座間コミニティー

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◆もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、

2014年10月04日 16時48分59秒 | 聖書

御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。(Ⅰヨハネ二・一)

たとえ罪を犯しても、私たちには弁護してくださる方がいる。ヨハネは「もしだれかが罪を犯したなら、その者は弁護する者を失う」とは言っていない。私たちは罪人であるが、「私たちには弁護してくださる方があります」と言っている。これまでに犯したすべての罪、これから犯すすべての罪も、主イエス・キリストを弁護者としてもつ信者の権利を奪えない。
私たちの主に与えられている名前の深い意味よ。主は、私たちが必要とする弁護者である。イエスとは、人を救うことが任務であり、それを喜びとするお方の名だからだ。「その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすばらしい名は、主の成功を意味している。
次に「キリスト」とは、油を注がれた者の意である。これは主の弁護の権威を示す。キリストは私たちの弁護をする権利をもっておられる。主は父なる神ご自身が任命された弁護者であり、選ばれた祭司であられるからだ。神が大能なる主を選ばれたため、私たちは安心して、自分の問題を神が信任されるお方にゆだねることができる。主はキリストであるため、権威を受けられた。主はキリストであるため、資格を備えておられる。油を注がれることは主のお仕事に全くふさわしいからである。主は、神の御心を動かすように嘆願することがおできになる。油を注がれた主が、立ち上がって私のために嘆願される時、主はなんとやさしい、説得力をもったことばを用いられることであろう!
さらに主の名には、「義なる」ということばがついている。これは、主の品性であるばかりか、主の抗弁である。ご自身が義であるという抗弁によって、私に対する不正の告発を弁明してくださる。主はご自身が私の代理であることを宣言し、主の従順を私のほうに振り替えてくださる。
私のたましいよ。おまえは弁護者として最適の友をもつ。おまえの一切を主の御手にゆだねよ。

 


「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、

2014年10月04日 16時48分17秒 | 聖書

自分の心で自分を窮屈にしているのです」(Ⅱコリント6:12)

パウロが「心を広くしてください」と言っているように、コリントの人々は自分で自分の心を狭くしてしまっていた。
人から狭くされるのではない。
自分が窮屈にするのだ。自分の罪を認めなかったり、御霊からの促しや指し示しをきちんと受け止めなかったり、自分の失敗を隠したり、そういう時、自分が心を閉ざしてしまう。
段々聞かなくなり、自分で心をねじ曲げて行ってしまう。
すねた思いや自己憐憫に閉じこもる。
失敗した時に、素直に認めて、悔い改めるのではなく、自己弁護し、言い訳を重ねるだろうか。
そうすると、実は更に自分を狭くして行ってしまう。
経験あるかも知れない。自分のした事に対しては、責任が伴う。
責任を取るとは、きちんと自分のした事を認め、悔い改める事だ。
人に罪を犯したなら、謝罪する事だ。その時、赦しを受け取り、全き平安を得る。
主からの叱責、人からの忠告を受け取らない事も、自分を窮屈にする。
種蒔きの「土地」は問題だ。土地は心だ。
あなたの今の心はどうだろう。屈折していないか。
素直な心で御言葉に向かおう。状況でなく、問題は心の態度だ。
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状況も人も、自分の心をどうにかする事はできない。
自分の心を屈折させるのは自分自身だ。
自分のものとして認める事が解決の始まりだ。


◆主によりたのむ者の幸い

2014年10月04日 07時38分44秒 | 聖書

私は、なまけ者の畑と、
思慮に欠けている者のぶどう畑のそばを、通った。
すると、いばらが一面に生え、
いらくさが地面をおおい、
その石垣はこわれていた。   (箴言二四30―31)

伝説によると、ソロモンは側近の者に言ったそうです。「この畑の持ち主は、なまけ者で貧乏で、また愚か者に相違ない。」「どうしてお分かりですか。」「少し手入れをすればりっぱなぶどう畑になるものを、このように捨てておくからには、きっとなまけ者だ。なまけるくらいだから貧乏で、なまけて貧乏するくらいだから、必ず愚か者に違いない。」
しかし、この所を読んで、私は別な話を思い出したのです。自分で八年間羊の牧場を経営し、そして今は牧師になっているフィリップ・ケラーさんの話です。ケラーさんの隣の牧場は草がろくに生えず、羊は放っておかれ、がつがつとうろつきまわるほかありません。きたないにごった水しか飲ませてもらえず、やせほそって病気持ちで、いつも寄生虫にやられ、ごろごろ死んでいくのです。クーガやコヨーテに食い荒らされ、羊どろぼうに盗まれていました。その牧場の羊の飼い主は、利己的で冷淡で無関心でなまけ者だったというのです。もし私たちがそんな牧場の羊だったとすれば、人生は荒廃・不満足・争い・孤独・絶望が絶えないでしょう。それは、悪魔を羊飼いとして、罪の牧場に生活する人生の姿です。
しかし私たちが、迷った一匹を何を犠性にしても捜し出し、そのためにはいのちも捨てるような愛の神に所有され管理される羊だったらどうでしょう。愛の神は、配慮に満ちた熱心な羊飼いなのです。ダビデは歌いました。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」(諸篇二三1―3)。ふらふらと気ままに過ごし罪に従う人生から、神の畑や牧場に身を置くようになりたいとお思いになりませんか。

