座間コミニティー

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◆今、

2014年10月07日 18時04分59秒 | 聖書

おまえはだれに拠り頼んで……。(イザヤ三六・五)

これは重大な質問である。これに答えるクリスチャンのことばに耳を傾け、それがあなたの答えであるかどうかを見よ。クリスチャンは次のように答える。
「私は三位一体の神により頼む。父なる神により頼む。神が私を世の初めから選ばれたことを信じるからである。私は、神が摂理によって私のために備え、教え、導き、必要な場合は正し、最後には、多くの住まいのある神の家に伴ってくださることを信じる。
私は御子により頼む。御子はまことの神であり、また人であるキリスト・イエスであられる。私は御子がご自身の犠牲によって私のすべての罪を取り去り、ご自身の完全な義によって私を飾られることを信じる。御子を私の仲保者としてより頼み、私の祈りと願いを、父なる神の御座の前にもち出されることを信じる。そして、終わりの大いなる日にも御子を助け主としてより頼む。私のために嘆願し、私を義としてくださることを信じる。私は御子のご人格、みわざ、今後御子がなされることについてのお約束のゆえに、より頼む。
そして、私は聖霊により頼む。聖霊は生来の罪から私を救うことに着手された。私は信じる。聖霊が、それらの一切の罪を追い出してくださることを。そして、私の短気を抑制し、自我を征服し、理解力を啓発し、激情を抑え、落胆を慰め、弱さを助け、暗黒を照らしてくださることを。聖霊が私のいのちとして、私の中に住み、王として私を治め、全面的に――霊も、たましいも、からだも――私をきよめ、聖徒たちと共にとこしえに光の中に住まわせるため、私を引き上げてくださることを信じる。」
幸いなる信頼よ。御力の決して尽きることのない方、愛の決して衰えることのない方、優しさの決して変わることのない方、決して期待を裏切ることのない忠実さをもち、決して窮地に陥ることのない知恵をもち、その全き善が決して低下することのない方を信頼するとは。友よ。この信頼があなたのものとなっていれば幸いである。今すばらしい平安を、後には栄光を楽しみ、その信頼の基礎は取り去られることがない。

 


「おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、

2014年10月07日 18時04分05秒 | 聖書

すべてのすぐれた知性と仲たがいする」(箴言18:1)

主は私達を、ある対人関係の中に置かれる。
今、ぎくしゃくしている相手があるだろうか。
たまたま境遇がそうなり、不運なのではなく、主がその相手をあなたの前に置いておられる。
神に焦点が合って来ると、神の取り扱いが見えて来る。
「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる」とあるように、人によってとがれるのだ。
性格や考え方の全く違う相手がいるから、自分の姿があらわになる。
皆が皆、同じであれば、ぶつかる事もなく、自分の本性が出ることもない。
自分の出っ張った部分が、相手と摩擦を起こし、自我がぶつかり合う。
本来の自分がいかに自己中心で、頑固で、罪深いかを知る。
ある婦人は結婚して、姑とうまく行かなかった時にいかに、自分も意地悪で冷淡であるかを知った。
私達は目の前の人を通して、取り扱われ砕かれる。
よく来る誘惑が、そこで自分を閉ざしてしまう事だ。
しかし、自分を閉ざすと成長が止まる。
へりくだりを学ばされている。
傲慢が打ち砕かれるためのものだ。
主に焦点を当てて、逃げずに避けずに、心を閉ざさずに学ぼう。成長の時だ。
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嫌な相手を避けて通っても、必ずいつか、逃げられない状況に置かれる。
自分のどこを変えようとしておられるのか、その視点に立たなければいつまでたっても血肉との格闘に終わってしまう。


今日の聖人の記念日

2014年10月07日 07時32分53秒 | キリスト教

ロザリオの聖母

 

 1571年、全ヨーロッパはキリスト教を滅ぼそうとするトルコ帝国の脅威にさらされていた。それに抵抗するために、ベニス、ゼノア、スペインの国々は教皇のもとで同盟を結び、ギリシャのレパント沖でトルコ軍の艦隊を全滅させ、ヨーロッパを守り勝利を得た。この勝利は武力によるものではなく、ロザリオの祈りを聖母マリアにささげたことによるといわれた。そのため、時の教皇ピオ5世は、勝利の日を「ロザリオの聖母マリアの祝日」と定めた。

