座間コミニティー

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◆その頭は純金です。

2014年10月28日 16時24分29秒 | 聖書

髪の毛はなつめやしの枝で、烏のように黒く……。(雅歌五・一一)

主イエスを説明するためには比較するものがない。しかし花嫁であれば、身近で最善の比較を見いだす。
イエスのかしらによって、私たちは主の神性を理解することができる。「キリストのかしらは神です」とあるからである。そして純金のかたまりは、想像し得る限りの最善の比喩であるが、それでも主の尊さ、純潔、親愛、栄光を述べるには余りにも不十分である。イエスは黄金の粒ではなく、無限に大きな黄金のかたまりであり、天地にたぐうべきもののない貴重な存在であられる。被造物は鉄や粘土にすぎず、すべて木、草、わらのように滅びてしまうであろう。しかし、神の被造物の永遠不死のかしらは、いつまでも輝かれる。
ふさふさとした髪は、主の男らしい力を表す。私たちの愛する主には、いささかの柔弱さもない。主は最も雄々しく、獅子のように大胆であり、雄牛のように勤勉であり、鷲のように軽快であられる。かつて、人々に侮られ、捨てられたが、すべての想像を絶した美がそこに見いだされる。
 主のかしらは麗しい黄金
 甘美な香りに満たされ
 烏の羽のように黒い毛が
 ふさふさとその肩にかかっている
主のかしらの栄光は刈り取られることなく、とこしえにたぐいない栄光をいただく。
黒髪は青年のはつらつさを示す。イエスには青春の露が宿っているからである。人は歳月とともに活気を失う。しかし、主はメルキゼデクのようにとこしえに祭司であられる。人は来てまた去って行く。しかし、主は神として世々限りなく御座に座しておられる。
私たちは今夜主を見、主をあがめよう。天使は主を仰ぎ見る。主によって贖われた者は主から目を背けてはいけない。主のような愛すべきお方がどこにおられるであろう。おお、主と一時問の交わりをもちたい。わずらわしい心労よ。去れ。イエスは私を引き寄せてくださる。主の後を慕って私は走って行く。

 


第2サムエル記23章13-17節

2014年10月28日 16時23分43秒 | 聖書

23:17 言った。「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。



 ダビデもペリシテ人との戦いに出ていました。

その時は、大変気温の高い時でありました。

そこでダビデは何気なく、「ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」と言いました。

 すると、そのことを聞いた先の3人の勇士の人たちは、ペリシテ人のいる陣地を戦いながら通り抜けて、その井戸の所に行き、ダビデの望んでいた井戸の水を汲んできました。

ダビデは驚いてしまいました。

そんなことまで聞いてくれる人がいるとは思いませんでした。

ですから、彼はその水が運ばれてきても、それを飲もうとはしませんでした。

彼らが自分たちの命をかけて、その水を取りに行ってくれたからです。

ダビデは、自分の愚かさを諭されたことでしょう。

それと同時に、このような主人に忠実な僕達を与えてくださった主をあがめたことでしょう。

彼らは主の御心の故に、ダビデに仕えた人々であったのです。


『悪魔は…言った

2014年10月28日 16時21分04秒 | 聖書

「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい…と書いてありますから」』(マタイ4:4)

最初の誘惑で、主は自分の思いと力ではなく、神の言葉によって生きるという事で立ち向かわれた。
すると、次はサタンもそれに乗っ取って攻めて来た。
「では、神殿の頂から下に身を投げても、神が御使いを遣わし支えて下さると書いてあるではないか」と。
御言葉を自分に都合良く勝手に解釈する誘惑だ。
これに対しても、主は、同じく御言葉を用い「神を試みてはならない」と退けられた。
詩篇91:11,12と比較すると「すべての道で」が抜けている。
神の御旨に従い、御心の中にいるなら守られるとの意味だ。
わがままな自分勝手な事をして守られる保障はない。
サタンは聖書を読む時に、私達を誘惑して、都合の良い解釈をさせようとする。
つまり、御言葉を使って、自分の思いを正当化させようとするのだ。
それが御言葉なので気づかない。
実は神の御心でなく自分の思いだ。
サタンの罠だ。
よく気をつけなければ、自分の思いが強いと、自分の思いがフィルターとなり、
御言葉を読み込んでしまう。
神の御声と勘違いする。サタンの惑わしだ。
ここにも悪魔が働いている事をわきまえ、自分の思いを神に明け渡す事だ。
右でも左でも、白でも黒でも、御心に従いますの態度に立つ時、正しく導かれる。
サタンに足場を与えない。
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自分の思いが強すぎて、目の前の現実に不満があるなら、いつしかサタンと会話して行っている。
御言葉に立つ時、心はしっかり守られる。
私たちは弱い。それを覚えて歩もう。


