座間コミニティー

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◆私の造り主である神は……

2014年10月19日 16時14分53秒 | 聖書

夜には、ほめ歌を与え……。(ヨブ三五・一〇)

日中ならば、だれでも歌う。杯があふれる時、人はそこからインスピレーションを引き出す。身近に富が山のように積まれている時には、だれでも、豊かな収穫と宝船を送られた神を賛美できる。風の吹く時、イオルス琴(ねこの腸線を反響箱に張った楽器。風が吹くとその圧力で鳴る)が音楽を奏でるのはたやすい。困難なのは、風が少しもない時にこの楽器で奏でることである。日中、楽譜の読める時に歌うのはたやすいが、暗やみの中で暗譜で歌う人は、熟練した人である。夜には、だれでも独力で歌を作ることはできない。それを試みることがあっても、夜の歌は神から霊感を与えられなければ作れないことを知るであろう。
すべてが好都合に運ぶならば、私たちはどこへ行っても自分の道筋に咲く花を摘んで歌を作れる。しかし、緑の全くない砂漠に自分を置く時、どうして神をたたえる歌が作れるだろう。死ぬべき人間が、宝石のないところで、どうして主のために冠を作れよう。この声が、この体が健康にあふれていたならば、私は神を賛美できる。しかし、私の舌を封じ、私を苦悶の床に横たえるなら、神ご自身が歌を与えてくださらないかぎり、どうして神への賛美を歌うことができようか。
しかり。全く逆境の中にある時、祭壇の上から取った燃えさかる炭がくちびるに触れるのでなければ、人の力では歌うことはできない。夜、ハバククが次のように歌ったのは神の歌であった。「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」私たちの造り主なる神は、夜の間に歌をお与えになる。それゆえ、神からの音楽を待ち望もう。
おお。妙なる歌人よ。苦難が自分の上にある時に、私が歌もなく過ごすことのないように。どうか、感激のメロディーに私たちのくちびるを合わせることができますように。

 


「主のみことばは混じりけのないことば。

2014年10月19日 16時13分44秒 | 聖書

土の炉で七回もためされて、純化された銀」(詩篇12:6)

「人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します」言葉は人を生かしも、殺しもする。
両刃の剣だ。人を励まし、力づけ、建て上げて行く。
が、反面、人を深く傷つけ、信頼を壊し、人間関係を破壊して行く。
人の言葉には、虚栄、悪意、欲望、傲慢、嫉妬、自己中心が混じり合っている。
それゆえ互いに傷つけ合う。
平然と嘘を言い、その場を取り繕い、相手を持ち上げ、へつらい、心地良くさせる。
しかし、本心では見下していて、口先だけの調子の良い偽りの言葉を平気で発する。
まっすぐに生きようとする人は、それらに深く傷つく。
人の言葉は何と邪悪なものに彩られている事だろう。
しかし、主のみことばには混じりけがない。
不純物がいっさい無い。純化された銀だ。
神の言葉は純粋であり、真実であり、正義であり、誠実であり、愛だ。
どこまでも信頼できる言葉だ。
悪者は「われらはこの舌で勝つことができる」と言うが、主の御言葉は両刃の剣だ。
主の口から出る真理のみの言葉は、うそとへつらいの唇を打ち砕く。
混じりけのない言葉を持つ私達は、常に主の前に心砕かれ、内側が聖霊の支配を受け、御言葉にふさわしく、真実を語る者とされたい。
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口先でへりくだっていても心にあるものは必ずあらわになる。
みことばに心照らされ、自分の心の内にあるものを識別し、語るべき言葉だけを口から出そう。


今日の聖人の記念日

2014年10月19日 06時59分49秒 | キリスト教

 聖パウロ(十字架の)司祭

1694年-1775年

 パウロは、イタリア、ピエモンテ地方オヴァダの商人の家に生まれ、信仰厚く育てられた。1720年、自分の使命は、キリストの受難に示された神の愛を人びとに伝え、その苦しみを自分たちの生活とする修道会「御受難会」を創立することであると悟った。33歳でに司祭に叙階され、43歳になったとき、仲間とともに修道会の誓願を立てた。「十字架につけられたキリストを宣教する」をモットーに説教をして回り、多くの人びとを感動させ、信仰に立ち返らせた。その後、1771年に女子修道会も創立し、12の修道院を建てた。



 彼は、「イエス・キリストのご受難と聖母の苦しみ、それは私の唯一の希望です」と言って静かに息をひきとったといわれる。

聖イザーク・ジョーグ、聖ヨハネ・ブレブーフ司祭と同志殉教者

17世紀

 聖イザーク・ジョーグ、聖ヨハネ・ブレブーフ司祭と同志殉教者は、1642年から1649年にかけて、カナダで殉教した8人のフランス人イエズス会士たちである。

 1636年、イザーク・ジョーグ神父は「カナダの先住民族の人びとに、福音を知らせたい」と、ヨハネ・ブレブーフ神父、そして仲間といっしょにカナダのケベックに出発した。彼らは命の危険にさらされることも覚悟の上で、現地のイロコイ族、ヒューロン族の文化を尊重しつつ、彼らと生活をともにした。また、ヒューロン語を学んで、カテキズムや辞書を編纂するなどして、宣教した。

