に所在が確認できますように。
または、早く身元が確認されるように祈ってください。
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心配しています。
皆様のお祈りをお願いいたします。
11:9 「水の中にいるすべてのもののうちで、次のものをあなたがたは食べてもよい。すなわち、海でも川でも、水の中にいるもので、ひれとうろこを持つものはすべて、食べてもよい。」
この箇所で告げられている戒めは、魚のことです。
そこでは魚の中でも、ひれとうろこをを持つものは食べてよいが、そうでないものは汚れたものであるので、食べてはならないと告げられています。
たとえば、ウナギなどは鱗がありませんので、主の前に忌むべきものとすることが語られています。
ですから、日本では昔からウナギは好まれましたが、イスラエルではそうしたものを食べることはしませんでした。
神様が天と地を造られたときに、すべてのものをよしとされました。
それなのに、なぜここで区分けをするのかと思うのです。
それは、アダムによって罪が人の内に入り込んできたのは、アダムが神の戒めに対して不服従であったことによったことでした。
サタンはイブに対して、戒めの理由を問うことによって、誘惑をしました。
この点が大事なのです。
神が定められた戒めに対して、理由を問わないで従う、これが服従なのです。
訓戒を愛する人は知識を愛する。
叱責を憎む者はまぬけ者だ。 (箴言一二1)
叱られるのはだれでもいやです。でも、不思議に叱られたことはなつかしくなります。叱ってくれる人が多くいて、その叱責を心を開いて受け入れる人こそ、成長していく人です。反対に、叱られると反発したりすねて受け入れない人は、伸びる可能性がありません。
ところで、人生で一番すばらしい叱責・訓戒は、神によるものではないでしょうか。神からの叱責・訓戒を、素直に受け入れる人は、いよいよ神の心に近づきます。神の用意しておられる恵みの道を深く踏み分けていき、大きな祝福を見いだす人です。
病とその孤独は、神の叱責と訓戒の時です。病気になって長い間仕事の前線から退くなら、社会から置き去りにされたような孤独を覚えます。人生は、落ち目になった時にほんとうの人の情けが分かるといいます。自分の弱さを見つめる時にこそ、神の変わらない条件なしの愛が、じわりじわりと分かってくるのではないでしょうか。人から忘れられた時も、じっと見守ってついていてくださる神の愛にしみじみと気がつきます。
また、失敗も、神の訓戒の一つです。私たちは、失敗を恐れます。私は、終戦後、国電高田馬場の階段で、つまずいて倒れたことがありました。すると、上からどんどん人に踏みつけられて、下敷きになってしまいました。失敗したり挫折したりすれば、人々がかまわず土足で自分を踏みつけていくのではないか、それでだめになってしまうという恐れが、人生にあります。今、ちょうどそんな感じを持っている人もいるかもしれません。しかし、けっしてそうではないのです。神の愛は、あなたの失敗をよいものに変えてくださり、必ず立ちあがらせてくださいます。
人の叱責を憎む者はまぬけ者です。しかし、神からの叱責と訓戒を拒否する者は、もっと重大なまぬけ者ではありませんか。
(雅歌五・一三)
見よ。花の月は来た! 三月の風、四月の春雨の後、地は一面に美しく装われた。さあ、私のたましいよ。晴れ着をつけて、みこころの花飾りを集めるために出て行け。おまえはどこへ行くべきか知っている。それは「香料の花壇」のありかをよく知っているからだ。さらにおまえは、「良いかおり」をしばしばかいでいるため、すぐにおまえの愛する方のもとへ行き、彼の中にすべての愛と喜びを見いだす。かつて彼の