今日の聖人の記念日

2014年10月28日 06時38分12秒 | キリスト教

聖シモン 聖ユダ使徒

1世紀

 シモンは、イエス・キリストの12人の弟子であり、シモン・ペトロと区別するために、熱心党というグループに属していたことから「熱心党のシモン」と呼ばれている。彼は、カナン人であり、使徒のなかでも特に信仰が深く、モーセの律法を厳格に守っていた。

 ユダは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダと区別するために「タデオと呼ばれるユダ」といわれる。彼は、新約聖書によると小ヤコブの兄弟であると記され、キリストの親類とされている。彼はキリストの昇天後、ユダヤ、シリア、小アジアなどで宣教したといわれ、64年ごろに小アジアの諸教会に書簡『ユダの手紙』を書き、信者たちが誤った教えに陥らないように警告し、祈り、神の愛にとどまるよう教えている(参照 ユダの手紙4.8)。

 のちの伝承によれば、シモンとユダはペルシャで宣教し、そこで殉教したといわれている。


◆悪  い  冗  談

2014年10月28日 06時36分58秒 | 聖書

(分別を失った者)は、燃え木を
死の矢として投げるが、
 隣人を欺きながら、
「ただ、戯れただけではないか。」
と言う者も、それと同じだ。          (箴言二六18―19)

ユーモアは、人生の潤滑油です。私の友人で、こんな電話を知り合いの人にかけた人がありました。「もしもし、こちらは電話局ですが、きょう午後一時ごろお宅の電話回線の大掃除をしますので、ごみが出るかもしれません。お宅の電話の受話器に、ビニールのカバーをしておいてください。」「はいはい、そうします。ありがとうございました」と、相手は大まじめで答えました。しばらくしてから、かつがれたと分かって大笑いとなりました。
少しぐらい人をかつぐところがあっても、よいユーモアは人生を楽しくします。自分自身が全くの善意に立ち、また人の善意を素直に信頼し、自分をふくめて、人間の弱さや愚かさを客観的にながめるところに、ユーモアがあります。
しかし、まるで、火薬庫の中に火のついたたいまつを投げこむような悪い冗談もあります。ある会社のサラリーマンは、エイプリルフールだといって、「あのなあ、新宿のラブホテルからA君とBさんが出てくるところを、きのう見ちゃった」とやってしまい、AさんBさんは二人共、会社をやめなければならないような破目になりました。まことに悪い冗談です。「なに、ちょっとからかっただけさ」と、しらばくれてすむ問題ではありません。
善意がなく、人の徳を建てる気持ちがなく、自分ばかり賢そうに立ちまわり、自分が一番愚かで弱い者だと認める勇気がない偽善者には、冗談を言う資格がないのではありませんか。ほんとうのユーモアが流れ出る人は、思いやりのある人に違いないと思います。

 


◆わたしが世からあなたがたを選び出したのです。

2014年10月28日 06時35分52秒 | 聖書

(ヨハネ一五・一九)