 ヒューロン族はたびたびイロコイ族と戦い、ジョーグ神父はイロコイ族に捕らえられ、13ヶ月投獄された。彼は仲間たちとともに、村から村へと連れて行かれ、拷問を受けた。また、ヒューロン族の改宗者が拷問を受けて、殺害されるのを目の当たりにした。

 その後、オランダからの思わぬ助けによって、ジョーグ神父は拷問の傷を受けた体で、フランスに帰国した。神父は人々から英雄として迎えられたが、彼は「ヒューロン族のために働きたい」という夢を捨てきれず、数ヶ月後またカナダに旅立った。

 しかしカナダでは部族間の争いが絶えず、8人のイエズス会士たちは、イロコイ族に捕らえられて、残酷な拷問の末に殉教した。彼らの証しはイロコイ族の人びとの心に刻み込まれ、こうしてキリスト教はカナダの地から消え去ることはなかった。そして、10年後にキリストの教えは人びとから受け入れられるようになった。

 この8人の勇気ある宣教者たちは、1930年に教皇ピオ11世によって列聖され、教皇ピオ12世は、「カナダの保護聖人」と定めた。

 


◆遠い国からのよい便り

2014年10月19日 06時58分21秒 | 聖書

遠い国からの良い消息は、
疲れた人への冷たい水のようだ。   (箴言二五25)

疲れた人が冷たい水を飲んで生き返るような、「良い消息」「よい便り」をお聞きになったことがおありでしょうか。「戦場で死んだと思っていた息子が、生きて帰ってくるというニュース」なんて、よい便りそのものでしょう。また、あるお母さんが電話で、「息子が試験にパスしました」と、泣きながら知らせてくださいました。息子さんは精神障害で、何回も行きつもどりつの人生だったのに、神を信じて立ち直り、試験にもパスした。――それは、お母さんを生き返らせるようなよい消息でした。
私の人生をふりかえってみて、いくら感謝しても感謝しきれない、三つの祝福があります。第一は、争いの絶えなかった家庭が変えられて、仲のよい平和な家庭になったこと。第二は、何のため生きているのか分からなくて、むなしくて寂しくて十六歳の時自殺を図ったのに、今は元気で、生きがいを感じながら使命感に満ちあふれて生きていること。第三は、死んでも死なない永遠のいのちを確信していることです。
そして、私と私の家庭にこの祝福をもたらしたものは、遠いイギリスから、バーネットという一人の女性宣教師が携えてきてくださった神の愛の消息(イエス・キリストのよい便り)だったのです。
聖書は言います。「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宜べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。……『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう』」(ローマ一〇13―15)。

 


◆遠い国からのよい便り

2014年10月19日 06時58分21秒 | 聖書

遠い国からの良い消息は、
疲れた人への冷たい水のようだ。   (箴言二五25)

疲れた人が冷たい水を飲んで生き返るような、「良い消息」「よい便り」をお聞きになったことがおありでしょうか。「戦場で死んだと思っていた息子が、生きて帰ってくるというニュース」なんて、よい便りそのものでしょう。また、あるお母さんが電話で、「息子が試験にパスしました」と、泣きながら知らせてくださいました。息子さんは精神障害で、何回も行きつもどりつの人生だったのに、神を信じて立ち直り、試験にもパスした。――それは、お母さんを生き返らせるようなよい消息でした。
私の人生をふりかえってみて、いくら感謝しても感謝しきれない、三つの祝福があります。第一は、争いの絶えなかった家庭が変えられて、仲のよい平和な家庭になったこと。第二は、何のため生きているのか分からなくて、むなしくて寂しくて十六歳の時自殺を図ったのに、今は元気で、生きがいを感じながら使命感に満ちあふれて生きていること。第三は、死んでも死なない永遠のいのちを確信していることです。
そして、私と私の家庭にこの祝福をもたらしたものは、遠いイギリスから、バーネットという一人の女性宣教師が携えてきてくださった神の愛の消息(イエス・キリストのよい便り)だったのです。
聖書は言います。「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宜べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。……『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう』」(ローマ一〇13―15)。

 


◆キリストにある幼子……。

2014年10月19日 06時57分21秒 | 聖書

(Ⅰコリント三・一)

