座間コミニティー

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◆庭の中に住む仲間たちは、

2014年10月30日 16時11分13秒 | 聖書

あなたの声に耳を傾けている。私にそれを聞かせよ。(雅歌八・一三)

主イエスは、ゲツセマネの園を去り、今主の教会の園の中に住んでおられるが、あの園のことをよく覚えておられる。そして今住んでおられる教会の園においても、主の幸いな仲間に加わっている者に、御心を打ち明けてお語りになる。その御声には、すべての人間の音楽も及ばない愛のメロディーがある。
地上における何万の人々、天上における何百万の人々が、その調和のある音楽を楽しんでいる。私がよく知り、うらやましく思っていた人々は、今なつかしい御声に耳を傾けている。おお、私もその喜びにあずかることができたなら! これらの人々のうち、ある者は貧しく、他の者は長く病床にあり、さらにある者は死の門に近づいている。しかし、おお、私の主よ。あなたの御声さえ聞くことができるならば、私は喜んで彼らと共に飢え、やせ衰え、共に死にたい。
かつて私は、しばしばあなたの御声を聞いていました。しかし、あなたの御霊を悲しませました。私をあわれみ、私のところに帰ってください。再び「わたしがあなたの救いだ」と御声をかけてください。他のどのような声も私を満足させません。私はあなたの御声を知っています。私に御声を聞かせてください。あなたが何と言われるかは知りません。そして、条件をつけることをしません。愛する主よ。ただあなたの御声を聞かせてください。それが叱責ならば、そのためにあなたをあがめます。私の鈍い耳をきよめるために、肉にとって非常な苦痛である手術を要するかもしれません。しかし、どんな犠牲が必要でも、ただ、御声を聞くことができない者とはしないでください。
今夜、あなたの卑しいしもべの、この願いを許してください。私はあなたの血で贖われ、あなたのものなのですから。あなたが私の目を開き、あなたを見ることを得させてくださったために、私は救われました。主よ。私の耳を開いてください。私はあなたの御心を読みました。今、あなたのくちびるの御声に耳を傾けさせてください。

 


「それは、肉に従って歩まず、

2014年10月30日 16時10分04秒 | 聖書

御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」(ローマ8:4)

「肉の思いは神に対して反抗するもの」とはっきり御言葉に言われているように、それは律法に服従しないし、できない。
神の言葉を聞くと敵対し、反発する心が私達の内にあるのだ。
だから、神の言葉を受け入れない、受け入れたくない心が働く。
肉とはそういうものだ。救われた私達には御霊の内住がある。
それゆえ御霊と肉、二つの生き方が内にある。
これが葛藤する。
どちらかに従い、それは必ず結実する。ある時は朝から気分良く聖書を読み祈りで始める。
親切で良い人だ。しかし、何か事が起きると、怒り、敵対感情むき出しになる。
別人に思うほどに異なる。肉によって歩む私達はハチャメチャだ。
例えば人と問題が生じた時、御霊は「赦せ」と言われる。
しかし、肉は言う「言い返せ。スッとするぞ。図に乗らせるな。
ピシッ!と言った方が今後のためだ」そして肉に従うと、相手にも周囲にも害毒を流し、証しはぶち壊しになり、平安も失せ、何の良い事もない。
経験あるだろう。常に二つの性質が葛藤している。
自分に信仰生活は出来ない事を認めて、自らを明け渡し、御霊に従って歩むことだ。
すると、御霊の助けにより、肉には出来なかった事が、不思議にできるようにされる。
御霊の力だ。「御霊に従って歩む中に律法の要求が全うされる」からだ。
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自分の力では何一つ出来ない。仮に外側出来ても内実が何も無い。
しかし自分の無力をとことん知り、自分に失望し絶望した時に、神のみわざと愛を経験する。
何一つ要求しておられない。
「出来ません。助けて」だけを求めておられる。 