 


◆夕暮れ時に、

2014年10月04日 07時37分56秒 | 聖書

光がある。(ゼカリヤ一四・七)

私たちはしばしば不吉な予感をもって老境を見、夕暮れになっても光があることを忘れている。多くの聖徒にとって、老年は生涯の黄金時代である。船乗りが不朽の国の岸辺に近づくとともに、心地よい風が頬をなで、波は静まり、深い荘厳な静けさがあたりをおおう。老年の祭壇からは、青年の頃の燃え上がる火のひらめきは上らない。しかし、さらに真正な、さらに熱心な炎が残っている。
巡礼者たちは、べウラの地に着いた。その幸福の国で過ごす日々は、この地上における天国のようだ。天使たちが訪れ、天上の風が吹き、楽園の花はその中で生長し、空気は神々しい音楽で満たされている。ある者は何年かここに住み、ある者はしばしとどまっただけで立って行く。しかしそれは地上におけるエデンの楽園である。私たちがその木陰に憩い、果実が熟するのを待ちたいと思うのも当然である。夕日は天空にある時の太陽より大きく見え、栄光の輝きは夕日を囲む雲のすべてを染める。苦痛は人生のたそがれの甘美な静寂を乱さない。なぜなら、力は弱さのうちに完全に現れ、すべての苦痛に忍耐をもって耐えるからである。尊い経験の成果が人生の夕暮れに収穫され、たましいは安息に入る備えをする。
さらに、主の民は臨終の時に光を楽しむ。未信者は、死の陰が迫り、夜が来て、人生の灯がまさに消えようとしていると言って嘆く。しかし信仰は叫ぶ。「いいえ。夜が更けて、真の日が明けようとしているのだ」と。
光は来る。不滅の光よ! 御父の顔の光よ! あなたの足をベッドの中でひきしめよ。あなたを待つ天使の群れを見よ。天使はあなたを運び去る。さようなら、愛する者よ。あなたは行く。あなたは手を振る。ああ、いよいよ光は来た。真珠の門は開かれ、黄金の大路は碧玉の光で輝いている。私たちは目をおおう。しかし、あなたは私たちの見ることのできないものを見る。兄弟よ。あなたは私たちのまだ見たことのない夕べの光を得ている。

 


第2サムエル記19章41-43節

2014年10月04日 07時36分33秒 | 聖書

19:43 イスラエルの人々はユダの人々に答えて言った。「われわれは、王に十の分け前を持っている。だからダビデにも、あなたがたよりも多くを持っているはずだ。それなのに、なぜ、われわれをないがしろにするのか。われわれの王を連れ戻そうと最初に言いだしたのは、われわれではないか。」しかし、ユダの人々のことばは、イスラエルの人々のことばより激しかった。



 イスラエルの人々は、ダビデに初めから従ってきた人々であったようです。

ところがユダの人々は、アブシャロムに初めについていた人々であって、後にダビデに付き従うことを決めた人々であったようです。

そのユダの人々が、ダビデの所に行って、ヨルダン川を渡ってエルサレムに帰ってくるように求めました。

そして、実際に彼らの要請に応えて、ダビデは彼らと共にヨルダン川を渡ってエルサレムに来たのです。

ヨルダン川というのは、ちょうど敵と味方の分かれ目になったところでした。

 ところが、そのヨルダン川をダビデに渡らせたのはユダ族であったために、イスラエルの民は文句をつけました。

権威の侵害であるといったのです。

権力争いです。


テトス3章5~6節(イザヤ49章)

2014年10月04日 07時33分18秒 | 聖書

★神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。

■O:今日のコラム
何年か前のことになりますが、朝の二時間を神様に祈る時間としたい!という思いから早天に行くようになりました。

しかし、仕事が前日夜遅かったり、寒すぎて布団からでられなったり、、、情けない理由もたくさんあって、二時間祈れていないことが多くありました。

祈れた日と祈れなかった日で、それぞれ自分で勝手に自分のことを評価し、苦しなっていたときに「こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。(マタイ15:6)」とみことばが与えられ、ハッと我に帰りました。

当時は、「パンを食べるとき手を洗うこと」が儀式的に必要とされていて、もし手を洗わらなかったら神から離れている、しまいには手を洗うことが自分の救いを達成するために必要不可欠であるように伝えられていました。

彼らと同じく、私の中に救われるためになにかプラスしたい、プラスしなきゃいけないのではないか、という思いがあることに気付かされました。

確かに祈ること、捧げること、奉仕すること、いろんなことは全て有益だと思います。しかし、私たちの贖いは既に十字架で「完了した」ものであることが聖書にハッキリと書いてあります。

その圧倒的な十字架の愛ゆえに、一つ一つの行いが義務でなく喜びである者に変えられていきたいと願います。


■A:考えてみよう
自分の行いにフォーカスするとき、人と比較することが容易になります。テトス3:9には「しかし、愚かな議論、系図、口論、律法についての論争を避けなさい。それらは無益で、むだなものです。」とあります。私たちが、ただ十字架に焦点をあて、その恵みとあわれみゆえにこういった論争を避け、十字架によって一致することが出来ることを祈ります。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月3日(金)のつぶやき

2014年10月04日 01時34分33秒 | キリスト教