座間コミニティー

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◆私たちはみな、

2014年10月27日 16時53分48秒 | 聖書

汚れた者のようになり……。(イザヤ六四・六)

信者は新しく造られたものである。聖なる特別な民に属している。神の御霊が彼のうちにあり、あらゆる点で生来の人とは、はるかにかけ離れている。それにもかかわらず、彼はやはり罪人である。地上の生涯を終えるまで。その生来の性質が不完全だからである。
罪の黒い指は私たちの晴れ着の上にしみを残した。偉大な陶工が私たちの悔い改めを完成されるまでは、罪が私たちの悔い改めを傷つける。利己心は、私たちの涙を汚し、不信仰は、私たちの信仰に水をさす。イエスのいさおしを離れては、私たちがなす最上のことも、ただ罪の数を増やすだけである。私たちが最もきよいと見るものも、神の目から見ればきよくないからである。そして主は御使いたちにさえ誤りを認められるほどであるから、たとえ私たちが御使いのような心になったとしても、私たちの愚行を責められるのは当然である。天まで届く賛美の歌、セラフィムの調べにも比すべき歌の中にも、人間の不調和が混じっている。神の御腕を動かすような祈りも、やはり傷つき打ちひしがれた祈りである。そして罪のない偉大なる仲保者がとりなし、私たちの嘆願から罪を取り除かれるゆえに、神の御腕を動かすことができるのである。クリスチャンがかつてこの地上で到達した最もすばらしい黄金のような信仰、最も純粋な聖潔の中にも、なお多くの焼き捨てねばならない不純物がある。毎晩私たちは鏡の前に立つ時、その中に罪人を見る。そして「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです」と告白せざるを得ない。
おお、私たちのような心にとって、キリストの血はいかに尊いことか。主の完全な義は、なんと貴重な賜物であろう。そして今後の、全き聖潔の希望はなんと輝かしいことであろう。今も、罪は私たちの中に住んでいるが、その力はすでに破壊されている。罪はもはや支配力をもたず、背骨を折られたへびである。私たちは罪と激しく戦っている。しかし、戦うべき者は征服された敵である。しばらくすれば、私たちは、何ものにも汚されない都に勝利の入城をする。

 


「心の貧しい者は幸いです。

2014年10月27日 16時53分07秒 | 聖書

天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:3)

「幸い」に二つあって、一つは独立した、周囲に全く左右されないということだ。
すべては上から、神から供給されるので、回りに関係無く、しっかり独立した自立した歩みができることだ。
心の状態で表すと、泉から湧き上がるように、内なる喜びがあり、それは外部に影響されない喜びだ。
もう一つの幸せは、外部からの刺激が必要で、何かの要因がなければ幸せが感じられない。
回りの状況により常に左右され、アップダウンする。
自分にとってラッキーな、ハピーな出来事があれば幸せを感じるが、そうでなければ喜びは無い。
それは人からの評価や、人からの称賛、人が自分をどう思っているか、常に人の目が気になる。
しかし、神にある幸せは、人がどう思おうと、人の評価がどうであろうと、自分自身は十分幸せなので、人は関係がない。
神にあって、自立して生きて行ける。
あなたはどちらの幸せを生きているのだろう。
環境に、人に依存した幸せか、それとも神から来る幸せか。
有形無形、神以外のものに依存して生きている時、それは偶像となり、神との間を妨げる。
あなたは何に依存しているのだろう。
何から幸せを得ているだろう。
御前に静まって、御霊に心を探って頂こう。 
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人は依存しているものの奴隷となる。何に支配されているだろうか。
周りに左右される事なく、みことばの約束に立っていよう。
幸いは自分でも人からでもない神様から来る。


今日の聖人の記念日

2014年10月27日 07時43分28秒 | キリスト教

聖フルメンチオ司教

300年ごろ-380年ごろ

 フルメンチオは、レバノン南部のテュロスの商人で哲学者であるメロピオスの弟子であった。同じく弟子であったエデシオスとともに、師弟はインドへの航海に出たが、途中アビシニア(現在のエチオピア)で捕えられた。メロピオスは処刑され、キリスト教徒であったフルメンチオとエデシオスは、アクスム王のもとに奴隷として連れていかれた。その後、2人は王の行政を助け、キリスト教の宣教をする機会を与えられた。王の死後、自由の身となりエデシオは故郷に戻ったが、フルメンチオは宣教の成果を報告するために、アレキサンドリアに行き、聖アタナジウスによってアビシニアの司教に任命された。フルメンチオは、「Abuna」(われらの父)という称号を得、以後その称号はアビシニア教会の司教に継承された。エチオピアでは、フェレーメナトスとカサーテー・ベルハーンとも呼ばれ、アビシニア人の使徒とされている。


