座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆主は恵みと栄光を授け……。

2014年10月01日 16時56分48秒 | 聖書

(詩篇八四・一一)

主はいつくしみ深い。与えることを喜ばれる。主が与えられる賜物は、その尊さを測ることができない。日光のように無代価で与えられる。主が選ばれた者に恵みを与えられるのは、それがみこころだからである。主が贖われた者に恵みを与えられたのは、契約のゆえであり、召された者を恵まれるのは、御約束のゆえであり、信者に恵みを与えられるのは、彼らがそれを求めるからであり、罪人に恵みを与えられるのは、彼らがそれを必要としているからだ。主は恵みを、豊かに、適切に、不断に、快く、また主権者らしく与えられる。そして、その恵みを与える方法によって、恵みの価値を一段と高められる。主はあらゆる形の恵みを、自由にその民に与えられる。その民を慰め、守り、きよめ、導き、教え、助けられる。主は、これらの恵みを惜しむことなく、不断に、彼らのたましいに注ぎ入れ、どのようなことが起ころうとも常にそのようにされる。
私たちは病にかかるかもしれないが、主は恵みを与えられる。貧困に陥るかもしれないが、恵みは必ず与えられる。死は必ず訪れるが、恵みは私たちの最も暗い時においても、光をともす。友よ。月日は過ぎ去り、再び落葉の秋が巡ってきても、「主は恵みを授ける」という不朽の御約束は、なんという幸いであろう。
冒頭の聖句にある「と」という短い接続詞は、現在と未来を結ぶダイヤモンドのびょうのようだ。恵みと栄光は常に伴う。神がその民をめとられたゆえに、何ものもそれを引き離すことはできない。主は、自由に恵みを与えられたたましいに、栄光を与えることを決して拒まれることはない。実に栄光とは、恵みが安息日に晴れ着をつけたものにほかならない。恵みに花が咲き、実が結ばれ、熟し、完成したものが栄光である。私たちがいつ栄光を受けるかだれにもわからない。あるいは、この十月が終わらないうちに、聖なる都に行くかもしれない。ともあれ、私たちは遠からず栄化される。栄光を、天の栄光を、永遠の栄光を、イエスの栄光を、父なる神の栄光を、主は必ず選ばれた民に与えられる。おお、忠実な、神のすばらしい約束よ!

 


「さて、モーセという人は、

2014年10月01日 16時55分26秒 | 聖書

地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」(民数記12:3)

謙遜=柔和の代表と言われるモーセ。
しかし、最初からそうではなかった。
始めの40年は王家の王子として過ごした。
人々からもちやほやされるが、事実、あらゆる学問を身につけ、言葉にもわざにも力があり有能な人物であった。
自分をいっぱしと思い、同胞を救う力があると思い込んだが、皆の理解は得られず、結局ミデアンの地に逃げ延びることになった。
見渡す限りの荒野で、何も無い所で、モーセは羊飼いとして生活した。
王家の王子が、荒野で一介の羊飼いとなった。
自分の無力に打ちのめされた。
何一つ出来ない全く力の無い自分を見せられ続けた。
名誉、地位、富、人からの称賛、高慢、プライド、輝かしき将来、すべてをはぎ取られたのだ。
しかし、これこそがモーセの真の富となった。
荒野の訓練の中で、自信に満ちたモーセは砕きに砕かれ、柔和な者と変えられて行った。
神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。
これは普遍の原則だ。
モーセは荒野で砕かれ変えられ整えられ、40年の後、間に合う器として、出エジプトという偉大な働きのために用いられた。
神はへりくだった者を用いられる。
信仰の一番の妨げは高慢だ。今、荒野にいるなら、大きな祝福の一歩手前だ。
へりくだって神に従おう。
-----------
信仰生活の妨げはひたすら高慢だ。
自分をいっぱしと思い、ひとかどと思い、人よりはましと思う高ぶり。
困難や訓練の解答はへりくだりだ。
悩み苦しみにより低くして下さる。
それが真の祝福の道だから。