ここに区別する恵み、選び出す愛について記されている。なぜなら、ある者は神の愛が特別にそそがれる対象とされているからである。この選びの崇高な教理を恐れてはならない。あなたの心が最も重苦しく衰える時、これはあなたにとって最高の強心剤となる。
恵みの教理を疑い、それを日陰に投げ捨てる者は、エシュコルの尊いぶどうのふさを口にすることができない。彼らはよくこされたぶどう酒や髄の多いあぶらみを失う。ギルアデの乳香もこれに比することはできない。ヨナタンが、森の中で見いだした蜜を口にするとすぐにその目が輝いたとすれば、この蜜はあなたの心を明らかにし、神の国を愛させ、学ばせるものである。過食を恐れずこれを食べよ。それを味わい、それがおいしすぎるなどと恐れてはならない。王の食卓の食物は、その廷臣の一人でも害することはない。
あなたの心が大きくされ、神の永遠の差別的な愛をさらに深く悟ることができるように願え。あなたが選びの高峰を登りつめたならば、その姉妹峰である恵みの契約の峰で休息せよ。神の契約は、その陰に私たちが身を置く巨大な岩である。神の契約は、キリスト・イエスを保証人としてもち、震えおののくたましいの静かな憩いの場所なのである。
 神の誓いと契約と血は
 荒れ狂う怒濤の中にも私を支え
 地の支柱がすべて洗い去られる時も
 なお、わが力またわが支えである
もしイエスが私を栄光の中に伴おうとされ、また父なる神が、御子のたましいの苦しみの報酬の一部として、私を御子に与えることを約束されたならば、たましいよ、神ご自身が不誠実となられ、イエスが不真実となられないかぎり、おまえは安全である。ダビデが主の箱の前で踊った時、彼はミカルに、神の選びがそうさせたのだと語った。
私のたましいよ。恵みの神の御前に歓喜せよ。そして心の喜びに踊り上がれ。

 


第2サムエル記23章8-12節

2014年10月28日 06時34分40秒 | 聖書

23:10 彼は立ち上がり、自分の手が疲れて、手が剣について離れなくなるまでペリシテ人を打ち殺した。主はその日、大勝利をもたらされ、兵士たちが彼のところに引き返して来たのは、ただ、はぎ取るためであった。



 ダビデの下には3勇士がいたと語られています。

ヤシュブアム、エルアザル、シャマでありました。

それぞれの勇士は、民がペリシテ人と戦っている時に、恐れて逃げてしまうような時がありましたが、彼らは立ち止まって戦い、大きな勝利をもたらした人物達であったというのです。

初めに、戦いに力を持っていたのはダビデでした。

しかし後には、民のために戦って勝利を収めた人々は、このようなダビデの下に備えられた勇士達でありました。

教会でも同じです。

初めは、牧師たちが伝道のために戦っています。

しかし、いつまでも一人で戦いに出ることは出来ません。

このような伝道のための勇士が与えられる時、教会は力を与えられて、伝道の働きに勤しむことが出来るようにされるのです。

伝道のみではありません。

教会のあらゆる働きが整えられるのです。

こうした人々が与えられるよう、共に祈りましょう。



ヨハネの福音書8章31 - 32節

2014年10月28日 06時31分59秒 | 聖書

★そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」


■O:今日のコラム
ヨハネ1章を読むと、ことば(ロゴス)は神であり(ヨハネ1:1)、ことばが人となって私たちの間に住まれたと書かれています。(ヨハネ1:14)

つまりイエス様は、神のことばの現れであり、神のみことばに満ちている方であることが分かります。

このことからも私たちがこの地上で私たちを通してイエス・キリストを現すために、またキリストと似た者となるために、私たちの内に神のことばが満ちていることの大切さが分かります。それなので、単純に暗唱聖句をしたり、みことばを朗読するのはその第一歩になるのだと思います。先日、ウガンダのトランスフォーメーションで用いられているジョン.ムリンジ師は、毎日聖書を50章朗読し、夫婦の会話もみことばを使って会話するという証を聞きました。私自身もみことばが生活に満ちることを願い、子どもと一緒に暗唱聖句に励んでいます。

また、今日のみことばから単にみことばが口のことばとして満ちているだけでなく、そのみことばの中にとどまる必要があることも分かります。「とどまる」を原語で調べてみると、「とどまる」「住む」とい意味の他に「忠実に守る」という意味も含まれていることが分かりました。知っているだけではなく、私たちの生きざまになるまで心に刻まれる必要があるのです。私たちの生きざまになる時、本当の意味でみことばを知っていると言え、また私たちを通して神の光が、キリストの香りが解き放たれるのだと思いました。

私たちはこの地上で光の子として、またキリストの香りを放つ存在として召されています。そのために是非、自分の生活を神のみことばで満たして行きましょう。みことばを握って宣言して行きましょう。トランスフォーメーションは私たちの内側から始まって行きます。


■A:考えてみよう
暗唱聖句、みことばの朗読を積極的にして行きましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月27日(月)のつぶやき

2014年10月28日 01時37分59秒 | キリスト教