今日の聖人の記念日

2014年10月30日 07時00分21秒 | キリスト教

聖アルフォンソ・ロドリゲス

1531年-1617年

 アルフォンソは、スペイン、セゴビアの裕福な商人の家に生まれ、14歳のときに父を亡くして後を継いだ。26歳のとき結婚し、子どもにも恵まれたが、幸福な家庭生活も束の間、妻や子どもたちが次々と亡くなり、商売も不況という試練に見舞われた。アルフォンソはすべてを神に委ね、これからの人生を神に仕えたいと司祭になることを決心し、イエズス会への入会を望んだ。しかし、34歳という年齢の高さや、体力、学力などの理由で、6年間入会を断わられ続けた。しかし、とうとう管区長は、アルフォンソの熱心さとその徳の高さを認め、修道士として入会を許可した。翌年マジョルカ島のパルマに派遣され、その日から46年間イエズス会の学校の受付として仕事に励んだ。

 学校を訪れる客は、アルフォンソの優しく、礼儀正しい態度に感動し、彼が聖人だという評判が広まり、あらゆる階層の人びとが彼に助言や指導を求めに訪れた。その中に、当時神学生であり、のちに黒人奴隷の使徒となった聖ペトロ・クラヴェル司祭(9.9参照)もいた。

 「神のために忍んだ災難と繁栄の違いは、金と鉛の違いよりも大きい。」
               (聖アルフォンソ・ロドリゲス)


◆巧言令色すくなし仁

2014年10月30日 06時59分02秒 | 聖書

声を和らげて語りかけても、それを信じるな。
その心には
七つの忌みきらわれるものがあるから。(箴言二六25)

「人を見たらどろぼうと思え」ということばがあります。
人間をそのことばどおり信じるな。人のことばは表面上のもので、「その心の中には七つもの忌まわしい思い・悪い心がひそんでいる」というのです。悲しいことです。しかし、悲しい現実ではないでしょうか。
ソロモンは、ことばがじょうずで、心が悪い人の姿を「銀の上薬を塗った土の器のようだ」(箴言二六23)と言いました。銀むくだと人に思わせますが、中味が違うのです。中国でも、「巧言令色すくなし仁」といって、ことば巧みな人は警戒せよ。真実の人は少ない、必ずといっていいほど裏があると警告しています。私たち人間には裏表がある、口と心の不一致がある。――このことは、人を判断するためによく知っておくべきでしょう。しかし、何よりもこれを自らに当てはめてみて、反省材料にすべきではないかと思います。
いったいどんな、いやな心・みにくい心・神に忌みきらわれる心が、私たちのうちにあるのでしょうか。
イエス・キリストは、こう言われました。「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。……内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」(マルコ七15―23)。
イエス・キリストは、またこう言われました。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ四14)。忌まわしい、人をけがすものではなく、こんな新しい泉を心の中に持ちたいものです。

 


◆私は心を尽くして主に感謝します。

2014年10月30日 06時58分08秒 | 聖書

(詩篇九・一)

祈りが答えられた時、いつでも感謝がなされなければならない。それはちょうど天上の愛の太陽が地を暖める時、地の感謝の霧が立ち上るようである。主はあなたにあわれみ深く、あなたの訴えに耳を傾けられたか。それならあなたは生きている限り主に感謝せよ。熟した果物を、それにいのちを与えた源である肥えた地の上に落とせ。あなたの祈りに答え、あなたの心の願いをかなえられた方に歌をささげることを拒んではならない。神のあわれみに対して沈黙を守ることは、忘恩の罪を犯すことになる。それは、病をいやされたのに、いやし主に感謝をしに帰らなかった九人と同様、卑しいことである。
神に対する感謝を忘れるのは、私たち自身を益することを拒むことである。なぜなら感謝は、祈りと同様、私たちの霊的生活の成長を促進する有力な手段だからである。感謝は私たちの重荷を去り、希望を盛んにし、信仰を増進させることを助ける。それは、信者の活力を盛んにし、主の御用のため新しいことを企てる勇気を与える、健全な、また活気ある活動である。
神に対し、受けた恵みを感謝することは、私たちの友をも益する道である。「貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。」もし私たちが「私とともに主をほめよ、共に、御名をあがめよう。私が主を求めると、主は答えてくださった」と言うことができれば、私たちと同様な事情の下にある者は慰められるであろう。私たちの「救いの歌」を聞いて、心の弱い者は強められ、うなだれた聖徒は力づけられるだろう。私たちが詩と賛美と霊の歌とにより、互いに教え、互いに戒めるならば、彼らの疑いや恐れは消え去るであろう。私たちが、主の聖なる御名をあがめるのを彼らが聞く時、彼らもまた「主の道について歌う」であろう。
クリスチャンの義務の中で最もすばらしいのは感謝である。天使は祈ることはしないが、昼も夜も感謝をやめない。贖われた者は白い衣を着、しゅろの枝を手に、うむことなく「小羊はふさわしい」とたたえる新しい歌を歌う。