みことばを悟るとは、素直な心でみことばを聞き、みことばを信頼し、保つことだと学んだ。


今日の聖人の記念日

2014年10月01日 08時01分41秒 | キリスト教

聖テレジア(幼いイエスの)おとめ教会博士

1873年-1897年

 テレジアは、フランス、アランソン市に住む信仰深いマルタン家の末娘として生まれた。
 1877年、母の死を機に、父と4人の姉とともにリジューに移った。テレジアは、2人の姉たちのいるリジューのカルメル会に入ることを望んだが、年が若いという理由で入会はすぐには許可されなかった。

 1888年4月、彼女の熱い望みがかなえられて入会してからは、全てを神に委ね、自分がいかに小さい者であるかを認めながら、祈りの道に励んだ。修道院の生活の中で、彼女は「教会の心、活動の泉である愛」という自分の使命を見つけた。1896年に肺結核が悪化し、苦しみの多い闘病生活での霊的な体験は、彼女をますます神の愛に開かせた。

 「神よ、私はあなたを愛します」という言葉を残し、24歳の若さでこの世を去った。

 院長から自叙伝を記すようにと言われて書いた『自叙伝』は、今日でも世界の多くの人々に読まれている。また、このほかに書簡集『幼いイエズスの聖テレーズの手紙』が残されている。

 祈りをもって宣教したテレジアは、宣教の保護者といわれている。


◆七ころび八起き

2014年10月01日 07時59分50秒 | 聖書

正しい者は七たび倒れても、
また起き上がるからだ。
悪者はつまずいて滅びる。     (箴言二四16)

人生には、いろいろのつまずきや挫折があります。受験の失敗・失職・破産・倒産・離婚……など。そして多くの人が、決定的な打撃を受けて立ちあがれなくなってしまいます。私たちのまわりにも、そんな例が起こっているのではないでしょうか。ある若い夫婦が人から誤解を受け、互いにあなたのせいだと言い合っている間に夫婦の間にひびが入り、妻は男をつくり、二人の子どもを置いて逃げてしまいました。残された夫は、投げやりな憎しみと怒りの心しか持つことができないでいます。「七ころび八起き」できる人は、第一に、心までがくじけてしまわない人です。第二に、過去をはっきりと清算できる人です。第三に、どこかに深い理解者・同情者を見つけた人です。
聖書は、「正しい者は七たび倒れても、また起き上がる」と言います。聖書が言う「正しい者」とは、たびたび申し上げているとおり、自分で自分は正しいとしている人ではありません。神を神と認め、神を正しいとしている人という意味なのです。
キリストの中に罪のゆるしを見いだす人は、けがれくずれた過去から立ち直ることができます。キリストの中に、深い愛と理解と同情を見いだすことができる人は、千万人の敵の中でも立ちあがれます。キリストの愛が心に注がれ、キリストの愛によって内なる人が強くされる時、人はへこたれることがありません。パウロは、このように告白しています。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」(Ⅱコリント四8―9)、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ四13)。

 


◆私たちの門のそばには、新しいのも、古いのも、

2014年10月01日 07時59分02秒 | 聖書

すべて、最上の物があります。私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです。(雅歌七・一三)

花嫁は、自分の作ったすべての果実をイエスにささげることを願う。私たちの心は、「すべて、最上の物」の「新しいのも、古いのも」もち、それらを愛する方のために蓄えている。秋の豊かな果実の季節に、その蓄えたものを調べようではないか。
私たちは新しい果実をもつ。そして新しいいのち、喜び、感謝を得たいと思う。私たちの心に新しい祈りの花が開き、たましいは新しい努力を決意している。
しかし私たちはまた古い果実ももつ。そこに私たちの最初の愛がある。これはイエスの喜ばれたものだ。そこには私たちの最初の信仰がある。何ももたなかった私たちが、それによりすべてを所有するようになった。初めて主を知った時に、私たちには喜びがあった。それを復活させようではないか。私たちは神の約束に関する古い記憶をもつ。病んでいる時にも、神はいかにやわらかに私たちの床をのべられたか。深い水の中でも、いかに穏やかに支えてくださったか。燃える炉の中から、いかに優しく救ってくださったか。実にこれが古い果実である。私たちは多くの古い果実をもつ。神の恵みは私たちの髪の毛よりも多いからである。
古い罪を悔いる必要がある。しかし過ぎ去った時、私たちは主の与えられる悔い改めをした。十字架の下に泣き伏して罪をわび、主の血潮のいさおしを知った。
今朝私たちは、新旧とりどりの果実をもつ。しかし、要は、それがすべてイエスのために蓄えられていることにある。まことに、それは最上の、最も受け入れられるべき奉仕である。そしてこの奉仕において、イエスがたましいの唯一の対象であり、混じり気ない主の栄光が、私たちの努力の目標である。私たちは、多くの果実を、愛する方のためにのみ蓄えようではないか。
イエス様。私たちは自分の園のとびらを開きます。あなたが血の汗を注がれた地に生じた良い果実を盗もうとして入る者は、一人もいません。私たちのすべてはあなたのもの、ただあなただけのものです!

