座間コミニティー

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◆愛は死のように強く……。

2014年10月13日 16時02分49秒 | 聖書

(雅歌八・六)

帝王を征服し、人類を滅ぼす死と同じように強い愛。これはだれの愛であろうか。これを主イエスに対する私の弱くあわれな、かろうじて生きている愛にあてはめると、皮肉に聞こえるだろう。私は主を愛している。そして主の恵みによって、主のために死ぬことすらできるかもしれない。しかし、私の愛そのものは、あざけりに耐えることはほとんどできない。まして残酷な死にはなおさらである。たしかにここに語られているのは、私の愛している主イエスの御愛である。
主の愛は、最も恐ろしい死よりも強かった。それは十字架の試練にすら耐えて勝利を得られたからである。それは長く続いた死の苦しみであった。しかし愛はその苦痛に耐え抜いた。恥ずべき死であった。しかし愛は恥をさげすんだ。刑罰の死であった。しかし愛は私たちの不義を負われた。捨てられた寂しい死であって、永遠の父も御顔を隠された。しかし愛はそののろいに耐え、すべての上に栄光を輝かせた。このような愛、このような死は、かつてないものであった。それは命がけの決闘であった。しかし愛は勝利を得たのである。
私の主よ。私は、あなたの愛が炉の炎のように私のうちに燃えるのを感じたいと切望してあえぎます。主よ。来てください。そして、私の霊の中に熱心をかき立ててください。
 なぜなら、主の深紅の血の一滴一滴は
 この私を生かすために流されたのだから
 おお、なにゆえに、なにゆえに
 主におささげする千のいのちをもたないのか
私はなぜ、死のように強い愛をもってイエスを愛せないと絶望するのであろう。主はそれに値する方であり、私もそれを望んでいる。殉教者はそのような愛を感じたが、私にも同じ血肉がある。では、なぜ私が感じないことがあろう。彼らは自らの弱さを嘆いていたが、その中から強くされた。恵みが彼らに、不屈の節操を与えた。私に対しても、それと同様の恵みがある。私のたましいを愛される主イエス様。今夜私の心に、そのような愛を、あなたの愛を注いでください。

 


「神を愛する人々…のためには、

2014年10月13日 16時01分57秒 | 聖書

神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)

ヨセフは兄達に売られ、一人見知らぬエジプトへ。
そこで主人の好意を得て、順調に仕えていると、突然、濡れ衣で監獄へ。
苦難の中、忠実に仕え模範囚に。
釈放かと思いきや、その道も断たれ、更なる忍耐の後出獄、やがて総理大臣に。
激しいアップダウンの、波瀾万丈の人生だ。
そこに一本貫き通ってるのが「万事益」であり、見えるのが、織りなす出来事すべてに働いておられる摂理の神だ。
この神のゆえに「すべての事について感謝」できる。
知人が教会二階の窓掃除で網戸を落とした。
うわっ!と思った瞬間「でも、神様感謝します!」と信仰を神に向けた。
隣は葬儀社で、下はその駐車場、下をのぞき見ると、何とその落ちた場所だけ車が無い。
隣はベンツだった。
ある婦人は、家庭集会最中に子供の叫び声。
行くとトイレから水が溢れ大洪水。幼児が積み木を便器に入れていたのを、知らずに流したのだ。
落ち着き「神様感謝します」と処理した。
とがめた顔の子供は、ほっと嬉しそうな笑顔になり、そこに神の潤いが漂った。
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今日もすべてを益として下さる神に目を向け、「すべての事について感謝」を心に刻みつつ。


今日の聖人の記念日

2014年10月13日 06時41分14秒 | キリスト教

聖エドワード王

1003年-1066年

 エドワードは、イングランド王、エゼルレッド2世の子として生まれた。1013年に、イングランドがデーン人カヌートによって征服されたため、エドワード王子は亡命して、フライとノルマンディで教育を受けた。

 1042年、エドワードは、デーン人を撃退したイングランドの国民からイングランド王として迎えられ、即位した。王は、人びとの間にカトリックの信仰を広め、教会・修道院を建て直したりした。またイングランドの教会とローマ教皇との関係改善に務め、教皇レオ9世のもとでの教会会議に司教を派遣したり、教皇使節を受け入れたりした。政治的にも、慈善事業など国家の再建に力を注ぎ、善政を行った。王は、慈悲深く、祈りの精神を大切にし、いつも罪を悔い、ゆるしの秘跡を熱心に受けたので、「告解王」と呼ばれた。ロンドンにあるウェストミンスター寺院はエドワードが建てたもので、イギリス王の戴冠式の場となり、歴代の王の墓所となっている。


◆どこかでストップ

2014年10月13日 06時40分13秒 | 聖書

蜜を見つけたら、十分、食べよ。
しかし、食べすぎて吐き出すことがないように。(箴言二五16)

「腹八分に医者いらず」とは、確かに健康長寿の秘訣の一つだと思います。長生きした板前さんにその秘訣を聞いたところ、こんな答えをしたそうです。「長年いろいろの鳥を料理したが、たいていどの鳥も、


◆神のみこころに添った悲しみは、

2014年10月13日 06時39分23秒 | 聖書

悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ……。(Ⅱコリント七・一〇)