 


第2サムエル記23章24-39節

2014年10月30日 06時56分50秒 | 聖書

23:24 あの三十人の中には次の者がいた。ヨアブの兄弟アサエル。ベツレヘムの出のドドの子エルハナン。
23:39 ヘテ人ウリヤ。全部で三十七人である。



 ダビデの下にいた、先の30名がどのような人々であったのかということが、その名前を告げられることによって語られています。

そこには、ハドデ人やペレテ人、アナトテ人など、いろいろな民族から出身の人の名前が出てきます。

こうした人々は、それぞれのいろいろな民族の中から出てきたというのです。

その結果として、総数が37名であったというのです。 

先に30名と言っていたのに、その名をあげたあと総数は37名と言っているのはどういうことでしょう。

それは、先の3名の勇士とその下にいる3名の勇士と、1歴代誌11章に書かれている、アフライの子ザバデを加えて、合計37名となったようです。

つまり、このことは、こうしたあり方で組織をを作り上げていったと語っているのです。

組織は、組織のためのものではありません。

秩序を持たせるために組織を作ることによって、主に仕える働きを共にするためであるのです。



ヨハネ10章16節 (詩篇74篇)

2014年10月30日 06時53分05秒 | 聖書

★わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。

■O:今日のコラム
最近、一つになろう運動がこの世で進んでいっています。特に宗教統一など。

イエス様ご自身も私達が主と兄弟姉妹達と一つになることを願っています。しかし、イエス様が言われる一致とは、お互いの違いを受け入れ合うこの世の単なる統一とは違うと私は思います。

今日の箇所から、それが読み取れます。

「彼らはわたしの声に聞き従い」とあるように、唯一の牧者であるイエス様の声に聞き従うことによって、一つの群れになるのです。

私達がみことばを読み、1人1人がイエス様の声に耳を傾け、その言葉に従うならば、必然的に一つとなっていきます。

主に聞き従うとは、時には自分の思いとは違うかもしれません。その時に主に身を委ね従うことができるでしょうか?聞き従う時にこそ一致が生まれるのです。

違いを受け入れるだけでは、一致は生まれません。違いを受け入れ、自分のしたい事をしていたら、結局はバラバラになります。

イエス様が求めている一致はこの世とは違います。唯一の良い牧者、自分の利益を考えず、すべての羊の面倒を命かけてまでもする牧者、この1人の牧者のうちに私達は一つになっていくのです。そのためには、彼の声に日々耳を傾け、聞き従っていく必要があります。


■A:考えてみよう
毎日、どこにいても、良き牧者であるイエス様の声に耳を傾けましょう。そして、彼のいく場所について行き、彼と共に歩んでいきましょう。一致のない所に主にあっての一致をもたらす者となっていきましょう!


■P:祈り
我がうちに住まわれる聖霊様、どうか私が良い牧者であるイエス様の声に聞き従う者となることができるように助けてください。自分を置き、何よりもこの牧者について行くことができる者とさせてください。

イエス様、こんな私を命がけで愛し、また今も、今日も私を守り面倒を見てくださっていることを心から感謝します。あなたについていきます!!

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月29日(水)のつぶやき

2014年10月30日 01時37分55秒 | キリスト教