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◆小羊が都のあかりだからである。

2016年08月03日 07時01分16秒 | 聖書
(黙示録二一・二三)
 
小羊が天のあかりであることを静かに考えよ。
聖書の中で、あかりは喜びの象徴である。天上にある聖徒たちの喜びはここにある。イエスは私たちを選び、愛し、贖い、きよめ、私たちに衣を着せ、私たちを守り、私たちに栄光を賜ったのである。私たちがこのような状態にあるのは、全く主イエスによる。救われた者たちにとって、これらの一つ一つを思うことはエシュコルの谷のぶどうのふさのように甘美だ。
あかりはまた美の源である。あかりがなくなると、美は失われる。サファイアのきらめく輝きもなく、真珠の穏やかな光もない。同様に、天上におけるすべての聖徒の美はイエスから来る。惑星のように、彼らは義の太陽の光を反射する。中央の宝玉から出る光によって生きる。もしイエスが隠れられるならば、彼らは死ななければならない。もしイエスの栄光がおおわれるならば、彼らの栄光も消滅しなければならない。
あかりはまた知識の象徴である。天国において私たちの知識は完成される。しかし、主ご自身がその源泉であられる。かつて不可解であった隠された摂理が明らかにわかるようになり、今私たちを惑わしているすべてのものが小羊のあかりに照らされて明白になる時が来る。ああ、そこにはなんという光景が展開され、どれほど愛なる神の栄光があがめられることであろう。
あかりはまた、明らかになることを意味する。あかりはものをはっきりさせる。この世にあって私たちがどうなってゆくか、まだ明らかではない。神の民は隠れた民である。しかし、キリストがその民を天に迎えられる時、愛の御手を彼らに触れて、ご自身の栄光の姿に変えてくださる。彼らは貧しく、みじめな者であったのに、これはまたなんたる変化であろうか。彼らは罪に汚れていた。しかし主の指に触れられて、彼らは太陽のように輝き、水晶のように透き通る。これらのことはみな、高められた小羊から来るのである。輝きのすべての中心、根源は主イエスである。
おお、王の王、主の主であられる方の御前に出て、その御光により御顔を仰ぐ時よ!
 
 

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