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◆主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、

2015年09月11日 16時22分01秒 | 聖書
あなたの義によって私を導いてください。(詩篇五・八)
 
この世がキリストの民に対して抱く敵意は、実に激しい。人々は他の人の欠点であれば、いくらでも許すが、主に従う者の罪は、ごく小さなものでも大げさにする。それをいたずらに嘆くのではなく、むしろそれを用いて、神の前に注意深く歩く特別な動機としたい。もし私たちが不注意な生活をするならば、世間の鋭い目はすぐにそれを見つけ、百枚もあるかと思われる舌で広め、尾ひれをつけて熱心に吹聴する。彼らは勝ち誇って叫ぶ。「ああ、こんなことだろうと思った。見ろ。このクリスチャンたちのやることを。彼らは一人残らず偽善者だ」と。こうしてキリストの大目的に大きな損害が加えられ、その御名が侮られることになる。
キリストの十字架自体、世の人のつまずきとなっている。十字架は、「ユダヤ人にとってはつまずき」である。すでに十分であるつまずきの上に、私たちがさらにつまずきを加えないようにしよう。「異邦人にとっては愚か」である。私たちの愚行によって、福音をあざけるこの世の知恵に、さらに乗ずるすきを与えないようにしよう。
私たちは自分のことについて、どれほど注意深くなければならないことだろう。私たちの良心をどれほど堅固なものにしなければならないだろう。敵は私たちの最上の行為さえ誤り伝え、行為を非難できない時は、私たちの動機に向かって攻撃を加える。バニヤンの『天路歴程』の中で、巡礼者は虚栄の市において容疑者として扱われた。私たちは、監視されているばかりでなく、敵の回し者は私たちが考えている以上に多い。スパイ網は、至る所に張り巡らされ、内にも外にもある。もし私たちが敵の手に陥るならば、狼のほうがむしろ彼らより寛大であり、悪霊のほうがまだ彼らよりあわれみをもつ。神に対しては不信仰であり、神の民を中傷する人々に、私たちの弱点が容認されることを期待することなど、およそ望み得ぬことである。
おお、主よ。敵が私たちをつまずかせないように、絶えず導いてください。
 
 

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