信者よ。あなたは信仰生活において弱さを嘆くか。あなたの信仰が取るに足らず、あなたの愛があるかないかのようなものであると言って嘆くのか。しかし、雄々しくあれ。あなたは感謝すべき理由をもつ。覚えよ。ある点においては、あなたは最も偉大なクリスチャンと同じである。彼と同様にあなたは血をもって贖われ、他の信者と同様に神の子とされている。あなたは完全に義とされている。義とされていることにおいて程度の差はない。あなたの小さな信仰があなたを完全にきよめた。そのゆえに、尊い契約に対しては、最も進んだ信者と同じ権利をもっている。なぜなら、契約の恵みに対するあなたの権利は、あなたの成長に基づかず、契約に基づくからである。
イエスへの信仰は、あなたの資格を定める尺度ではなく、主にあってあなたが財産を受け継いでいることを示す証拠である。あなたは、最も富んでいる者と同様に富んでいる。たとえ所有物を楽しんでいなくても、実際に所有していることに変わりはない。最も小さな星でも、天において輝いている。最もかすかな光でも、太陽の光と同質である。栄光の家族登録簿には小さな者も大きな者も同じペンで記されている。あなたは家族の最も大きな者と同様に、父なる神の心になつかしい者である。主は、あなたを心から愛しておられる。
あなたはくすぶる燈心のようだ。あわれみのない者は言うだろう。「そのくすぶる燈心を消せ。部屋の中はいやなにおいで満ちている」と。しかしイエスは消すことはなさらない。あなたはいたんだ葦のようだ。指揮者なる方より優しさに劣る手は、あなたを踏みつけるか、投げ捨てるかするであろう。しかし主は決してあなたを折られない。自己に失望し気落ちすることなく、あなたはキリストにあって勝利すべきである。
私はイスラエルの幼子にすぎないではないか。しかしキリストにあって私は天に座らされている。私の信仰は貧弱か。しかしなお私はイエスにあって万物の相続人である。私に誇るべきものはなく空しいが、主にあって喜び、私の救いの神をあがめる。

 


第2サムエル記23章1-7節

2014年10月19日 06時55分43秒 | 聖書

23:3 「イスラエルの神は仰せられた。イスラエルの岩は私に語られた。『義をもって人を治める者、神を恐れて治める者は、
23:4 太陽の上る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らすようだ。』」



 ダビデの口を通して、主が語られた言葉が告げられています。

そこでは、治める人のことが語られています。

教会でも、治める働きについている人々がいます。

牧師や長老と言われたりする人のことです。

時に、役員と言われる人々のことです。

その人々が義を持って治めれば、幸いであるというのです。

義を持って治めるというのは、神様の御心を求めて人を治めることです。

そうした人は、神様に喜ばれるというのです。

また、主を恐れて治める人は幸いであると語っています。

人ではなくて主を恐れ敬って、その主のみことばと御心に従って、人を治めていこうとする人は祝福されるというのです。

自分があがめられるためではない、自分の意見や考えを通す為ではない。

それぞれが皆、神の僕として主の御心をみことばを通して探り求めて、そこに立って民を治め導いていくならば、主の喜ばれる教会になるというのです。


ヘブル人への手紙12章7節(イザヤ62章)

2014年10月19日 06時52分30秒 | 聖書

★訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

■O:今日のコラム
私の両親はしつけが厳しかった記憶があります。
朝あいさつは「おはよう」ではやり直し。「おはようございます」です。
服を裏返しに脱いだら洗濯してもらえない。肘をついて食事をしたら気付いたら食事は食卓からさげられます。
子供の頃は「あーなんて意地悪なんだ!!!」と思っていましたが、今となっては1つ1つ私を愛するゆえに厳しくしつけてくれたんだと言うことが分かり、とても感謝しています。

天の父なる神様も同じように、私たちを愛するがゆえに時に厳しく、時に忍耐を学ばせることがあると思います。

私は「忍耐」が苦手です。パッパッと進んで行くとスムーズだし、気分も良いです。

ローマ5:4
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

しかし、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性は希望を生み出すと書かれています。
ヤコブ1:2-4には忍耐によって成長を遂げた完全なものになると書かれています。


■A:考えてみよう
私たちは忍耐を喜びとし、感謝しましょう。天のお父さんは私たちを愛するからこそ、忍耐を学ばせます。
耐え忍び、祈って、主を待ち望みましょう。

その中で私たちの信仰は今より引きのばされ、イエス様の似姿へ、栄光から栄光へと造り変えられていきます。
これは大きな喜びです!愛されているからこそ通らされる忍耐です。


■P:祈り
愛するイエス様、絶えず愛を注ぎ、御目を注ぎ続けてくれていること感謝します。
忍耐を学ばされる時、私たちは不満を口にするのではなく、感謝し耐え忍びます。耐え忍ぶ事を喜びとします。
全てあなたの恵みです。心から感謝します!
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月18日(土)のつぶやき

2014年10月19日 01時35分06秒 | キリスト教