座間コミニティー

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◆モーセがクシュ人の女をめとっていた……。

2014年10月06日 17時08分49秒 | 聖書

(民数一二・一)

モーセは不思議な選択をしたものである。しかし、それよりもさらに不思議なのは、モーセにまさる偉大なお方の選択である。ゆりのように美しい私たちの主は、どうしようもない罪人と結婚関係を結ばれた。イエスの愛が、あわれな、失われた罪人の上に注がれたということは、天使たちにとって驚くべきことであった。信者の一人一人がイエスの愛の意識に満たされる時、全く価値のない自分にこのような愛が注がれていることに驚嘆するに違いない。私たちは、自分の隠れた罪、不忠実、邪悪を知っている。広大な、しかもねんごろな恵みを思う時、私たちは感謝と賛美に満たされる。
イエスはその愛の根拠を、ご自身の心の中に見いだされたに違いない。主はそれを、私たちのうちに見いだすことができなかった。なぜなら、私たちの中にそのようなものは何もないからである。私たちは回心後においてさえ、恵みが私たちを美しくしたとは言え、まだ真っ黒である。信仰の人ラザフォードが自分について次のように言ったが、それは私たちにもあてはまる。「主と私との関係は、私が病人で、主が私の必要とする医者である。ああ、私はキリストに対していかにしばしば無定見な態度をとったことだろう。主が縛られると私は解き、主が建てられると私は倒した。私はキリストと争うが、主は一日に二十度も私と和らがれる。」
私のたましいの、最も優しく忠実な夫よ。私たちをあなたの御姿のようにさせるいつくしみ深いみわざを続けてください。私たちのような者を傷も汚れもない者として、あなたの御前に立たせてくださるまで。
モーセは、クシュ人の女と結婚したことで非難された。彼も彼の妻もいやな目で見られた。この空しい世が、イエスとその花嫁に反対したからといって(特に罪人たちが回心した時に反対したからといって)、あなたは驚くだろうか。いつもパリサイ人の反対の論拠となったのは、「この人は罪人を受け入れている」ということだった。この非難の種は今でも残っている。

 


「私の時は、

2014年10月06日 17時07分33秒 | 聖書

御手の中にあります」(詩篇31:15)

ラザロの病気が知らされた時、主はすぐに行かれないで、なお2日とどまられた。
姉妹とラザロを愛しておられたからこそ、2日とどまられたとある。
すぐに行動されなかった理由が「愛」だ。
主には意図があられ、病気を治すより更に大きな、死からよみがえらせるという、ご計画を持っておられた。
祈りが、なかなか答えられないだろうか。
その祈りが神の御心に適わないなら、幾ら祈っても答えられないが、神の御心に適った祈りは、必ず答えられる。
しかし、「時」がある。神が「絶妙の時」をすでに備えておられる。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」。
それはしばしば私達の思いとは異なる。
神の思いは、いつも遙かに高い。
一番美しく神の栄光が現れされる時を、待っておられる。
あなたが祈り続けているその祈りは、一番ふさわしい時に答えられる。
御心にかなった祈りは、必ず答えられる。
神の計られた時に。遅れているのは、神の愛だ。
祈りの答えを通して神の栄光が現れされる。
失望しないで、あなたのその祈りを祈り続けよう。
神はあなたを愛しておられる。
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今知らずとも、必ず神様が最善の時に最善をされる。
叶わない祈りも神様の愛あるお答えだ。
みこころが成されること信じ、祈りの中で自分の思いを明け渡して行こう。


今日の聖人の記念日

2014年10月06日 08時15分44秒 | キリスト教

聖ブルーノ司祭

1030年ごろ-1101年

 ブルーノは、ドイツ、ケルンの貴族の家に生まれた。レンスの大学で学び、1055年に司教座聖堂参事会員になり、神学の教授を務め、また教区の教育顧問に任命された。1075年にレンスの大司教マナセから教区の秘書局長に選ばれたが、マナセが大司教の地位を金で買収していたことを知り、それを告発したため免職された。しかし教皇はマナセを破門し、後任の司教としてブルーノに要請した。彼はこれを断わり、1084年6人の同志とともに、シャルトルーズという地で、祈りと労働による非常に厳しい生活を始めた。これがシャルトルーズ会(カルトゥジオ会)の始まりである。彼らは、清貧、祈祷、労働、学問を基礎とした修道生活を送った。

