悪者のたましいは悪事にあこがれ、
隣人をあわれもうとはしない。 (箴言二一10)
「悪者のたましいは悪事にあこがれ」というと、A銀行を襲ったギャングが、次にB銀行も襲って、早くももう一山当てようとしている姿を想像してしまいます。しかし、神を恐れず、神を神とも思わず、神のきよさと神の力、そして何よりも神の真実な愛を受けつけず、自分の仕事・成功・名声・出世ばかりを考えて生きる人の姿こそ、「悪者のたましいは悪事にあこがれ」といわれているのではないでしょうか。
イエス・キリストが話されたたとえ話に、「よいサマリヤ人のたとえ」があります。これは、当時「血の街道」といわれたエルサレム=エリコ街道で実際に起こった事件をもとにして話されたようです。
一人の旅人が途中で強盗どもに襲われて、身ぐるみはがれたばかりか、半殺しにされました。次の朝でしょうか。エルサレムの神殿に仕える宗教家の祭司とレビ人が通りかかりましたが、知らん顔で横を通りすぎました。しばらくすると反対側から、商売の品を家畜にいっぱい積んだサマリヤ人が来ました。サマリヤ人は、ユダヤ人からばかにされ、のけ者にされていたのです。旅人を見ると、かけよって、かがみこんで、惜しげもなく商売物のぶどう酒・オリーブ油・布などを使って介抱しました。自分の家畜にその人を乗せて宿屋に行き、元気になるまで、全部の費用を払って助けたのでした(ルカ一〇30―35参照)。
宗教家の祭司もレビ人も、お布施を持って神殿に来る人にはにこにこ顔でサービスしていたでしょう。しかし彼らは、自分の利得と体面だけを気にしていました。人のことなどは、ほんとうはどうでもよかったのです。
私たちは、人を人として扱い、あたたかい心で生きていくために、神を知り、神の愛を知り、神を神とすることから出発しなければなりません。
イエス・キリストが話されたたとえ話に、「よいサマリヤ人のたとえ」があります。これは、当時「血の街道」といわれたエルサレム=エリコ街道で実際に起こった事件をもとにして話されたようです。
一人の旅人が途中で強盗どもに襲われて、身ぐるみはがれたばかりか、半殺しにされました。次の朝でしょうか。エルサレムの神殿に仕える宗教家の祭司とレビ人が通りかかりましたが、知らん顔で横を通りすぎました。しばらくすると反対側から、商売の品を家畜にいっぱい積んだサマリヤ人が来ました。サマリヤ人は、ユダヤ人からばかにされ、のけ者にされていたのです。旅人を見ると、かけよって、かがみこんで、惜しげもなく商売物のぶどう酒・オリーブ油・布などを使って介抱しました。自分の家畜にその人を乗せて宿屋に行き、元気になるまで、全部の費用を払って助けたのでした(ルカ一〇30―35参照)。
宗教家の祭司もレビ人も、お布施を持って神殿に来る人にはにこにこ顔でサービスしていたでしょう。しかし彼らは、自分の利得と体面だけを気にしていました。人のことなどは、ほんとうはどうでもよかったのです。
私たちは、人を人として扱い、あたたかい心で生きていくために、神を知り、神の愛を知り、神を神とすることから出発しなければなりません。