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◆神のみこころに添った悲しみは、

2014年10月13日 06時39分23秒 | 聖書

悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ……。(Ⅱコリント七・一〇)

罪のためにたましいが真に嘆くのは、神の御霊の働きである。悔い改めは、自然の花園に咲くにはあまりにも美しい花である。真珠は貝の中に自然にできる。しかし、悔い改めは神の恵みが罪人の中に働かなければ、決して現れることはない。もしあなたがわずかであっても罪に対する憎しみをもっているとすれば、それは神がお与えになったに相違ない。なぜならば、人間性のいばらはただ一個のいちじくの実も結ぶことはないからである。「肉によって生まれた者は肉です。」
真の悔い改めは、救い主と明確な関係にある。私たちが罪を悔い改める時、一つの目を罪に、他の一つの目を十字架に注がなければならない。もし、両方の目をキリストに注ぎ、キリストの愛の光のうちに自分の罪過のみを眺めるとすれば、さらによいであろう。
罪に対する真実の悲しみは、きわめて実際的なものである。もし罪の中に住んでいるならば、だれでも「私は罪を憎む」と言うことはできない。悔い改めによって私たちは、罪が悪であることを見る。単に理論としてでなく、やけどをした子どもが火を恐れるように実際的に見る。通り魔に襲われたばかりの人が盗賊を恐れるように、私たちは罪を恐れる。そして罪を避ける――すべての罪を。ちょうど人々が大蛇を避け、また小さなまむしも避けるように、大きな罪だけではなく小さな罪も避ける。真に罪を嘆く結果、私たちは悪いことばを口にしないために、舌に細心の注意を払う。また過ちを犯さないために、日々の行動に深く注意する。そして夜ごとに心を痛めて自分の足りないことを告白し、朝ごとに心を砕いて祈り、その日一日罪を犯すことのないように神に支えられることを願う。
心からの悔い改めは継続的なものである。信者は臨終の時まで悔い改める。世の普通の悲しみは時とともに忘れられるが、この悲しみは私たちの成長とともに成長する。さらにそれはたぐいなく美しい悲しみなので、私たちは永遠の憩いに入る日までそれを味わうことを許されていることを神に感謝する。

 


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