 その後ブルーノは、グルノーブルの司教フーゴから支援を受け、また、かつての教え子であった教皇ウルバヌス2世から顧問として招かれてローマに行ったが、ドイツ皇帝ハインリッヒ4世に追われ、教皇とともに南イタリアに逃れた。カラブリアの荒野のラ・トレに第2の修道院を作り、そこで厳しい生活を始め、そこからシャルトルーズの仲間たちに手紙を送り励ました。

 シャルトルーズ会は、1688年に教皇より正式に認可され、聖人や学者を輩出した。


◆かなかすを除け

2014年10月06日 08時14分20秒 | 聖書

銀から、かなかすを除け。
そうすれば、練られて良い器ができる。(箴言二五4)

政界浄化が叫ばれて久しいのですが、まことに、銀から「かなかす」を取り除かなければなりません。しかし、政界といわず、私たちの心からもかなかすが取り除かれるべきではないでしょうか。
昔まだ、栃木県の足尾銅山が盛業中のころ、精練所の見学に行きました。純粋な銅・銀・金が取り出されるまでのプロセスに、目を見張りました。まず最初に、大きな鉱石がクラッシャーで粉々にくだかれて、小麦粉のようにまでなってしまいます。次に、その粉を油の中に入れ、油のあわの上に役に立つ原料だけを乗せて集めます。かきまわされて、かすは沈み、原料だけがすくいとられます。そして最後に、何千度という熱でとかし、かなかすを取り除き、純銅・純銀・純金が取り出されるのです。
私は、クリスチャンとして四十年の人生をふりかえる時、数えきれない神の恵みに驚きます。私は真実でなかったのに、神はいつも真実であられたことが、打ち消せない一つの事実です。
もう一つのぬぐいきれない事実があります。もし私が、恵みから恵みへ、祝福から祝福へとひきあげられてきたとしたら、それは、私が何かよいことを成し遂げたとか、すばらしい努力をしたからなのでは、けっしてありません。いつも私が心から悔い改め、心をくだききって神のみ手に陥ったと申しますか、神に従ったことによるのです。
神の求めたもう供え物は、まさしく悔いしくだけし魂なのです。神はそのような魂を愛され、神の恵みを持ち運ぶ、きよい器として、つくりあげられるのではないでしょうか。

 


◆わたしが与える水を飲む者はだれでも、

2014年10月06日 08時13分33秒 | 聖書

決して渇くことがありません。(ヨハネ四・一四)

イエスを信じる者は、現在自分を満足させ、かつ永遠に満足させるものを主イエスの中に見いだす。その信仰の中に、自分を満足させ、幸福にさせる喜びの泉と慰めの源を見いだしている。だから、信者を牢獄に入れてみよ。彼はそこでも良い友を見いだすであろう。信者を不毛の荒野に置いてみよ。彼はそこで天来のパンを食するであろう。また信者から友情を奪ってみよ。彼は「兄弟よりも親密な者」に出会うであろう。信者のこの世にある希望の基礎をくつがえしてみよ。彼はなお主に信頼し、動揺することはないであろう。
人の心は、イエスが入ってくださるまでは、よみのように飽くことを知らない。しかしイエスが来られるなら、杯は満ちあふれる。信者にとってキリストのみがすベてのすべてとなるほど、キリストの中には満ち足りたものがある。真の聖徒はすべてを備えておられるイエスに満足しきっており、その生きた泉からさらに多くを飲みたいという以外には願望をもたない。信者よ。あなたはこの意味において渇くのである。それは苦痛を伴う渇きではなく、愛着から来るものである。あなたはイエスの愛をさらに十分に楽しもうとしてあえぎ求めることが、非常に甘美なものであることを見いだすであろう。
昔の人は言った。「私は手おけを頻繁に井戸に下ろして水を汲んでいた。しかし今、イエスに対する私の渇きは飽くことを知らないようになり、井戸そのものにくちびるをつけて直接飲みたいと思っている」と。信者よ。これが今のあなたの思いであろうか。すべての願望がイエスにおいて満たされ、イエスをさらに知り、イエスとさらに親しく交わりたいと願うほかに何も願わないか。それなら、絶えず水源に来て、価なくしていのちの水を飲め。イエスは決してあなたがいのちの水を飲みすぎるとは思われない。むしろ、いつでもあなたを歓迎し、「飲め。愛する人たちよ。大いに飲め」と言われるのである。