 


第2サムエル記20章3節

2014年10月01日 07時56分12秒 | 聖書

20:3 ダビデはエルサレムの自分の王宮に入った。王は、王宮の留守番に残しておいた十人のそばめをとり、監視つきの家を与えて養ったが、王は彼女たちのところには通わなかった。それで彼女たちは、一生、やもめとなって、死ぬ日まで閉じ込められていた。



 王の下にはいつもそばめ達がいました。

その本来の目的は、王の子孫を確保するためであったようです。

ダビデには10人のそばめがいたと語られています。

アブシャロムが王として立つ前は、ダビデはしばしばこのそばめ達の所に通いました。

ところが、アブシャロムがエルサレムに来た時、家来の勧めによって、ダビデのそばめたちが、アブシャロムによってもてあそばれる者となってしまいました。

そこでダビデは改めてこの地に戻った時に、こうした現実があるものですから、彼女たちの生活を守ることは保証しましたが、彼女たちの所に入ることは二度としませんでした。

敵にもてはやされた者達を、改めて、自分のものとはしたくなかったのです。

このことの中にも、そばめというのが、単なる恋愛対象ではなかったということがわかります。



テモテへの手紙 第二 3章5節(イザヤ書45章)

2014年10月01日 07時53分46秒 | 聖書

★  見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。

■O:今日のコラム

この章を1節をみると、終わりの時代は困難な時代がやってくると書かれています。今がまさに終わりの時代だと信じます。

この5節を特に原語で調べてみると、その実の「実」という言葉に「dynamis」(デュナミス:力)という言葉が使われていました。このデュナミスという言葉は、ダイナマイトの原語でもあり、爆発的な力、偉大な力を意味します。

別な聖書箇所では、

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、及び地の果てにまで、わたしの証人になります。(使徒の働き1章8節)

と使われています。キリストの証人(殉教者)となるための力です。また、別の箇所では、

しかし、イエスは「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから。」と言われた。(ルカによる福音書9章46節)

癒しの力、また奇跡を行う力としても使われています。

2節以降に、自分を愛する者、金を愛する者…と列挙されていますが、このような罪の性質は、私たちに注がれる聖霊の爆発的な力を制限してしまうことが分かります。また、逆にして考えるならば、私たちがキリストの聖さの内を歩むならば、聖霊様の爆発的な力、偉大な力が私たちを通して働くと言えると思います。

神様は聖い方です。また、聖さを愛されます。

神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。(テサロニケ人への手紙 第一 4章3節)

また、聖さを通して神様の力が働きます。

しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。(ローマ人への手紙6章22節)

日々、十字架の下に行き、主の前に悔い改め、血潮により、またみことばにより、聖霊様の力により主からの聖さを受け取って行きましょう。私たちは、聖霊様の力によりキリストの証人(殉教者)となることができます。聖霊の力は私たちという器を通して働くのです。

■A:考えてみよう

日々、悔い改めを持って主の前に出て行こう。また、みことばを持って祈り、聖霊の力を求めて行こう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


9月30日(火)のつぶやき

2014年10月01日 01時41分42秒 | キリスト教