 ロザリオの祈りは、主の祈りと天使祝詞と栄唱を唱えながら、キリストと聖母マリアの生涯を黙想する祈りである。
(参照:『目からウロコ ロザリオの祈り再入門』


◆謙 遜 と 秩 序

2014年10月07日 07時20分31秒 | 聖書

王の前で横柄ぶってはならない。
偉い人のいる所に立っていてはならない。
高貴な人の前で下に下げられるよりは、
「ここに上って来なさい。」
と言われるほうがよいからだ。(箴言二五6―7前)

イエス・キリストもルカの福音書一四章の中で、同じようなことを話されました。「婚礼の披露宴などに招かれた時、上座に座ってはならない。あなたより身分の高い人が招かれているかもしれないし、この人に席をゆずってくださいなどと席をさげられてはみっともない。かえって、下座に着いていて、上座に招かれたほうが、面目をほどこすことになる」(一四7―11参照)というのです。ユダヤ人には、上座上席を好む人がたくさんいたようです。
私の経験では、日本人の場合は、自分で勝手に最上の席に着く人は、まずいません。どうぞどうぞとすすめても、がんこに末席に陣どって、主催者側を困らせる人のほうが多いようです。これも、実は困りものです。謙遜のように見えて、ほんとうの謙遜ではないかもしれません。こんな場合、私は、二つの原則を当てはめるべきだと思います。
第一は、もちろん真実な謙遜です。私は神に造られ、神なしに生きていけない。私は弱く小さい。しかし神に愛されていると、はっきり心に確信しています。それと同時に、ほかのどんな人をも、同じように神に愛されている人として受け入れていきます。――ここに、ほんとうの謙遜があります。ほんとうの謙遜とは、美しい平等ではないでしょうか。
第二は、秩序を尊ぶことです。「神は混乱の神ではなく平和の神だ」と、聖書にあります(Ⅰコリント一四33参照)。神はすべてのものをお造りになって、その大きな愛の秩序の中に、大きな歯車も小さなねじも、みな大切なものとしてそれぞれに所を与えられました。所を得る。――これが秩序であり、美しいことではないでしょうか。

 


◆なぜ、

2014年10月07日 07時19分50秒 | 聖書

あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。(民数一一・一一)

私たちの天の父は、私たちの信仰を試みるためにしばしば困難をお与えになる。もし私たちの信仰が真のものであれば、試練に耐える。めっきは火を恐れる。しかし純金はそうではない。人造の宝石はダイヤモンドに触れられることを恐れるが、真の宝石はどのような試練をも恐れない。友人たちが真実であり、自分のからだも健康で商売も繁盛している時にだけ、神に頼むことのできる信仰はあわれなものである。しかし友が去り、病気になり、元気を失い、父なる神の御顔が隠されている時も、主の誠実を信じて疑わない信仰こそ真のものである。最高の恐ろしい困難に直面してもなお、「神が私を殺しても、私は神を待ち望み……」と言うことのできる信仰は天から与えられたものである。
また主は、ご自身の栄光を現すためにも、そのしもべに苦難を与えられる。なぜなら、主はご自身の御手のわざである神の民の徳によって、栄光を現されるからである。「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」時、主はこの成長していく徳によってあがめられるのである。糸に触れなければ、たてごとの妙なる音を知ることはできない。またぶどうが酒ぶねの中で踏まれなければ、ぶどうの汁を味わうことはなく、肉桂が粉砕されなければ、その芳香を知ることはできず、石炭が燃え尽きなければ、その暖かさを知ることはできない。偉大なる技師の知恵と力とは、その愛する者たちが通らされる試練によってうかがい知ることができる。
現在の苦痛は、将来の喜びを高めることになる。絵を描くにも、光の美しさを表すには影がなければならない。私たちが罪ののろいと地上の悲哀を知らなかったならば、天上の無上の祝福を得ることができるだろうか。戦いの後の平和こそ楽しく、働きの後の安息こそ喜ばしいものではないか。過去の苦悩の思い出こそ、栄化された者の祝福を大きくするものではないか。
私たちが今朝短い黙想を始めたこの問題について、なおこのほかにも、多くの慰めに満ちた答えがある。今日一日、それを深く考えようではないか。