 


第2サムエル記20章3節

2014年10月06日 08時10分54秒 | 聖書

20:3 ダビデはエルサレムの自分の王宮に入った。王は、王宮の留守番に残しておいた十人のそばめをとり、監視つきの家を与えて養ったが、王は彼女たちのところには通わなかった。それで彼女たちは、一生、やもめとなって、死ぬ日まで閉じ込められていた。



 王の下にはいつもそばめ達がいました。

その本来の目的は、王の子孫を確保するためであったようです。

ダビデには10人のそばめがいたと語られています。

アブシャロムが王として立つ前は、ダビデはしばしばこのそばめ達の所に通いました。

ところが、アブシャロムがエルサレムに来た時、家来の勧めによって、ダビデのそばめたちが、アブシャロムによってもてあそばれる者となってしまいました。

そこでダビデは改めてこの地に戻った時に、こうした現実があるものですから、彼女たちの生活を守ることは保証しましたが、彼女たちの所に入ることは二度としませんでした。

敵にもてはやされた者達を、改めて、自分のものとはしたくなかったのです。

このことの中にも、そばめというのが、単なる恋愛対象ではなかったということがわかります。


ピレモンへの手紙20節(イザヤ50章)

2014年10月06日 08時07分42秒 | 聖書

★そうです。兄弟よ。私は、主にあって、あなたから益を受けたいのです。私の心をキリストにあって、元気づけてください。

■O:今日のコラム
ピレモンは立派な信仰者であり、お金持ちであったようです。そこで働くしもべであったオネシモは脱走し、獄中でパウロと出会い、主を受け入れたようです。そして以前は役に立たない者であったのにパウロにとって役に立つ者(オネシモは、有益な者という意味)となりました。主にあるものは束縛の中でも、いのちをもたらしていくことが出来るのです!ハレルヤ!

 パウロは、ピレモンが愛を示す事によって元気付けられたい、と語っています。この元気付けるとは、どのようなものでしょうか?7節の『力づけられた』も同じ語ですが、アナパウオーという言葉が使われています。休む、リフレッシュするというような意味です。アナは『間に』であり、パウオーは『とどまる』です。これは、関係の中に憩うというニュアンスの言葉なのです。ペテロの手紙の『聖霊があなたがたの上にとどまる』も同じ語が使われています。

 私たちはそれを人から受ける事を期待していいのです。パウロはそうしています。私たちは与えるだけ、人からは期待しないという生き方では心が窮屈なのです。もちろん、受けるより与えるが幸いだから、与えることは大きな喜びです。でも受ける事も大事であって喜びである、というスタンスでいることは、互いの間に主にある安らぎをもたらすのです。

 主が私たちとの関係の中にとどまられ休むことを願っておられるように、私たちも互いの中にとどまり休む関係をもたらし、また願い、ますます一つになっていきましょう!


■A:考えてみよう
互いの関係のなかに憩いを求めていこう!


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月5日(日)のつぶやき

2014年10月06日 01時39分09秒 | キリスト教

◆彼は起きて、食べ、そして飲み、 goo.gl/8jcc8D


「ユダ族は、エルサレムの住民エブス人を追い払うことができなかった。 goo.gl/uXC4xT


◆信じてバプテスマを受ける者は、 goo.gl/VF6lSt