◆干渉か祈りか

2014年10月27日 07時42分17秒 | 聖書

自分に関係のない争いに干渉する者は、
通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ。(箴言二六17)

そんなことをしたために、がぶっとかみつかれる姿が目に浮かぶようです。ところで、この「関係ない」ということばを、私はあまり好きではありません。「カラスなぜ鳴くのカラスの勝手でしょう」という替え歌がはやったこともありました。とにかく、このことばは、「君が君の好きなように勝手にやることに、ぼくも干渉しない。その代わり、ぼくの勝手にすることに、君も干渉するな。君は君、ぼくはぼく。関係ない。関係ない」。こんなふうに、私には聞こえるのです。
むしろ「袖触れ合うも多生の縁」といわれるように、やはり人の汗や涙に関心を持ち、人の悲しみを悲しみとし、人の喜びを喜びとし、人の重荷を分け合って担おうとするほうが、人間らしいあり方だと思います。
では、自分に関係がない争いに干渉するなとは、どういうことでしょうか。できるだけ知らん顔をしていろ、かかわるなという意味でしょうか。そうではありません。
第一に、自分の肉の力はけっして、その争いを解決する力がないのに、あると思いこんで口出しすることではありませんか。
第二に、神だけがほんとうのさばき主・報い主であるのに、自分がすべてを評価しさばくことができると思いこんで、干渉することではないでしょうか。
第三に、祈り深い態度、いいえ、深い祈りそのものによってその当事者と自分の魂とが深くつながっていることなしに、つまりそのような祈りの態度なしに、割って入ることではないでしょうか。
このような意味で関係のない争いに干渉するなら九九%痛い目に会うと、クラークは言いました。干渉したり口出ししたりしないで、人のために祈れる人になりたいと思います。

 


◆次のことばは信頼すべきことばです。

2014年10月27日 07時41分23秒 | 聖書

(Ⅱテモテ二・一一)

パウロはこの「信頼すべき」という意味のことばを四度用いている。その最初はテモテへの手紙第一、一章一五節である。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」次はテモテへの手紙第一、四章八、九節である。「今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです。」第三は、テモテヘの手紙第二、二章一一、一二節である。「次のことばは信頼すべきことばです。『……もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。』」第四は、テトスヘの手紙三章八節である。「これは信頼できることばですから……神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。」私たちはこの四つのことばの相互関係をたどることができる。
第一は、偉大な贖い主の使命の中に示されるように、私たちの永遠の救いの基礎を、神の無代価の恩寵の中に置くものである、第二は、私たちがこの救いを通して得る二重の祝福、現在と永遠との二つの祝福を断言している。第三は、召された人々の義務の一つを示す。私たちはキリストのために苦しむように定められており、「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる」との約束が与えられている。最後のものはクリスチャンの奉仕の活動的な面を示し、良いわざを励むことを命じている。こうして私たちは、無代価の恵みに救いの根底をもち、現在と将来の生活に救いの特権を与えられ、さらに二つの枝――御霊の実によって飾られた、キリストと共に苦しみ、キリストに仕えるという二つの枝――をもつ。これらの確実な信頼すべきことばを心に留めよ。
異邦人への使徒パウロは、これらのことばの確実性を証明した。それは今なお一つたりとも廃ることなく、そのまま受け入れるに足るものである。今これらのことばを受け入れ、その確実性を実証しようではないか。これらのことばを家の四隅に記そうではないか。

 


第1列王記1章1-4節

2014年10月27日 07時39分36秒 | 聖書

1:3 こうして、彼らは、イスラエルの国中に美しい娘を捜し求め、シュネム人の女アビシャグを見つけて、王のもとに連れて来た。
1:4 この娘は非常に美しかった。彼女は王の世話をするようになり、彼に仕えたが、王は彼女を知ろうとしなかった。



 ダビデでも人の子として同じように、年老いて参りました。

その結果、体温の調整が思うように出来なくなって、身体が冷える現実に置かれてしまいました。

そこで側近達は、王の所に、身体の温かい若い女の子を侍らせることにしました。

王の身体を温めるためでした。

今のように電気器具などはありませんから、仕方がありません。

 その為に、とても美しいシュネム人の若い女性アビシャグをみつけ、王の下に侍らせました。

王は若い女性に暖めてもらいましたが、それ以上のことは、彼にも望むべき力がありませんでした。

人の老いはどのような人にも訪れてきます。

いくら、あなたは若いと言われてもです。

その時の到来のことを覚えて、私たちもいろいろな意味で、終わりのために備えをすることが大切であることを覚えるのです。


10月26日(日)のつぶやき

2014年10月27日 01時40分42秒 | キリスト教