 


第2サムエル記20章4-10A節

2014年10月07日 07時18分39秒 | 聖書

20:6 ダビデはアビシャイに言った。「今や、ビクリの子シェバは、アブシャロムよりも、もっとひどいわざわいを、われわれにしかけるに違いない。あなたは、私の家来を引き連れて彼を追いなさい。でないと彼は城壁のある町に入って、のがれてしまうだろう。」



 シェバというよこしまな者が、自分で群れを作って、ダビデに逆らいました。

彼の後を、イスラエルの民が従っていきました。

従ってダビデは、ダビデに対する反乱が彼によって起こされるかも知れないと案じました。

ダビデは危機感を覚えたのです。

そこで初めに、彼らを偵察するために、アマサという人を送りました。

しかし、彼は決められた日までに帰ってきませんでした。

そこで、彼はすぐにアビシャイを送り込みました。

彼に、シェバの後を追って、彼を滅ぼせと命じたのです。

 アマサが、なぜ期日までに帰ってこなかったのかはわかりません。

途中でサボッてしまったのか、あるいはそんなに緊急だと思っていなかったのかも知れません。

彼は、自分の考えだけで、物事を判断していたのです。



イザヤ書51章1,4,7,16節、ヘブル人への手紙1章1-3節

2014年10月07日 07時16分19秒 | 聖書

★1 義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。

4 わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする。

7 義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。

16 わたしは、あなたのことばをあなたの口に置き、わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、「 あなたはわたしの民だ」とシオンに言う 。

1 神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、

2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。

3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました 。

■O:今日のコラム
10月7日の朝です。今日1日も、神様の御国とその義とを第一に求めていきましょう。イエス様の御言葉を求めて聞いていきましょう。神様が僕らを力付け、御言葉によって万物を保っておられるからです。

今、主は、僕ら一人一人に語ってくださいます。聖書が、主の言葉だからです。聖書をいつでもどこでも読みやすい時代になりました。(ある国、ある地域では難しいかもしれませんが…)また、聖霊様が僕らの内側に住んでくださるからです。聖霊様は、僕らに聖書を理解する力を与えてくださり、あらゆることを助けてくださる助け手です。そして、聖霊様は、主御自身だからです。三位一体の神様が、御自身の全てをかけて、僕らを愛し、守ってくださるのです。

なぜ、僕らは、主を恐れず、周りにいる人を恐れてしまうのでしょうか。色々な理由があると思います。この箇所で主が言われていることは、僕らが「聞かない」からです。神様御自身が語ってくださる御言葉を求めて聞いていないからです。僕らを造ってくださった主を忘れてしまうからです。1秒1秒に主を求めるならば、僕らは、主の守りの中で生きることができるのです。

僕らの切り出された岩とは、明るみに出されたすべての痛みです。掘り出された穴は、束縛する罪です。そんな僕らのために、切り出されたイエス様の十字架。僕らのために、掘り出されたイエス様の墓の穴。地獄の奥底まで行き、そして、力強く復活されました。暗闇の穴はもうすでに空っぽなのです。束縛は打ち砕かれました。家を建てる者が捨てた石が、土台の一番大切な石となるのです。イエス様が、僕らの土台です。イエス様の言葉が僕らの光です。イエス様が、僕らの義となられました。イエス様が送ってくださった聖霊様を通して、主の御言葉が、僕らの口に置かれました。

この終わりの時には、御子イエス様によって、僕らに語られます。だから、今日1日、主の御言葉を求めて聞いていきましょう。


■A:考えてみよう
御言葉を求めていきましょう。聞いていきましょう。語られたことを書き出してみましょう。今、新しく主との交わりの時間をとりましょう。新しくイエス様から力を受け取るならば、今、何ができますか?


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月6日(月)のつぶやき

2014年10月07日 01時38分46秒 | キリスト教