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◆この病気は死で終わるだけのものではなく……。

2016年08月17日 16時46分30秒 | 聖書
(ヨハネ一一・四)
 
主のみことばによって、病気には限度のあることがわかる。「死で終わるだけのものではない」とは、終局の限度が抑えられており、その限度を越えて進むことはできないという意味である。ラザロは死を通り抜けたであろう。しかし、死は彼の病気の終点ではなかった。すべての病気において、主は押し寄せる苦しみの波に対してこう言われる。「ここまで行ってもよい。しかし、これから先はいけない」と。主が定められた目的は、破壊ではなく、その民を教え導くことである。知恵は炉の口に温度計を備えて、温度を調節する。
一、制限は私たちの励ましとなるほどに、多くのことを含む。摂理の神は、私たちのすべての病気の期間、容態、強さ、反復、影響を制限しておられる。私たちの心臓の一つ一つの鼓動、眠れない時の時間は、あらかじめ定められており、私たちの病気の一進一退、力の衰えることもあらかじめ知られ、その結果としてもたらされる聖別も、永遠の昔から計画されている。どんなものでも、大小を問わず、私たちの頭の毛さえも数える神の御計画の御手からもれることはない。
二、この制限は、私たちの力、その目的、与えられる恵みを考慮して、思慮深く調整されている。患難は偶然にふりかかるのではない。一つ一つのむちの強さは、正確にはかられている。雲の重さをはかり、天の高さをはかるのに決して誤ることのないお方が、たましいに与える薬の調合を誤ることはない。私たちが必要以上に苦しみすぎたり、救い出される時機が遅れすぎることは決してない。
三、この制限は優しく定められている。天の外科医のメスは決して必要以上に切開しない。「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」母の心は叫ぶ。「私の子どもを助けてください」と。しかし、私たちの恵み深い神ほど愛に富む母親はいない。私たち自身がいかに強情であるかを考える時、追放されていないのがむしろ不思議である。
私たちの住まいの境界を定めた方が、患難の限界をも定められたことを思う時、慰めに満たされる。
 
 

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