罪のためにたましいが真に嘆くのは、神の御霊の働きである。悔い改めは、自然の花園に咲くにはあまりにも美しい花である。真珠は貝の中に自然にできる。しかし、悔い改めは神の恵みが罪人の中に働かなければ、決して現れることはない。もしあなたがわずかであっても罪に対する憎しみをもっているとすれば、それは神がお与えになったに相違ない。なぜならば、人間性のいばらはただ一個のいちじくの実も結ぶことはないからである。「肉によって生まれた者は肉です。」
真の悔い改めは、救い主と明確な関係にある。私たちが罪を悔い改める時、一つの目を罪に、他の一つの目を十字架に注がなければならない。もし、両方の目をキリストに注ぎ、キリストの愛の光のうちに自分の罪過のみを眺めるとすれば、さらによいであろう。
罪に対する真実の悲しみは、きわめて実際的なものである。もし罪の中に住んでいるならば、だれでも「私は罪を憎む」と言うことはできない。悔い改めによって私たちは、罪が悪であることを見る。単に理論としてでなく、やけどをした子どもが火を恐れるように実際的に見る。通り魔に襲われたばかりの人が盗賊を恐れるように、私たちは罪を恐れる。そして罪を避ける――すべての罪を。ちょうど人々が大蛇を避け、また小さなまむしも避けるように、大きな罪だけではなく小さな罪も避ける。真に罪を嘆く結果、私たちは悪いことばを口にしないために、舌に細心の注意を払う。また過ちを犯さないために、日々の行動に深く注意する。そして夜ごとに心を痛めて自分の足りないことを告白し、朝ごとに心を砕いて祈り、その日一日罪を犯すことのないように神に支えられることを願う。
心からの悔い改めは継続的なものである。信者は臨終の時まで悔い改める。世の普通の悲しみは時とともに忘れられるが、この悲しみは私たちの成長とともに成長する。さらにそれはたぐいなく美しい悲しみなので、私たちは永遠の憩いに入る日までそれを味わうことを許されていることを神に感謝する。

 


第2サムエル記21章10-14節

2014年10月13日 06時38分11秒 | 聖書

21:10 アヤの娘リツパは、荒布を脱いで、それを岩の上に敷いてすわり、刈り入れの始まりから雨が天から彼らの上に降るときまで、昼には空の鳥が、夜には野の獣が死体に近寄らないようにした。



 ダビデによってギブオン人に引き渡されて殺された7人の内に、サウルのそばめであったリツパが産んだ二人の子供がいました。

彼女は自分の息子達が殺されて、その死体が岩の上に放置されました時、彼女は悲しみを持ってそこに来ました。

そして、自分が着ていた荒布を岩の上に敷いてそこに座り、長い間、昼には空の鳥が来て死体をつままないように、そして夜には野の獣が来て死体を奪っていかないように、守り続けました。

 このことを聞いたダビデは、彼女のことを憐れに思って、彼女の主人であったサウルと彼の息子ヨナタンの骨をギルアデの人々の所から取ってきて、それをサウルの父キシュの墓に葬りました。

そして、先に殺害された7人の遺体も、そこに葬りました。

こうして、彼らはその悲しみを共にしたのでした。

また、その思いは民全体の思いとなって、祈りとして天に向けられたのでした。



へブル書7章25節(イザヤ書57章)

2014年10月13日 06時36分29秒 | 聖書

★したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

■O:今日のコラム
私たちがこの地上にいる目的を、一言で言い表すなら回復をもたらすためです。自分自身を、また隣人を、この地を神のものとして回復すること、それを『救い』と言う事もできます。  
どのようにしたら完全な救いを得る事が出来るのでしょう?どうしたら救いが全うされるのでしょう?それは主に近づく事です。主は、キリストにあって主に近づく者を、完全に救うことが出来ます。ハレルヤ!

(1)自分自身の救い
この時代にあって特に注意すべきは、宗教です。宗教はご利益を求めます。主の道に利益はたくさんあります。しかし、それが目的ではありません。求めるべきものは主です。この方を求める事が信仰の目的です。
キリストこそ私たちの信仰の歩みのゴールでなくてはなりません。そうでないなら異端です。異端は端が異なると書きます。キリストに始まって、キリストに終わるのが信仰の歩みです。もちろんそれてしまう事はあります。しかし、それはむなしさをもたらします。
熱心に礼拝しているから、主を求めているとは言えません。一日に5時間祈っているから主を求めているとは言えません。主に心のフォーカスがあっているかどうかです。私たちは、平穏の中で主の御顔を仰ぎ、苦しみの中で主を求めて歩みましょう!全ての状況、問題や感謝、平穏や困難の中で、主を求め、主に近づいていきましょう!そこにすべてがあります!

(2)自分以外の救い
私たちは、自分以外のものに様々なアプローチをします。それは回復を願うからです。プレゼントしたり、手助けしたり、本当に様々です。しかし、その回復の確信は、そのアプローチしている対象が主に近づくことにあります。伝道も教会に誘う事もそう願っての事でしょう。
その人、その対象が神に近づくようにまず祈りましょう!主は『御国がきますように』と祈りなさい、と命じておられます。その人が主に近づいて、主のものとなることは、その人に御国が来たといえるでしょう。その町に主の義、平和、喜びが満ち溢れることは、そこに御国が来たといえるでしょう。その対象が主に近づくために私たちがまずすることは祈る事です。


■A:考えてみよう
これを見た今、『主は、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります』と4回宣言してください。小さい声でも構いません。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月12日(日)のつぶやき

2014年10月13日 01時33分56秒 | キリスト教