座間コミニティー

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◆だれと歩くか

2012年05月21日 07時39分16秒 | 聖書

知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。
愚かな者の友となる者は害を受ける。(箴言一三20)

この人生は、だれといっしょに、どんな人と仲間になって歩くかによって大きく違ってくるのではないでしょうか。夫婦の場合などは、まさしくそうです。
私には、いま大学に行っている息子がいます。別に天才でも秀才でもないのですが、私が満足していることが一つあります。それは、よい友人を持っていることです。一人の友人は、週に一回、朝六時に彼の下宿に来てくれて、いっしょに聖書を読み祈ってくれます。もう一人の友人は、お互いにアルバイトが終わると駅で落ち合い、人生を語り聖書のことばを分かち合い、神のために何をなすべきかなどを語り合っているようです。
パウロは、テモテに向かって言いました。「若人よ。きよい心をもって主を呼び求める人と共に、義と信仰と愛と平和を追い求めよ」(Ⅱテモテ二22参照)。そして、友人の大切さは、若い人ばかりではなく、老人でも同じことです。
しかし、今そんな友人が一人もいない方もいらっしゃるでしょう。しかし、そのあなたの友となって、どんな時、どんなところでも、終わりまでいっしょに歩いてくださる方がいるのです。神です。全宇宙を造り、これを支配し、これを最後の目的へ向かって動かしておられる知恵あるお方が、あなたに興味を、いいえ愛を持ち、あなたに目を注ぎ、この人生をあなたといっしょに歩いてくださるというのです。
イエス・キリストは、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ二八20)と言われました。
悔い改め、神を信じて神の心と一つになって、神を友とさせていただいて歩む人生には、何というすばらしい知恵と祝福があることでしょうか。

 


◆あなたがたがもし主が恵み深い方であることを味わい知ったならば……。

2012年05月21日 07時37分13秒 | 聖書

(Ⅰペテロ二・三英訳)

「もし」とある以上、だれもが知っているというわけではない。「もし」とあるのは、ある人々は主が恵み深い方であることを味わい知っていないという可能性があることを意味する。「もし」であるから、これは一般的なあわれみではなく、特別なあわれみである。そこで内的経験において、神のあわれみを知っているかどうかを、自らに問う必要がある。霊的な恵みで、自ら顧みる必要のないものは何一つない。
このことを、熱心な祈りをもって探求しなければならないが、「主が恵み深い方であることを味わい知る」ことについて、「もし」といった程度で満足してはならない。熱心で、聖なる自己否定をしている信者の心中にも、時に疑いが頭をもたげるかもしれない。しかし、絶えずこのような疑いをもち続けるのは悪いことである。
私たちは死に物狂いの戦いにより、信仰の腕をもって救い主をとらえ、「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださる」と言い得るまで、決して心を安んじてはならない。主にある友よ。あなたが全くイエスに依存しているとの確信を得るまでは、心を安んじてはならない。間違うことのない聖霊があなたのたましいとともにあかしをされ、あなたが神の子であることが証明されるまでは、どのようなことがあっても満足してはならない。軽々しく考えてはいけない。「おそらく」「たぶん」「かもしれない」などと言って、あなたのたましいを満足させてはいけない。
永遠に変わることがない真理の上に家を建てよ。ダビデのように、確かな神のいつくしみを得よ。あなたのいかりを神殿の幕の内側につなげ。あなたのたましいが切れない鎖でそのいかりにつながれているようにせよ。にえきらない「もし」を越えて前進せよ。
疑惑と恐怖の荒野にとどまっていてはならない。不信仰のヨルダンを越え、平和のカナンに入れ。そこにはカナン人がいるが、不断に乳と蜜が流れている。